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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



和歌山城西の丸庭園は、家康の10男で紀州徳川家初代藩主の頼宣が築造したもので,江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として1985年に国の名勝に指定されています。



頼宣の孫で8代将軍となった徳川吉宗(1684~1751年)は、2代和歌山藩主光貞の4男として和歌山で生まれ、1705年から1716年まで和歌山藩主だったのでこの庭園を見ていることは確実です。



二の丸から御橋廊下を通って西の丸に渡ると、池のようになった堀の中に1972年に再建された鳶魚閣が見えてきます。



江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園は、当時から紅葉渓庭園と呼ばれ藩主の隠居所だったようで、吉宗の祖父頼宣や父親の光貞が使っていたのでしょう。



庭園に入ってみると、鳶魚閣の前から南西側にかけて敷地が高くなり、そこに至る遊歩道の上には雨に濡れたモミジの葉が散乱していて、踏みつけるのが惜しいようです。



吉宗の将軍就任に伴い、吉宗の従兄弟に当たる宗直(1682~1757年)が和歌山藩主を継ぎ、宗直の系統から14代将軍家茂が出ていますので、紀州藩から宗家を継ぐ2人の将軍が出たことになります。

紅葉渓庭園の南西側から見た紅葉と御橋廊下



紅葉渓庭園の南には萱門という出入り口があり、その前にある由緒書に庭園の詳しい説明が書いてありました。



それによれば、かつて庭園の南西の高台から池に向かって3つの滝と渓流があり、高台には懸造の茶室(聞松閣、水月軒)があったようです。

高台下にある紅葉渓庭園の石碑



萱門の外(西の丸庭園の南側)には、山吹渓と呼ばれた本丸の石垣があり、その先には切手門跡があります。



また、萱門から出た西側の鶴之渓門跡には、浅野時代に鶴が飼育されていた鶴之渓庭園跡があるので、和歌山にも野生の鶴が飛来していたようです。


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今年最後の紅葉を見ようと思い、和歌山城まででかけてみると、大手門の右側の石垣上におなじみのハゼノキがありました。



ハゼノキは、大手門から三の丸を経てクランク状になった通路を抜けた二の丸の最も北側にありますが、二の丸にはイロハモミジの株もありました。



二の丸は、紀州藩の政庁があったところで、面積2万1千㎡の広さがあり、初代頼宣と14代の茂承以外の藩主は、この二の丸御殿に住んでいたとされています。

二の丸のハゼノキ



二の丸御殿には、江戸城本丸御殿と同じように表、中奥、大奥があり、表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主の、大奥は正室や側室たちの生活空間でした。

ハゼノキの落ち葉



大奥を置くことが許されたのは、江戸城を除くと和歌山城、名古屋城だけだったので、日本にある城の中でも特別の城だったようです。



二の丸の西側には、堀を挟んで西の丸がありますが、堀には屋根付の橋(御橋廊下)が架けられ、その御橋廊下を通って西の丸に渡ることができます。



御橋廊下は,藩主の生活の場である二の丸と,庭園のある西の丸とを行き来する橋で、大奥の場所にあったため藩主とそのお付の人だけしか行き来できない奥向きの橋とされていました。

御橋廊下の内部



橋を通って西の丸に渡り、そこから見た二の丸の石垣は、江戸時代のままのようでした。



この西の丸には紅葉の美しい庭園があり、紅葉渓(もみじだに)庭園と名づけられています。




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朝日新聞の記事によれば、御堂筋イルミネーション「光の柱列」に使われているイチョウは340本、LEDは100万個だそうです。



初日は点灯開始が遅れたために御堂筋イルミネーションをチョットしか見ることができなかったので、もう一度見てきました。



5時過ぎに中央大通りと御堂筋交差点に到着、北側を見ると暮れなずむ空と点灯されたばかりの光の柱列が良く見えます。



東芝ビルの前から見た御堂筋分離帯には、青いLEDが強烈に光っていました。



本町との交差点から北側を手持ち撮影してみました。(ISO感度を上げすぎたために粗い画面になってしまいました)



備後町3丁目交差点から南側を見る。中央分離帯から写真を撮ろうとするグループがいて、監視員から分離帯に立止まらないよう注意されています。



北御堂の境内に上がる石段の上から見た光の柱列。(歩道を通行する人が意外と少ない)



