海士町の広報誌(広報海士、2010年7月号)に、目崎徳衛氏による後鳥羽天皇火葬塚の記事が出ていましたのでご紹介しましょう。
入り口の石碑は、後鳥羽上皇隠岐山陵

徳川幕府崩壊からしばらく経った1873年(明治6年)、明治政府は、後鳥羽天皇(1180〜1239年)の御霊を正式に京都に迎える勅使を隠岐に派遣しています。
火葬塚への昇り口

勅使が離島に来ることは、めったに無いことなので、人情の厚い隠岐の人々は、連日連夜、新鮮なアワビやイカなど海の幸と隠岐の酒を盛大にふるまい、大歓迎をしたようです。
宮内庁は後鳥羽天皇火葬塚と表示しています

思わぬ大歓迎を受けた勅使によって、おごそかに京都に移された御霊(遺灰)は、三千院からほど近い後鳥羽天皇大原陵に改めて埋葬されています。
後鳥羽天皇火葬塚正面

その後、明治政府は海士町に後鳥羽天皇火葬塚の破壊を命じますが、その際、お墓を掘り起こしたところ、上下三段に埋められた(634年前のものと思われる)瓶が見つかったといいます。
塀に囲まれた後鳥羽天皇火葬塚

一番上の瓶は壊れていましたが中に銅銭があり、2番目の青い瓶には、周囲のものとは明らかに質の違う土が入っていたと記録されています。
火葬塚のすぐ近くにある後鳥羽院天皇行在所跡の石碑
これが後鳥羽天皇の遺灰だとすれば、一番下の瓶には何が入っているのか、恐れ多いと感じた町の係員は、中を改めずに埋め戻し、すぐ県に報告したようです。

これは想像ですが、大歓迎を受け有頂天となっていた勅使達は、600年以上前の遺灰などはもう無いと勝手に判断し、島の土か何かを入れて持ち帰り、天皇の御遺灰はすべて持ち帰ったと報告したのではないでしょうか。
大正天皇が皇太子時代に植樹した記念碑(明治40年)
ところが、西南戦争、日清戦争、日露戦争と次々と起こる混乱の中、離島からの報告は放置され、明治の末年になってやっと今日のような姿に整備されたといいます。
昭和天皇が皇太子時代の植樹記念碑(大正6年)

政府に破壊を命じられ、一時無視されていた後鳥羽天皇の本当の御陵は、その間も隠岐の人々によって大切に守られ、破壊と消滅の危機から救われたのです。
今上(平成)天皇が皇太子時代の植樹記念碑(昭和42年)

大正、昭和、今上(平成)天皇という三代の天皇が、皇太子時代に海士町に参拝に訪れ、行在所跡地に植樹をしている事実、火葬塚が本来の後鳥羽天皇陵なのではないでしょうか。
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こんばんは
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ところで
転載されたmasatake_koさんの記事を、一度拝見してみたいものです。
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