京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

生命の視点

2016年12月14日 06時27分21秒 | 風景・和菓子


気が付いたら14日になってしもた。
それにしても雑用の多さ。
仕事ならいいけど、それ以外の雑用。
そういう年齢なんだろう。
昨日、お見舞いに行った人の話を聞くと私なんかママゴトみたいなレベルだ。
来る様々な案件を丁寧に返していくことかな。
年賀状・・・作るのは簡単だけど、どうも年末に書く気にならない・・・。
このクソ忙しいのに「あけましておめでとう!」という気持にならません。
年賀状は、結局除夜の鐘を聞きながらになるだろうな。



昨日、市バスに乗ったら修学旅行生の団体が一杯。
オフシーズンの安い時期に修学旅行をするんだろうな。
あれだけバスが混むと京都市民としてはつらい。
高齢者はまず乗れない。



席を譲ってもらっても席までいけませんからね。
「高齢者の皆さん、若い子が席を譲ってくれたら、ありがとうとお礼を言って座ってあげてくださいね。たとえ次の停留所で降りる場合でも。座ってあげるのも思いやりですよ」でないと気まずい雰囲気になります。



さて、タイトルの内容になります。
今年は、十年ぶりぐらいに紅葉が綺麗でした。
夏がすごく暑かったのに、秋に雨がおおかったのに、でも綺麗だった。
植物は過酷な環境の方が綺麗になるのかな?





こういう落ち葉を見ていて、自分は何を見ているのか?
そう思いました。
「生命」ってなんだろう?
花や葉を「生命」と見ますか?
綺麗に咲く花や綺麗な紅葉も「生命」だけど、生命の本質じゃないよね。
なら木の枝が生命?幹が生命?根が生命?
木が生えている土も含めて生命?





われわれは、どうしても表面だけを見ます。
花が綺麗、紅葉が綺麗とね。
それが生命であるように。
紅葉が落ち葉になったら、なんかもの悲しくなる。
生命が終わったと錯覚します。
でも落ち葉になったのは、木の端っこだけです。
冬支度で葉を落とし、春に備えている。
つまり生命の本体は、継続している。
視点を替えて見ると、われわれ人間だって紅葉や春に咲く花と同じかも。
木を生命として見るか、土を生命と見るか、星を生命と見るか、太陽系を生命と見るか、銀河を生命と見るか、宇宙全体を生命と見るか・・・。


↑紫野源水「深山の紅葉」

大きな生命の中でわれわれは、どういう役割を演じているんだろう?
紅葉の葉同士、どの葉っぱが綺麗とか、いい場所にあるとか、個々の葉っぱが考えてもあまり意味がない。
あまり人と比べても仕方ない。
巨大な生命のシステムの中で、私という葉っぱは、他の葉っぱに比べて、たくさん養分を蓄えたとか、高い場所に地位している・・・なんてあまり意味のないことかも。
自分の位置で精一杯紅葉したらいいのです。咲いたらいいのです。
そういう生命の原点をしっかり考えるというか観じた方が楽に生きれるかも。


↑きんとん(白小豆粒あん)

落ち葉の後、冬の間休み、また春になると若葉が出てくる。
生命の循環。人間も同じかも。
若葉も落ち葉も生命の循環の表現。
人間も同じなんだよね。
ひょっとして今年の夏は、暑さが厳しく、秋も長雨で生命の条件にはよくないけど、葉っぱは、精一杯生きた。だから色が鮮やかだったのかも。
そう考えるとなんがえると身体が温かくなります。

なんてことを落ち葉を見な、ふと思いました。

和菓子
中村 肇
河出書房新社

↑これから暫くの間、京男の和菓子本のお知らせをさせてもらいます。説明は1月27日の記事をご覧ください。(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)

Twitter→@kyo_otoko
コメント (4)
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