明治安田生命ビルの南側にあるLEDで包まれた並木です。



御堂筋オドナビル前にはLEDを散りばめた車が展示されていました。



御堂筋オドナビル北側の並木につけられたイルミネーションです。



心斎橋に向かって戻る途中に見た工事現場のクリスマスのイルミネーション。



御堂筋イルミネーションは、会場が1,2キロと長く、御堂筋の両側歩道も広いので、神戸ルミナリエのような混雑はありませんでした。


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12月12日の夕方6時から御堂筋イルミネーションの点灯式があると聞き、本町まで出かけてみました。



御堂筋と本町通りの交差点に到着したのが5時すぎだったので、まだLEDの点灯はありませんが、協賛するビルのイルミネーションはもう点灯されていました。



北御堂の前まで来ると、いきなりイチョウ並木と中央分離帯に敷かれたLEDが点灯したので、もう始まったのかと吃驚しました。



どうやら本番前の試験点灯だったようで、30秒くらいで消灯されてしまいましたが、この付近のイチョウにはオレンジとブルーのLEDが交互に使われていたようです。



さらに淀屋橋に向かって歩くと、野村證券のあるビルの先にLEDでハートマークとMIDOSUJIと書かれた撮影スポットがありました。



明治安田生命ビルの南側には並木をLEDで包み込んだようなイルミネーションがあり、ビル街で一際輝いています。



御堂筋オドナビルの北側にもLEDをちりばめた並木があり、御堂筋イルミネーションの雰囲気を盛り上げていました。



6時までは少し時間があったので淀屋橋を渡って日銀大阪支店の前から大阪市役所のイルミネーションも撮っておきました。



ふと後を振り返ると、日銀の前にあるイチョウの落葉がはじまり、真下にある植木が黄色い花を咲かせているようです。



6時が近づいたので淀屋橋交差点まで戻り、点灯を待ちましたが、大勢の市民が待っているのになかなか点灯されません。



待ちくたびれて帰る人も出始めた6時34分頃、やっと点灯です。



実は、私も地下鉄への階段を下りかけていたので、御堂筋イルミネーションの写真はこの1枚だけとなりました。


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大寒を過ぎた紅葉がどうなっているか、この秋4回目となる大阪城に出かけてみました。



豊国神社の西大鳥居を潜り、手水舎の左先にある小さな鳥居の左側には秋の紅葉の三役がそろい踏みしていて、大寒というよりも初冬の風景を見せていました。



手前の赤がモミジ(大関)、中央の黄色がイチョウ(関脇)、右の朱色がハゼ(小結)と、私が勝手にランキングした紅葉を同時に見ることができました。



しばし、紅葉の三役を楽しみ、右側の本殿に向かうと、手前にも真っ赤なモミジの株がありました。



豊国神社の紅葉を楽しんでから大阪城二の丸一番櫓まで歩き、櫓の北にあるハゼノキの紅葉を観察しました。



折角なので一番櫓のある石垣の上まで昇り、玉造門の西側を見ると、朱色のハゼノキが周囲の暗いトーンの中で一際輝いています。



そのハゼノキの近くまで行って今度は一番櫓を見てみると、ハゼノキ特有の半球型になった樹形が良く判ります。



玉造門を出て、南に進むと、遊歩道の東側の森の中にトウカエデ(唐楓)の黄葉を見ることができました。



東側の石段を下ると、そこにもトウカエデがあり、こちらは日当たりが良いせいか赤く紅葉していました。



トウカエデの紅葉も三役(モミジ、イチョウ、ハゼ)に勝るとも劣らないと思いますが、ふと足元をみるとその落ち葉が絨毯のようです。



大阪城の紅葉は大寒を過ぎた今が盛りかもしれません。


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御堂筋に面した金龍ラーメンで、看板工事をやっていたのを見て、キリンプラザ跡地のLUZ心斎橋ビルを思い出し、通勤ルートを変更してみました。



御堂筋から東に折れ、戎橋に来てみるとLUZ心斎橋ビルの壁面に真っ白いスクリーンができています。



あとで調べてみると、12月2日~6日まで向かい側のビルに設置したプロジェクターを使って3D動画を見せるイベントのためだったようですが、12月7日の朝、同じ場所を見るとNTTドコモの巨大な広告ポスターが貼り付けられています。



