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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



パークス事件(1868年)で活躍した中井弘(ひろむ1839~1894年)のことを、近所で大きくなっているケリの幼鳥の写真と一緒にもう少し紹介しましょう。・・・ケリの親鳥

明治がはじまる直前の1868年1月、神戸事件をきっかけに新政府から外国事務局御用掛に任命されたのは、伊藤博文(数え年28歳以下同じ)、井上馨(33歳)、寺島宗則(37歳)、五代才助(33歳)、中井弘(31歳)と陸奥宗光(25歳)の6名、大隈重信(31歳)はそれから3か月も遅れで任命された後輩です。・・・ケリの幼鳥

王政復古後の岩倉具視が外国との交渉に欠かせない優秀な人材として任命した7名のメンバーの中で後に爵位を受けなかったのは中井だけなので(早世した五代を除く)、記録にはありませんが中井は爵位を固辞したと考えられています。・・・幼鳥が三羽

薩摩藩士だった中井弘は、若くして藩を出て土佐の後藤象二郎や坂本竜馬などと交流、中井が英国に留学できたのも後藤の支援があったからという説があります。

従ってパークス事件(1868年)の際、中井と後藤の二人が揃っていたのは偶然ではなく、気心の知れた同士がペアでパークス公使の接待役を務めていたということでしょう。

ところで平民宰相として有名な原敬(1856~1921年)が外務省に入省(1882年)したのは、当時外務省御用掛だった中井弘の誘いがあったからで、また原が結婚した相手は、中井弘の娘(貞)でした。(二人は中井弘の死後に離婚)

原敬(満27歳)の結婚式(1883年)には、中井の友人として山縣有朋参議、井上馨参議兼外務卿、吉田外務大輔(次官)など、錚々たるメンバーが出席、若き原敬は、明治政府の大物達の知遇を得て出世の糸口をつかむのです。

原敬は、岳父の友人だった陸奥宗光の引きで外務省で出世してゆきますが、陸奥の死後に外務省を退官して政界に進出、大正7年(1918年)には総理大臣となっています。

原敬が、何度も打診された爵位の受け取りを固辞し続けたのは、尊敬する岳父(中井弘)の影響があったと考えるべきでしょう。

参考文献:明治の元勲に最も頼られた名参謀 中井桜洲 屋敷茂雄著



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