慶応4年2月30日(1868年3月23日)英国パークス(当時40歳・1828~1885年)公使一行が暴徒2名に襲撃された事件の続きを近所で見かける7月の野鳥と一緒に紹介しましょう。・・・ケリ
このとき元薩摩藩士・中井弘(29歳・1839~1894年)が直ちに暴徒の一人(朱雀操)の面を斬り、朱雀も屈せず中井の頭部を傷つけますが、すぐに土佐藩士・後藤象二郎(30歳・1838~1897年)が刀を抜いて駆けつけて朱雀の肩を袈裟がけに切り、ひるんだ朱雀の首を負傷した中井が刎ねています。
もう一人の暴徒(三枝蓊)は、パークスに向かって駆けようとしますが、持っていた刀が何かに当たって折れたために途中から逃走、それを英国兵士が銃撃したことで足に銃創を受けた三枝は捕まっています。
事件はこれで終わったのですが、大英帝国の威信を誇った行列はめちゃくちゃとなり、誇り高き外交官パークス公使は烈火のごとく怒って直ちに宿舎の知恩院に戻っています。・・・コチドリ
パークスは、英国の武力をかさに着てアジア人を威圧してきた人物(アロー号事件から第二次アヘン戦争を引き起こした張本人)でしたが、中井が自ら傷つきながら暴徒を制したことと、日本側が英人負傷者を速やかに救護したことはその怒りを和らげたようです。・・・カワラヒワ
直後に事件の報告を受けた伊藤博文は、事件のことに触れず、先に到着していたフランス公使ロッシュとオランダ公使だけを天皇に謁見させています。・・・ムクドリ
後から事件を知ったロッシュは急いでパークスの宿舎を訪ね、日本政府を威嚇して賠償金を取ろうという共同作戦を提案しますが、パークスは中井弘が傷つきながらも暴徒を制圧、大事に至らないようにした功績は見事であったと、ロッシュの提案を拒否しています。・・・ムクドリの幼鳥
しかしパークスは、日本側に暴徒への厳しい処置だけはしっかりと要求したため、捕えられた三枝蓊は、士籍を削られて斬首となり、朱雀操の首と一緒に3日間も粟田口に梟首されたのです。・・・カルガモ
パークスは、慶応4年3月3日に改めて天皇謁見となりましたが、パークスが参内する道路は暴徒が近づけないよう、すべて通行止めという処置がとられています。また後に中井と後藤はパークスらを救った功績で大英帝国ビクトリア女王から宝刀を贈られ、中井の宝刀は今も京都国立博物館に所蔵されています。・・・カルガモの眼
参考文献:要約近世日本国民史 徳富蘇峰原著、荒川久寿男著