万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

テロリスト黙殺論は乱暴では-目的が正しい場合の対応

2023年05月04日 13時32分48秒 | 統治制度論
 日本国では、昨今、安部元首相暗殺事件並びに岸田現首相襲撃事件という、二つのテロが発生しました。両事件とも手製の発砲装置を用いられたことから、後者については前者の模倣犯とする見解もあります。このため、テロの連鎖的な発生を防止し、テロの撲滅を目指す立場から、テロの如何なる要求にも応えてはならず、かつ、テロの目的である動機を報じることさえ禁じるべき、とする厳しい意見も現れるようになりました(実際に、アメリカでは同方針が採られる傾向にある・・・)。しかしながら、目的と手段との間の一般的な関係からしますと、‘テロリスト黙殺論’は、いささか乱暴な極論のようにも思えます。

 ある目的を達成するための行動については、目的並びに手段の正・不正を軸として、4通りの類型に分けることができます。目的の正邪の区別については、公益性や倫理性の高い目的を正しい目的とし、利己的かつ他害的な目的を不正なものとします。また、手段については、非暴力的で理性に基づく手段を正しい手段とし、暴力を用いた場合を不正なものとします。この分類に、目的を平和裏に実現できる制度、即ち、民主的政治システムであれ、司法制度であれ、合理的な統治制度の有無を加えますと、手段が不正となる②と③についてはさらに二通りに分かれ、全部で6つの類型があることとなりましょう(正しい手段とは、非暴力的かつ合法的制度を用いることなので、手段が正しい①と④については、制度に関するが下部分類がない)。

①目的も手段も正しい
②目的も手段も不正
A:合理的統治制度がありながら、不正な目的のために意図的に不正な手段で行動した
B:合理的統治制度がない状態で、不正な目的のために不正な手段で行動した
③目的は正しいが手段は不正
A:合理的統治制度がありながら、正しい目的のために不正な手段で行動した
B:合理的統治制度がない状態で、正しい目的のために不正な手段で行動した
④目的は不正であるが、手段は正しい

 上記の分類に照らしますと、誰もが‘悪’と認定するケースは、②―Aの「合理的統治制度がありながら、不正な目的のために不正な手段で行動した」であることには、おそらく異論はないのではないかと思います。例えば、民主的な選挙制度がありながら、新興宗教団体が、教祖を頂点とする国家の樹立を目的として、暴力で国権を簒奪しようとするようなケースです(オウム真理教やイスラム過激派のテロ事件など・・・)。

共産革命といった非合法的な暴力革命についてはより分類がやや曖昧となり、共産党という世界組織が、権力と富の独占を目的として専制体制の国家において革命を起こした場合には、合理的統治制度がない状態における目的も手段も不正な②―Bとなりましょう。その一方で、国民の多くが、搾取なき世界の実現を目指しているものと革命の目的‘誤認’している革命に参加した場合には、「合理的統治制度がない状態で、正しい目的のために不正な手段で行動した」の③―Bが主張されることになりましょう。

 過去の歴史を振り返りますと、目的は正しく、かつ、他に手段がなく、やむを得ずして暴力などの不正な手段に訴えた場合には、今日に生きる人々でも、その行動については一定の理解を示す傾向にあります。例えば、重い年貢に苦しめられてきた農民による一揆であるとか、自由なき奴隷達の反乱であるとか、搾取されてきた植民地の独立運動などについては、相手方が理解を示して要求に応じない限り、平和裏に状況を改善する道が閉ざされているからです。つまり、③―Bの場合には、絶対悪として否定はできなくなってくるのです。かの二.二六事件についても、当事の東北地方における農家の貧困や政界の腐敗に思い至り、青年将校達の行動に対する同情論が今日でも見られます(もっとも、‘上部’によって青年将校達の義憤が利用された可能性も・・・)。

 それでは、先に挙げた日本国内で発生した二つのテロ事件はどうでしょうか。これらの暗殺事件にはその不自然な状況から‘黒幕’が潜んでいる可能性が高く、容疑者本人並びにメディアが報じている動機の真偽についても疑いもあります。しかしながら、一先ず、指摘されている動機を前提としますと、何れであれ、目的は正しいとする③のケースに含まれることでしょう。政党と新興宗教団体との癒着や制限的な被選挙権などが民主主義の阻害要因となり、国民の声を政治から遠ざけていることは紛れもない事実であるからです。しかも、岸田首相襲撃事件の場合には、動機の一つとして目的を実現する制度の不備が挙げられています(ただし、多額の供託金は違憲の疑いがあるものの、木村容疑者による被選挙権年齢の引き下げには議論を要するかもしれない・・・)。

 合理的な解決制度が存在している③―Aの場合には、不正な手段を用いますと、たとえ目的が正しくとも大多数の人々が批判することでしょう。目的を達成するに際して、敢えて暴力的手段を用いる必要性は認められないのですから。しかしながら、制度が存在しない③―Bの場合には、上述したように人々の反応は違ってくることでしょう。もちろん、‘テロリスト完全黙殺論’のような目的の内容の吟味さえ否定する意見もあるのですが、人々は、目的が正しく、かつ、それを平和裏に実現する制度がない場合、容疑者の行動を少なくとも理解はしてしまうのです。

 つべこべと理屈を並べてしまいましたが、以上のように整理して考えますと、テロ事件をはじめとした暴力を手段とする事件が発生した場合には、先ずもって目的と手段の正当性、並びに、正当な目的が実現する制度が存在するのかどうかを、慎重に見極める必要がありましょう。テロの類型を判断した結果、目的が正しい場合には、現行の制度の方に問題がある場合があり、民主主義の阻害要因を除去し、平和裏に国民の要望を実現し得る合理的な統治制度の構築こそ、③B型のテロに対する最適な対策ともなり得るからです。テロ事件が発生した際には、主として暴力という手段こそ批判すべきであり、そして、暴力に訴えざるを得ない状況下にあるならば、同状況の改善にこそ努めるべきなのではないでしょうか。それは、テロという行為を批判しつつも、その目的については正当と見なしている多くの国民に対しても、誠実な対応であると思うのです。

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