古今亭志ん生と古今亭志ん朝にかかわるオマージュとレクイエムである。
古今亭志ん生と古今亭志ん朝ってダレ?
という人が多いだろうと思う。
この二人が親子で、いずれも「名人」と呼ばれたことも、志ん生はその生き様=貧乏=がよく語られることも、志ん朝は若い時分落語だけでなく役者などで活躍もし赤いアルファロメオに乗っていたりしたということも、二人の顔を思い浮かべることも、よく知っているという人は少ないと思う。
私は、落語が好きで、中学生の頃から意識して見たり聴いたり、そして読んだりしていた。
志ん生は昭和48年になくなっており、意識をして聴くことなかったと思うが、いろいろな本を読むと、名人として「桂文楽」「古今亭志ん生」が必ず出てくるので気にはなっていたので、後にテレビやテープで聞いた。
当時は、立川談志・三遊亭円楽・月の家円鏡(橘家円蔵)・古今亭志ん朝、という四天王と呼ばれた人たちや、春風亭柳昇、柳家小さん、柳家小三治など、テレビ・ラジオによく出演する人たちの落語を聞いていたわけで・・・
その後、東京に出張するとよく寄席にいき、やっとじかに接することができた。
近頃は田舎にも落語家がやってくるので、できる限り聴きに行こうとしている。
できる限り聴きに行こうとしている、というのは、聴衆に問題があるからなのだ。
定席の寄席に行けばそれなりに聞き手側のレベルがあるのだが、地方では極端にレベルが落ちるのである。
「面白い」というところが違うのである。
つまり、落語を聴くにはそれなりのレベルがないと、話に説明を加えないと「わからない」というところが出てきているのである。
したがって、落語家たちも「わかりやすい」話やギャグを主とするわけで・・・
古典落語に出てくる単語はいまや死語になっているものもおおく、いかに落語家がうまく面白く演じても、そもそも、という部分で理解できないところがあると思われる。
若い私がこう思うのであるから。戦前から落語を聴いていて、しかも江戸文化や下町言葉のなかで育った筆者にとっては、現状の落語界に対してある種の違和感を抱くのは仕方のないことである。
従って、古今亭志ん朝が亡くなった(2001年1月)ことで「東京(江戸)の落語はほぼ終わったと見るべきだろう」ということになる。なぜ、そういう考えになるのかということは、本書を読んでもらえばいいのだが・・・
「芸」(術であれ能であれ)は、時代とともにその認められるところが変わってくる。
そして認める人たちの質が低下してくるとともに、芸そのものも以前から比べれば低下してくるということだろう。
著者のいろいろなものに対する姿勢は、頑固なまでに一定していてぶれることがない。そしてどうしても頑固なスタイルを崩さなければならない場合の「忸怩たる思い」というのも正直にあらわされているので「思い」とか「スタイル」に対して共感ができる。
そういう人がつづる文章というのは参考になるし、大好き、ということになる。
著者は「ユーモア」というか「笑い」ということに対して真摯に接していることが、この本を読むとよくわかる。
志ん生と志ん朝のことだけでなく「夏目漱石と落語」という章もついていて、面白くあっという間に読むことができた。
落語のことをよくわからないとついていけない、という部分もあると思うが、それほど落語にこだわらなくても面白いと思うのであるが・・・お勧めの一冊である。
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古今亭志ん生と古今亭志ん朝ってダレ?
という人が多いだろうと思う。
この二人が親子で、いずれも「名人」と呼ばれたことも、志ん生はその生き様=貧乏=がよく語られることも、志ん朝は若い時分落語だけでなく役者などで活躍もし赤いアルファロメオに乗っていたりしたということも、二人の顔を思い浮かべることも、よく知っているという人は少ないと思う。
私は、落語が好きで、中学生の頃から意識して見たり聴いたり、そして読んだりしていた。
志ん生は昭和48年になくなっており、意識をして聴くことなかったと思うが、いろいろな本を読むと、名人として「桂文楽」「古今亭志ん生」が必ず出てくるので気にはなっていたので、後にテレビやテープで聞いた。
当時は、立川談志・三遊亭円楽・月の家円鏡(橘家円蔵)・古今亭志ん朝、という四天王と呼ばれた人たちや、春風亭柳昇、柳家小さん、柳家小三治など、テレビ・ラジオによく出演する人たちの落語を聞いていたわけで・・・
その後、東京に出張するとよく寄席にいき、やっとじかに接することができた。
近頃は田舎にも落語家がやってくるので、できる限り聴きに行こうとしている。
できる限り聴きに行こうとしている、というのは、聴衆に問題があるからなのだ。
定席の寄席に行けばそれなりに聞き手側のレベルがあるのだが、地方では極端にレベルが落ちるのである。
「面白い」というところが違うのである。
つまり、落語を聴くにはそれなりのレベルがないと、話に説明を加えないと「わからない」というところが出てきているのである。
したがって、落語家たちも「わかりやすい」話やギャグを主とするわけで・・・
古典落語に出てくる単語はいまや死語になっているものもおおく、いかに落語家がうまく面白く演じても、そもそも、という部分で理解できないところがあると思われる。
若い私がこう思うのであるから。戦前から落語を聴いていて、しかも江戸文化や下町言葉のなかで育った筆者にとっては、現状の落語界に対してある種の違和感を抱くのは仕方のないことである。
従って、古今亭志ん朝が亡くなった(2001年1月)ことで「東京(江戸)の落語はほぼ終わったと見るべきだろう」ということになる。なぜ、そういう考えになるのかということは、本書を読んでもらえばいいのだが・・・
「芸」(術であれ能であれ)は、時代とともにその認められるところが変わってくる。
そして認める人たちの質が低下してくるとともに、芸そのものも以前から比べれば低下してくるということだろう。
著者のいろいろなものに対する姿勢は、頑固なまでに一定していてぶれることがない。そしてどうしても頑固なスタイルを崩さなければならない場合の「忸怩たる思い」というのも正直にあらわされているので「思い」とか「スタイル」に対して共感ができる。
そういう人がつづる文章というのは参考になるし、大好き、ということになる。
著者は「ユーモア」というか「笑い」ということに対して真摯に接していることが、この本を読むとよくわかる。
志ん生と志ん朝のことだけでなく「夏目漱石と落語」という章もついていて、面白くあっという間に読むことができた。
落語のことをよくわからないとついていけない、という部分もあると思うが、それほど落語にこだわらなくても面白いと思うのであるが・・・お勧めの一冊である。
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