6日夜の映写終了後、ゴンドラに乗った作業員が徹夜でポスター貼り工事をしていたようです。



さて、再び御堂筋に戻り、クロスホテルの前まで来ると、庇にささやかなクリスマスデコレーションが飾られていました。



その先の八幡町交差点の横断歩道の中央から御堂筋の南を見ると西側のイチョウだけに朝日が当たっています。



同じ交差点から北を見ると手前の駐車場部分のビルの切れ目から朝日が差し込み、東のイチョウを照らしていました。



長堀通を越え、難波神社の前まで来ると、この当たりのイチョウの落葉は早いようです。



その先にある再開発ビル前のイチョウの落葉もかなり進んでいました。



少し時間があったので南御堂に立ち寄ってみると、境内にあるバショウの株は、意外としっかりとした緑の葉を残しています。



日本のバショウ(ジャパニーズバナナ)は、多年草で耐寒性があり、冬でも枯れることはないようです。


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今年最後の紅葉狩りは、大阪府屈指の紅葉の名所、「明治の森箕面国定公園」を訪ねてみることにしました。



梅田から阪急電車に乗り、宝塚線の石橋駅で乗り換え箕面駅までは僅か26分、駅前からすぐに明治の森箕面国定公園への登山道がはじまります。



1967年「明治百年」を記念して東京都の高尾山とともに国定公園に指定された明治の森箕面国定公園は、昔から滝と紅葉で有名だったようです。

音羽山荘



駅から8分くらい歩いた途中にある音羽山荘の中を覗くと、前日の雨で落ちたモミジが池に浮かんでいます。



森と人間の生活(有岡利幸著)によれば、箕面国定公園は、箕面滝のほとりに役小角によって658年に創建された箕面寺によって開けたようです。

箕面滝



その後、箕面滝の一帯は、修験道の根本道場となり平安末期から鎌倉時代にかけて多くの僧侶や文人が訪れ、鴨長明、西行などが箕面を詠んだ和歌が残っています。



のちに後醍醐天皇から滝にちなんだ瀧安寺(りゅうあんじ)の勅額を贈られて以来、この名前で呼ばれるようになっています。



1570年代に織田信長の兵火を受けて焼失、織田信長は1579年3月に箕面滝を見物したと信長公記にあるので、瀧安寺の焼け跡も見たのでしょうか。



その後一時再建されたようですが、1596年にあった大地震の被害を受けたために、1603年に下流にある現在の場所に移転したようです。

現在の瀧安寺



宝くじの元祖とされる「富くじ」はこの瀧安寺から発祥したと伝わっていて、今も正月に開催されているようです。

参考文献:森と人間の生活(有岡利幸著)


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箕面の紅葉は、元禄年間(1688~1704年)頃より知られるようになり、摂津名所図会には、三千本の楓が見られるとあります。



中でも箕面滝のすぐ近くにある一目千本と呼ばれる場所から見る紅葉は、絶景です。



元禄年間(1688~1704年)の記録によれば「箕面の紅葉は雲外に映え、青松俗間を抜く」とあるので当時から既にかなり高木の楓(モミジ)があったようです。



ここからは想像ですが、滝のほとりにあった瀧安寺(りゅうあんじ)が下流に移転した1603年頃から、寺から滝までの間にモミジの移植が始まり、約100年を経て紅葉の名所となったのではないかと思います。

瀧安寺



特に移転前の瀧安寺があったと思われる場所にモミジが集中して植樹され、一目千本と呼ばれる景観ができたのではないでしょうか。



樹齢800~千年という夕照モミジで有名な河内長野市にある延命寺前山のモミジも、明治以降の移植によって現在のような見事な紅葉林となっているので100年あれば雲外に映える高木の紅葉を見ることができそうです。



江戸時代中期以降になると箕面の紅葉はさらに有名となり、頼山陽、大塩平八郎など多くの文人墨客の来遊があったようです。



今から77年前の1932年の調査によれば、地上1,2mの高さで幹の直径が50cm以上ある箕面山のモミジは65本とされています。



滝に至る遊歩道の途中には茶屋があり、紅葉の中にひっそりとたたずむ姿が絵になっています。



遊歩道のスタート地点となる箕面一の橋の袂には、今回の紅葉狩りで一番赤い紅葉が見られました。



参考文献:森と人間の生活(有岡利幸著)


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大阪城のハゼノキについては先日も紹介しましたが、折角の紅葉シーズンなので再び大阪城まで出かけ、前回見落としたハゼノキを探してみました。



