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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



山内容堂の場合と同様に偶然藩主となった例は、徳川吉宗や井伊直弼などが有名であるが、三人共に個性の強い政治を行っている。

外から見た高知城本丸



その理由の一つに、側近による超保守的な帝王学を受けていないために、帝王学で最も嫌う個性を伸び伸びと開花させたからであろう。

21歳で藩主の座に就いた容堂は、門閥・旧臣による藩政を嫌い、26歳で旧家の家老を押しのけ革新派グループの中心人物・吉田東洋を起用し藩政改革を断行している。

高知城本丸内側



容堂は福井・松平春嶽、宇和島・伊達宗城、薩摩・島津斉彬と交流を持ち、幕末の四賢侯と称されて幕政に積極的に口を挟んでいる。

その後、大老井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立し、容堂は31歳の若さで隠居願いを提出、幕府からは江戸で謹慎の命を受けている。

堀の外、追手門越に見た高知城天守



隠居謹慎後は藩主の座を譲り、この頃より水戸藩の藤田東湖の薦めで 名前を容堂と改めたという。

この間、容堂のいない土佐藩ではクーデターが起こり、武市瑞山を首領とする土佐勤王党が吉田東洋を暗殺、武市瑞山は門閥家老らと結んで藩政を掌握している。

高知城の詰門と廊下門の屋根



しかし、井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、謹慎を解かれて土佐に帰国した容堂は、吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の弾圧に乗り出し、首領の武市瑞山に切腹を命じている。

容堂は最後まで幕府を擁護し続け、1868年の戊辰戦争に土佐藩兵は加わらないよう藩士に厳命したが、土佐藩軍の指揮官板垣退助は容堂の命に従わず新政府軍に従軍している。

天守の窓からの高知市内



明治維新後、容堂は内国事務総裁という政府の高官に就任したが、かつての家臣や領民身分の政府同僚とは馴染むことができずに1869年辞職している。

その後、東京で妾(めかけ)を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送ったが、1872年脳溢血に倒れ、44歳の短いが波乱に満ちた生涯を閉じている。

石垣から飛び出した石樋



その山内容堂の生誕地という石碑のある場所から南に下って帯屋町筋に出ると、切腹した武市瑞山殉節の地という石碑がある。



この場所は、土佐藩を反徳川、勤皇の藩として改革しようとした35歳の瑞山が、前藩主山内容堂によって捕縛され、その勤皇の節に殉じて切腹した場所である。

坂本竜馬の遠縁となる武市瑞山は、京都の舞妓に持てた月形半平太のモデルといわれているが、実際は他の女性には目もくれない愛妻家であったらしい。

街頭に掲示されていた武市瑞山の紹介パネル



武市瑞山は、土佐勤皇党による吉田東洋暗殺を最後まで白状しなかったために切腹の罪名は「君主に対する不敬行為」であったという。


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