本日9月14日、与党第一党の自民党において総裁選挙が行われ、日本国における菅政権の成立が確実となる見通しです。その一方で、新たな政権の誕生に期待するよりも、国民の多くは、不安な眼差しで事の成り行きを冷静に見つめているように思えます。その理由は、菅官房長官の発言を聴きますと、否が応でも不安が過らざるを得なくなるからです。
例えば、昨日13日には、出演した民放のテレビ番組において、菅官房長官は、「私ども(政治家は)選挙で選ばれている。何をやるという方向を決定したのに、反対するのであれば異動してもらう」と述べております。官僚主導型の政治が、民主主義の原則に反するとして批判の的とされてきた一昔前であれば、この発言に対して賛同する声は少なくなかったかもしれません。選挙において国民から負託を受けて成立した政権が、執行機関である官僚組織の人事を握るのは、民主主義に適っているように思えます。アメリカの政治でも、‘猟官政治’とも評されるように、政権交代によって行政組織の人事も一新されます。
しかしながら、2014年5月には内閣人事局が新設された後は、‘忖度’という言葉が一躍注目を浴びたように、むしろ、政治主導の官僚人事の問題が弊害として指摘されるようになりました。人事権を政府に握られてしまった官僚の人々が、政府の顔色ばかりを窺うようになり、政府の‘イエスマン’と化してゆくからです。案の定、菅官房長官の同発言に対しては批判的な声が圧倒的に多く、ネット上のコメント欄でも‘菅政権’の行方を危惧する意見が散見されます。独裁的な強権政治を敷くのではないか、という…。それでは、統治組織の設計において、政府と官僚組織はどのような関係にあるべきなのでしょうか。
第一に考えるべきは、民主主義を根拠とした政府の正当性の問題です。イギリスといった二大政党制の国では(今日では、変化が見られますが…)、下院議員選挙は、同時に国民による政権の選択を意味します。こうした諸国では、与党の得票数が過半数を越えるため、選挙の結果として成立した政府は、一先ず、自らの政策実現に関する正当性、あるいは、官僚組織に対する政府の優位性を主張することはできます。その一方で、日本国のような自民党一党優位の多党制の国では、政党間の合従連衡によって与党が形成されますし、必ずしも、明確なる政権選択を意味するわけでもありません。また、選挙公約は、一括選択の‘セット・メニュー方式’ですので、与党が公約として掲げた全ての政策に対して国民が支持しているわけでもないのです。況してや次期‘菅政権’は、党内の派閥力学によって成立するのですから、民主的な正当性を主張するだけの手続きを踏んでいるとも言い難いのです。
第二に指摘し得る点は、何故、‘人事’であるのか、ということです。菅官房長官の口癖は、‘人事は政権のメッセージ’であったそうです。人事権の掌握は、二階議員が党の幹事長の職を以って自民党を乗っ取るに至った手法でもあるのですが、独裁国家の特徴の一つでもあります。仮に官僚の職務が‘政府の政策を誠実に実行する’というだけであれば、人事権を以って人を入れ替える必要性はなく、誰であっても務まるはずです。官僚の人々を全人格的に支配しようとする、つまり、‘主人’に対して忠実なる‘下僕’にしたいからこそ、人事権を掌握しようとするのです。殊更に人事権を振りかざそうとするその姿勢において、法の支配ならぬ、‘人の支配’への著しい傾斜が見て取れるのです。
第三に、官僚組織には、統治制度上、政府とは全く異なる特性と役割がある点です。政府は、選挙によって短期的に交代しますが、官僚組織は、国家が存続する限り永続的に機能し続ける機関として設置されています。前例踏襲主義が批判されつつも、恒久的な機関である故に、過去のデータや情報、あるいは、実務的なノウハウの蓄積もあり、政府は、官僚のサポートなしでは政策実現もままならないのです。また、官僚は、競争試験の試練を経て採用されており、行政能力や専門知識においては政治家よりも優れています。このため、いわば、政策立案に際してのシンクタンク、あるいは、自ら提案するコンサルタントとしての役割をも担っているのです(単なる執行機関ではなく、政策立案にも関わる…)。この点を考慮すれば、日本国が、将来に向けて洗練された民主主義国家を目指し、より国民に資する質の高い政策を実現しようとするならば、官僚組織に独自の役割を認め、政策決定のプロセスにおいて正当に位置づける必要があるように思えます。官僚もまた、政治家と同様に、日本国民なのですから。
以上に述べた諸点からしますと、政府と官僚組織との間には適切な距離とバランスが必要であり、菅官房長官が述べるような政治主導型、否、上意下達の政治支配型では、国家の政策決定プロセスの発展史からすれば、むしろ、時代を逆戻りさせていると言えるかもしれません。そして、何よりも重大なことは、政府であれ、官僚であれ、民主主義国家では、民意に沿った国民本位の政策立案を心がけるということです。仮に、政府が民意に反する政策を採ろうとすれば、官僚組織こそ国民の砦となりましょうし、逆に、官僚組織が省益しか顧みずに国民に不利益を与えるような政策を立案する場合には、政府が民意を盾に国民を擁護する立場となりましょう。上述したシンクタンクとしての役割に加え、民主主義からの逸脱がないように、政府と官僚との間に相互に牽制し得るチェックアンドバランスの仕組みを保持する方が、遥かに、国民の統治機構に対する信頼を高めることができるのではないかと思うのです。
少なくとも、菅政権は国民が選んだわけでもありませんし、仮に、二階幹事長の意向を汲んで、我が国が、中国陣営、即ち、全体主義陣営に鞍替えする事態になりましても、官僚、並びに、日本国民は、政府の政策決定に従わなければならないのでしょうか?民主主義を根拠として民主主義を破壊する行為は(民意の無視…)、許されないのではないかと思うのです。