まず大手門の前の外堀に沿って北に歩くと、西の丸から西側に突き出た坤櫓跡の出丸の右側に半球形のハゼノキが見え、かなり落葉がすすんでいるようです。



外堀を右回りに回って京橋門から城内に入ると、肥後石の存在で有名な枡形の上にハゼノキがありました。



この場所は、周囲にある高木のために日当たりが悪いせいか、ハゼノキの色が薄いようです。

肥後石とハゼノキ



ハゼノキなど落葉樹は、秋になると葉柄の付け根にコルク質の離層という組織がつくられ、葉で生産された糖が葉に留まることになります。

極楽橋北側のハゼノキ



この糖から「アントシアニン」ができるハゼノキやモミジなどは、その赤い色素で葉が赤くなるのです。

落葉が進んでいる山里丸のハゼノキ



植物が紅葉する理由としては、光合成をできるだけ永く続けるため、赤い色素を出して秋に弱ってくる葉緑体を保護するためではないかと考えられています。

天守閣西側の内堀石垣上深紅のハゼノキ



「アントシアニン」の合成には、温度と光の条件が重要で、1日の最低気温が8℃以下になると紅葉が始り、5~6℃以下になると一段と進むといわれています。

天守閣とハゼノキ



鮮やかに紅葉するには、日中の気温20~25℃、夜間5~10℃と気温の差が大きいこと、葉が充分日光を受けられること、大気中に適度な湿度があって葉が乾燥しないことなどが重要と言われています。

一番櫓とハゼノキ



しかし、紅葉した葉は老化しはじめており、その葉緑体は光合成活性が低下しているので、それを保護する意義は少ないという考えもあるようなので、正確にはまだよく判っていないというのが正しいようです。

玉造口外側のハゼノキ



最後は、先日紹介した玉造口外側のハゼノキの拡大ですが、これは枝の先に実が付いているのでどうやら雌株のようです。



ハゼノキは桜のような華やかさはありませんが、紅葉の季節を鮮やかに彩り、楽しませてくれるのです。


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葛井寺は、平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになっていますので、河内国屈指の古刹と言えると思います。



また、境内には西国三十三所観音霊場の石碑が置かれ、ここの石碑を廻ることで簡易版西国三十三霊場巡礼ができるようです。

石碑



1096年、大和の藤井安基が当時の寺の荒廃を歎き、伽藍の大修理に尽力した事から藤井寺とも記されるようになり、地名は現在まで伝わって藤井寺市となっています。

境内



葛井氏は、百済第16代王辰斯王の子である辰孫王の後裔で、葛井道麿の代で葛井連(ふじいのむらじ)姓を賜与されています。

護摩堂



1347年の南北朝時代、南朝の後醍醐天皇・後村上天皇が帰依していた関係からか、北朝(室町幕府)の河内守護、細川顕氏が7千の兵を率いて葛井寺に入り、乱暴狼藉があったようです。

観音堂



しかし、すぐに南朝の楠木正行が手勢を率いて奇襲を掛け、細川軍を破ったこと(藤井寺合戦)が太平記に生き生きと記載されています。

大師堂



葛井寺の伽藍は、東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置であったようですが、河内国の守護畠山一族の覇権争い(明応の政変1493年)の際に焼失しています。

三重塔跡



1510年の大地震では、焼失を免れた本堂と宝塔が倒壊、1601年になって豊臣秀頼が南大門(重要文化財)を再建しています。

南大門から見た本堂



本堂(重文)は、1776年に完成した比較的新しい建物で、本堂横の雨水鉢には9年後の天明五年(1785年)の文字が刻まれていました。




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近鉄阿倍野橋駅からわずか13分で藤井寺駅に到着、駅前商店街のアーケードを抜けると西国三十三所観音霊場第5番目の葛井寺(ふじいでら)の西門があります。



この西門は、1601年に豊臣秀頼によって寄進された四脚門で、国の重要文化財に指定されていますが、ちょうど門の外で植木市が開かれていました。



西門から境内に入ると、山号紫雲山にゆかりの(紫色の花が咲く)藤棚が置かれていましたので、春に来るとフジが美しいのではないかと思います。



本尊の1041本の手を持つ千手観音像(国宝)は、8世紀半ばごろの作で、現存する千手観音像としては日本最古の一つと考えられています。

本堂(重文)



「河南紫雲山縁起」によれば、聖武天皇(701~756年)が皇太子時代に1本の巨木から2体の仏像を造らせ、そのうち十一面観音像を長谷寺に、千手観音像をこの葛井寺の本尊としたといいます。

