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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



中之島公園にこの6月にオープンしたカフェレストラン「GARB Weeks」の北側には、巨大な石碑「木邨(村)長門守重成表忠碑」が置かれています。

 

その石碑には、明治29年(1896年)とあるので、114年も前のものですが、その建立の経緯がやっと判りましたので、中之島の夏の風景と一緒にご報告しましょう。

梅雨末期で濁流となった土佐堀川



それは、大阪生まれの小説家、長谷川幸延(1904〜1977年)の「自己流大阪志」という随筆の中に詳しく書かれていました。

東洋陶磁美術館とGARBとの間に石碑が見える




話は、明治の劇聖といわれた九代目市川団十郎(1838~1903年)に、五代目市川新蔵(1861~1897年)という弟子がいたことから始まります。




新蔵は、十代目を襲名するのは確実といわれる天才的技倆と人気があったのですが、まだ27歳の若さで悪質の眼病に冒され、つねに眼帯をしたまま役を演じていたといいます。

東洋陶磁美術館前、歩道の黄色いラインの突き当り



その新蔵はある日、自分の舞台人生が永くないことを悟り、今生の思い出に木村長門守を主人公とした芝居「茶臼山血判取」を演じたいと師匠の団十郎に申し出ています。




新蔵は、かねてから若くして戦死した木村長門守(1593~1615年)を敬慕していて、眼病に苦しむ自分と似たものを感じていたようです。




団十郎もその気持ちを察してそれを許し、念願かなった新蔵の舞台は、後世の語り草になるほどの鬼気迫る出来栄えだったそうです。




当時、たまたま東京歌舞伎座で新蔵の芝居を、元大阪府知事の西村捨三(1843~1908年)が見ていたことから、木村長門守表忠碑建立へのドラマが始まるのです。




新蔵は、この芝居のあと眼病のためについに失明し、37歳の若さで亡くなっていますので、「茶臼山血判取」を演じたのは1895年頃の話ではないでしょうか。

 

明日(2010年7月17日)の記事につづく

 

参考文献:自己流・大阪志 長谷川幸延著



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