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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



原敬は、総理大臣となったあとも爵位を辞退し続け、ついに「平民宰相」というニックネームで呼ばれた人物でしたが、岳父(妻の父)の中井弘(ひろむ18391894年)から大きな影響を受けていたようです。カルガモのひな鳥の写真と一緒に中井弘を紹介しましょう。

中井は、明治17年(1884年)に制定された華族令(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の爵位授与)に苦言を呈し続け、爵位を受けなかった人物としても知られています。

明治27年(1894年)京都府知事の任期中に中井弘は逝去、明治天皇記は「京都府知事正三位勲二等 中井弘薨ず。その維新前後国事に尽力し、外国事務に鞅掌(おうしょう)し(意味・忙しく働くこと)、ついで工部大書記官・滋賀県知事・元老院議官・貴族院議員等に歴任して原官(京都府知事)に至る」

「その多年の奉職勤務を嘉(よみ)し(意味・ほめたたえ)、特旨を以って祭資金千円((当時の小学校教員や巡査の初任給は月に8~9円))を賜ふ、十三日その葬送に際し、勅使として主殿助(とのものすけ)宇田(うだ)淵をその邸に差し遣わし、白絹二匹を賜ふ」

逝去に当たって勅使が遣わされたのは、中井弘が明治天皇からも評価されていた人物だったからでしょう。

幕末から明治初期にかけ、坂本竜馬、大久保利通、木戸孝允などと親密な交流があった中井弘は、ユーモアにあふれた巧みな話術の持ち主で、人を楽しませ、富貴功名を求めることなく淡々と日々を過すという生き方を貫き通した生涯でした。

明治天皇記の「維新前後国事に尽力し、外国事務に鞅掌」とは、パークス事件の際に中井がとった行動などを指すのでしょうが、英国公使を襲ったテロリストと真剣で勝負し、最後にテロリストを殺してその首を刎ねた行為は、当時の政官界で広く知られていて、皆から一目置かれていたようです。

また中井は、物事の黒白をすぐ決めたがったり、しゃかりきになって善悪を問うというような狭量さからは抜け出した人物でした。

明治維新史にはあまり登場しない中井弘ですが、その人物を改めて評価する必要があると思います。

参考文献:明治の元勲に最も頼られた名参謀 中井桜洲 屋敷茂雄著



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