本堂から南大門方向



寺伝によれば、725年に聖武天皇の勅願によって行基が葛井寺を創建したとされていますので、千手観音像は創建当初から置かれていたようです。

本堂



平安京に遷都した桓武天皇の皇子の一人に、この地を支配していた葛井(ふじい)親王がいて、聖武天皇の千手観音像に帰依していたようです。

本堂の上



葛井親王の没後、その遺領を受け継いだ平城天皇の皇子阿保親王(792~842年、母親は葛井藤子)が、葛井親王の菩提を弔い、寺名を葛井寺としたと伝わっています。

鐘楼



一方、百済王族の子孫である葛井連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されたという説もあるようです。

南大門(重文)



なお、阿保親王の子息で三十六歌仙の一人在原業平(825~880年)は、晩年に此の近くに住み、葛井寺の諸堂を造営したという寺伝も残っています。



また、2004年に中国で墓誌が発見された遣唐留学生の「井真成」(?~734年)は、葛井連の出身者(つまり葛井真成が本名)という説があり、南大門前にその記念碑がありました。


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奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)の祭神は、藤原鎌足(614~669年)で、神仏分離以前は、多武峯寺という寺院だったようです。

全景



寺伝によると、鎌足の長男で僧の定恵(645~714年?)が、遣唐使として留学(653~678年?)していた唐から戻った後、父の墓を摂津安威(阿武山古墳)からこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥とされています。



定恵は、父鎌足から、東は天照大神の伊勢、西は法起菩薩の金剛山、南は蔵王権現の金峰山、北は大物主大神の三輪山に囲まれた中心にある霊山、多武峰に墓を築いて欲しいと頼まれていたといいます。

鳥居



談山の名は、中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇626~672年)が、大化の改新(645年)の談合をこの多武峰にて行い、後に談山(かたらいやま)と呼んだことからきています。



このとき談山に美しい藤の花が咲いていて、蘇我入鹿の暗殺(暗殺は6月12日)に成功したら中臣の姓を(花にちなんだ)藤原と改めるように中大兄皇子の薦めがあったと伝わっています。



日本書紀に、鎌足は蘇我入鹿の暗殺時に得意の弓を持っていたとされていますが、阿武山古墳で発掘された人物の肘関節のX線写真では、弓道の達人に見られる骨の変形が確認されています。

本殿



多武峯寺は、平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、鎌倉時代から室町時代にかけ藤原氏の氏寺の興福寺とは争いが絶えなかったようです。

境内



十三重塔造立から23年後の701年、多武峯寺は本殿を造営し、そこへ鎌足の神像を祀ったのが談山神社の創建とされていますので、創建から1308年が経過したことになります。

十三重塔



創建から630年後の1331年には建武の中興でおなじみの後醍醐天皇が石灯籠を寄進していて、この灯篭(重文、元徳三年の銘)は、678年後の今日まで現存しています。

石灯籠



1619年に再建された本殿は、1668年に現在の東殿となり、1688~1742年まで本殿として使われていた建物が現在総社本殿となっています。

総社本殿



なお現在の本殿は、江戸末期の1850年に造替された建物と伝わっています。


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談山神社の拝殿を出てから十三重塔前の広場に戻り、工事中の権殿の横を通って一番西側にある摂社、比叡神社(重文1627年)まで行って見ました。



比叡神社の裏側に回って見ると、境内西側の高台に続く山道があり、そこから比叡神社の屋根越しに総社本殿、拝殿、神廟拝所の屋根を見渡すことができます。



紅葉に囲まれたこの景観は、一見の価値があると思いますので、時間があればこのビューポイントまで足を伸ばすと良いでしょう。

談山神社



さて、比叡神社の前に戻り、そこから御破裂山に続く山道を上ると工事中の権殿の素屋根にかかる紅葉が見事です。



徒歩10分くらいで本殿の裏山(談山、標高566m)に到着しますが、そこが中大兄皇子と藤原鎌足の二人が蘇我入鹿の暗殺について相談した秘密の場所と伝わっています。



談山(かたらいやま)を下り、こんどは御破裂山(標高618m)の山頂にある藤原鎌足の墓所を目指して先に進みます。



かなり急な山道を300mくらい歩いて到着した藤原鎌足の墓所は、玉垣で囲まれた円形古墳でした。

談山神社の十三重塔



平安時代中頃の「多武峯略記」などには、「鎌足は最初、摂津国安威に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」と記録されています。

