万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

“行動する天皇”の問題

2017年12月22日 11時18分47秒 | 日本政治
【天皇陛下譲位】天皇誕生日は2月23日、12月23日は当面平日に…政府検討入り
 天皇の生前退位(譲位)問題が持ち上がった丁度その頃、新聞の紙面に、アメリカ民主党系の識者による象徴天皇に関する見解が紹介されておりました。その記事を読んで驚いたことは、“行動する天皇”にこそ、天皇の存在意義があると述べていたことです。

 実のところ、“行動する天皇”は、日本国の伝統的な天皇観とは真逆となります。何故ならば、神聖さを保つために、御所の奥深くにあって御簾の内に静かにおわしますのが、天皇の伝統的な在り方であったからです。この側面からしますと、統治権を総攬すると定めた大日本帝国憲法下の天皇の役割は歴史的には例外であり、この時期、西欧の立憲君主制を模して、大胆、かつ、革命的に天皇の世俗君主化が図られたと言えます。こうして近代以降は、聖俗の両面を併せ持つ‘天皇’が誕生したのですが、戦後の日本国憲法は、天皇に統合の象徴の役割を付し、“行動しない天皇”に回帰しています。そして、この“行動しない天皇”への復帰は、伝統的な天皇像を是とする国民の多くに安心感を与えたのではないでしょうか。国旗や国歌と同じく、“天皇(すめらみこと)は存在するだけでありがたい”とする考え方は、日本国の伝統に基づいています。

 戦後の出発点にあって、“行動しない天皇”は、GHQの望むところでもあったのでしょうが、今日、アメリカ民主党のリベラル層を中心に“行動する天皇”を求める声があるとしますと、一般の日本国民にとりましては、当惑を覚えざるを得ない事態です。そして、この国際圧力としての“行動する天皇”への転換要望こそが、今日、皇室問題を悪化させている要因の一つとも推察されるのです。近年、皇室の“自由な行動”、あるいは、“私的な行動”が、既成事実として、政府によって強制的に国民に事後承認を迫るケースが頻発しているからです。

 しかも、この“行動”の内容も曖昧模糊としており、“天皇の行動”が象徴の役割と相反する事態をも想定していません。今上天皇にあっての“行動”は、被災地慰問や海外諸国への慰霊の旅なのでしょうが、海外組織との繋がりの深いカルト新興宗教団体をバックとした新天皇の時代に至れば、私的な目的やこうした団体の利益のための“皇室外交”、すなわち、国権の掌握とその行使を伴うような活動をも、“行動する天皇”の一言で是認されてしまうことでしょう。また、伝統的な国家祭祀や慣習の放棄等の破壊行動も、“天皇の行動”の内となるかもしれません。

 乃ち、“行動する天皇”とは、天皇位の私物化に他ならず、一般の国民にとりましては迷惑・不快この上なく、憲法上の統合の象徴としての立ち位置も、それが、全国民の天皇への崇敬心を基盤としている以上、求心力の急速な低下により足元から瓦解することでしょう。

 そもそも日本国の伝統的な天皇像にあっては、天皇の行動=国家祭祀であり、その他の“行動”を論じること自体、あり得なかったはずです。逆から見ますと、“行動する天皇”の薦めとは、歴史や伝統からの断絶を志向し、天皇を自らが理想とする“革新的世界”を率先して実践するモデルとして位置付けたいリベラルらしい考え方なのです(もっとも、期待通りの効果がなければ、手のひらを反して廃止を主張するかもしれない…)。

 この勧めに従えば、“天皇”という公的なポストの名称は残っても換骨奪胎され、過去との継続性はすっかり失われることでしょう(既に、失われているかもしれない…)。因みに、毛沢東思想や“習近平思想”といった革命思想も、論理的な思考よりも直接的な行動を重視する行動推奨主義的な側面を特徴としています。“行動する天皇”の容認は、絶対君主や独裁者の如く、規範や一般常識を無視して自由に行動する天皇の出現を準備することを、決して忘れてはならないと思うのです。

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