万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

政治家のタレント化が高める陰謀の信憑性

2022年12月29日 13時31分43秒 | 統治制度論
 先日、宮崎県で実施された県知事選挙では、現職の河野俊嗣知事が元知事でタレントの東国原英夫氏を抑えて4期目の当選を果たしました。選挙戦を制した河野知事は自治省(現総務省)出身の官僚政治家である一方で、敗れた東国原氏は「そのまんま東」という芸名を名乗ってタレントとして活動してきた経歴があります。東国原氏自身は、政治家への転身に際して‘脱タレント’を心がけたそうですが、本日の記事では、タレント政治家の存在から陰謀の信憑性を考えてみることとします。

 政界を見ますと、タレント出身の政治家の多さに気付かされます。タレント政治家の出現は映画やテレビ等の登場と軌を一にしており、メディア時代特有の現象とも言えましょう。民主的選挙制度にあっては、候補者の知名度が重要な勝因となり得るからです。多くの人々に名が知られており、かつ、視聴者からの好感度が高ければ、それだけ当選する確率が高まります。このため、タレント自身が自ら望んで立候補すると言うよりも、政党が、タレントを候補者として選ぶという戦略を使うようになるのです。

 芸能界にあってはディレクターの指示通りに演じてきたタレント議員であれば、政界入りした後でも、所属する党の指示通りに動いてくれるはずです。‘政治は数’と称されるように、民主的決定手続きでは多数決を基本原則としますので、タレント議員を‘数’として揃えておくことは政党にとりまして好都合です。

ところが、タレント政治家は、知名度のみに依拠して当選した政治家ですので(このため、戸籍上の本名ではなく芸名で立候補するタレントが後を絶たず、有権者が政治家の戸籍上の本名を知らないという由々しき事態も生じている・・・)、政策決定を担う政治家として必要とされる知識、能力、実績に欠けるリスクがあります。こうした政治的資質の不足や欠落は、政治の質や統治機能を低下させる要因となることは否めません。タレント政治家の出現は民主主義と表裏一体の関係にありますので、民主的制度が国民の利益を損なうという意味において、タレント政治家はパラドクシカルな存在なのです。なお、古代ギリシャの時代より、民主主義は‘衆愚政治’に至るとして批判されてきましたが、現代のタレント政治家に関しては、敢えて衆愚政治へと誘導する政党の選挙戦略こそ問題とすべきかもしれません。

 このように、民主主義国家においてはタレント政治家が出現しやすい土壌があり、これは日本国に限った現象ではありません。アメリカにも、ドナルド・レーガン大統領やアーノルド・シュワルツェネッガーカリフォルニア州知事といった著名な政治家がおります。しかしながら、グローバル時代を迎えた今日、タレント政治家の問題は、政治家という職業そのものに広がっているように思えます。前職がタレントである政治家のみならず、政治家そのものが演技者と化しているかのようなのです。そして、この仮想の空間の劇を‘現実’として報じる役割を担っているのが、全世界に張り巡らされたマスメディアのネットワークなのでしょう。しかも、グローバル時代のタレント政治家は、必ずしも特定の政党と結びついているわけではなく、左右の何れの政党にも存在し、無所属でも構わないのです(マクロン仏大統領のように彗星の如くに現れるケースも・・・)。重要なのは、世界権力の意向に沿って忠実に演じることができる資質なのです。

 例えば、先日、戦時下にあってゼレンスキー大統領が支援国であるアメリカをサプライズ訪問し、米議会でも演説しましたが、その一部始終は、まさしく同大統領の‘訪米劇’という表現に相応しいように思えます。同大統領の議会演説についてアメリカのマスメディアは、第二次世界大戦中のチャーチル首相の名演説に匹敵する程の歴史的演説として華々しく持ち上げています。しかしながら、実態と報道との間のギャップは、むしろ、その違和感故に政治の劇場化を強く印象づけてしまったようです。凡庸な演説に対する過剰な礼賛は誰から見ても不自然であり、‘興行側’のプロパガンダ作戦が透けて見えてしまうからです(ゼレンスキー大統領は、平時にあってコメディアンとしては有能であっても、戦時下の指導者役は不向きであったかもしれない・・・)。そして、政治劇の存在に対する人々の確信に近い疑いは、ウクライナ紛争そのものを懐疑の視線に晒すことにもなりましょう(戦争のみならず、地球温暖化やコロナ・ワクチン禍なども・・・)。

 米CIAの元高官も認めているように、世の中には、人々から真実を隠すためのカバー・ストーリーというものが存在しているのは事実です。特にメディアは、事実を探求しようとすれば、荒唐無稽な極論まで持ち出して陰謀論として切り捨てようと必死になりますが(その必死さが余計に怪しまれる要因に・・・)、今日の政治家の多くは、‘オーディション’に合格して舞台に上がったタレント、即ち、‘パペット’なのかもしれないと疑うのです。否、全世界で起きている出来事の多くは、各国の政治家のみならず、グローバル企業のCEOや王族や皇族を含むセレブとも称される人々が総出でシナリオ通りにカバー・ストーリー演じる、演出された劇とする見方も強ち間違ってはいないように思うのです。

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