談山神社のモミジ



実は、1934年に茨木市(摂津国)安威の阿武山(標高281m)で、偶然古墳が発掘され、当時のX線写真から埋葬者は藤原鎌足であるとほぼ断定されているようです。

談山神社のモミジ



従って、この墓地に本人の埋葬はないようですが、代わりに遺品などが置かれているのではないかと思います。

西宝殿



さて、一旦本殿の拝殿前まで戻り、東宝殿(重文1619年)を見て、東殿(重文1619年)の左手にある山道を進みます。

東宝殿



10分くらい歩くと、三天稲荷神社に突き当たりますが、稲荷社の上にかかるモミジの紅葉がキレイでした。




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先日、邪馬台国の遺跡発見かと注目された桜井市、その近鉄桜井駅前から奈良交通バスに乗り換えて30分走ると談山神社の駐車場です。



この駐車場から談山神社へは、2方向のアクセスルートがありますが、駐車場トイレの裏を上る(右回りルート)を選ぶと、モミジの林の先で突然視界が開けます。



谷を挟んで向かい合う談山の南斜面が談山神社で、モミジの中に社殿が点在していて、今の紅葉の季節には巣晴らしい景観を見せてくれています。



特に談山神社のシンボル、十三重塔(重文1532年)を真横から眺められる場所は、このポイントしかないと思います。



今年は、十三重塔の左にある権殿(重文1668年)が改修工事中で、素屋根ですっぽりと覆われていました。



一旦谷に下りて神幸橋を渡ると談山神社の入山受付があり、正面に総社本殿(重文1668年)と拝殿(重文1668年)を見上げることになります。

総社拝殿



神廟拝所(重文1668年)の前を通り、石段を上がると十三重塔前の広場があり、2年前に改修が終わった高さ17mの塔をすぐ近くから見ることができます。



さらに上に続く石段を上り、西宝蔵(重文1619年)の前から奥に進むと拝殿の楼門(重文1619年)があり、そこから左手の本殿と右手の拝殿を同時に見ることができました。



拝殿(重文1520年)の周囲には廻廊があり、そこから見下ろすと境内に3000本あるとされるモミジの紅葉が見事です。



談山神社拝殿の中は畳敷きとなっていて、そこにゆっくりと座って北側の本殿(重文1850年)に参拝するという珍しい形式の神社でした。



参拝後にふと後を振り返ると、廻廊越しに紅葉が見え、拝殿の中からでも美しい景観を楽しむことができるようです。


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大阪城公園の中にあるハゼノキは、秋になると緑の葉の先端から赤くなりはじめ、秋の深まりとともに株全体が深紅となります。

紅葉が始まったばかりの大阪城本丸庭園のハゼノキ(11月中旬)



ウルシ科に属するハゼノキの樹皮は、止血、解毒の薬効があり、また種子は脂肪油を約30%含み、木蝋の原料となることで知られています。

大阪城京橋口の外にあるハゼノキの実



雌雄異株で株の高さは10mを越えるものあり、本州(関東南部以西)四国、九州、沖縄に自生し中国、台湾、マレーシア、インドにも分布しているそうです。

大阪城大手門の北側、西の丸庭園西の大阪府庁前にあるハゼノキ(11月中旬)



ハゼノキの栽培の歴史を調べてみると、1591年に筑前の貿易商、島井宗室や神谷宗湛が蝋をとるために種子を中国から伝えたとされています。(福岡県立図書館、八女民族資料館のHP)

二の丸極楽橋の北側、外堀石垣の上のハゼノキ



それとは別に、江戸中期に中国から沖縄を経由して、薩摩でも栽培が始まり、開聞岳の山麓には当時からの巨木があちらこちらに見られるそうです。

紅葉したハゼノキ



秋に採取されたハゼノキの果実は、採蝋所に送られて圧搾法、抽出法、水圧法などによって木蝋となりますが、薩摩藩の木蝋は1876年のパリ万国博覧会にも出品された記録があるようです。

OBPのビルと外堀石垣の上のハゼノキ



また日本産の木蝋は、その品質が世界的に高く評価されていて、軟膏の基礎剤として重要で、現在広く利用されているようです。

玉造門の外側にあるハゼノキ



大阪城玉造門の外側、東側の空掘りに面した石垣の真上にある株は、大阪城を代表するハゼノキとして有名ですが、既に最終段階となっていて落葉が始まっているようです。



本丸庭園の西側の石垣の上にもハゼノキがあり、夕日を受けて赤く光る葉がキレイでした。



こちらは青屋門の北側にある桜ですが、ハゼノキに負けないくらいに紅葉していました。



大阪城は今、秋真っ盛りです。


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