野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



高松城本丸は城のほぼ真ん中に存在し、周りを内堀に囲まれていて他の城郭とは完全に独立した配置となっている。



外部とは、長さ30mの木製の「鞘橋」一本だけで繋がっており、もし敵にこの橋を落とされたら完全に逃げ場を失うため、近世の城の縄張りとしては異例の造りである。



1676年頃の絵図では、橋の両側に欄干があるだけであったが、その後に橋の上部に屋根が架けられたので「鞘橋」と呼ばれるようになったらしい。



現在の「鞘橋」は、天守閣が取り壊された1884年に架け替えられたと言われ、今でも122年前の珍しい構造を見ることができる。



天守台の石垣は、本丸の東端に突き出し、三の丸の方から見ると天守閣が海上に浮いているように見えたという。



築城時の天守は黒い下見板張であったが、1671年の松平氏による大改修で改築されて初層が東西26,2m×南北24,2m、高さ24,5mと四国最大を誇っていた。

天守の模型



これは通常の5層天守の約2倍の規模で、姫路城より一回り小さいだけの堂々とした天守閣であった。

また、4階が3階より大きい構造は、南蛮造と言われ、一重目と二重目の比翼入母屋破風と唐破風、4階の華頭窓などに高松城の特徴があった。



四国一の豪壮さを誇っていた天守は、1884年(明治17年)老朽化のため取り壊され、天守跡地に松平家初代藩主「松平頼重」を祭った「玉藻廟」が1920年建立されている。

取り壊し直前の天守の古い写真



今の本丸天守台の前には、「玉藻廟」の鳥居が残っているが、「玉藻廟」は石垣の補修と新天守閣建設のために昨年撤去されていた。



最盛期には66万㎡(約20万坪)あった高松城の総面積は、今では約8万㎡(約2,4万坪)にまで減少したが、外堀と内堀には海水が引き込まれていて、往時の水城の名残を残している。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )