葬儀社の社員が、帰った後には、シゲ爺さんの近所の人達と、身内の者だけが残った。
冠婚葬祭の際に集まる決められた近所の人達の事を「組うちの衆」
と言うのだと、美香さんが教えてくれた。
「もう祖谷のしらは死んだ後に、地元で焼いてもらえんぞ」
誰かが言った。
「火葬場が閉鎖されるきん、町の火葬場で、焼かれるぞ、合併してから農協もなしんなって、不便な事ばっかりじゃの」
と諦め顔で話していた。
「昔は土葬だったのよね」
美香さんが、熱いお茶を配りながら、話した。
僕は、少し恐くなって、
「なんか、ホラー映画みたいですね。生き返りそうで、恐いです」
と言うと、回りの人達が、一斉に笑った。
シゲ爺さんの傍に座っていた、息子さんがこちらの部屋に来て僕の隣に座り、
「森田くんのお母さんは、昔はみんなに好かれとったけど、結婚相手はどんな人やった?」
とお菓子の袋を開けながら、何気なく訊いてきた。
「あ…父は……学校の校長先生でした」
美香さんが、こちらを見てチラッと微笑った。
「そうか、それで君も賢そうな顔をしとんやなあ~」と誉められた。
僕の父親は、校長先生で、交通事故で亡くなった。
話していると、そんな気になってくるから、不思議な感覚だった。
息子さんが、焼酎のお湯割りを作っていた。
少し猫背になって、コップの中を覗きこむ様に焼酎を混ぜる仕草は
あの日のシゲ爺さんとそっくりで、見ていて可笑しくなった。
「そう、そう森田くんのお母さん目当ての、行商の人もおってな、下の県道から20分位かけて、歩いて魚売りに来とったわ」
組うちの一人の女性が、思い出した様に話し出した。彼女達は母より少しだけ若い年齢に見えた。
「あの人は、奥さんも一緒に来とったよな~」
もう一人の女性が膝を崩しながら、話した。
「あれは、森田くんのお母さんにご主人が好意を持っているのに気付いて、心配で見張りよんじゃって、皆が適当な噂話、しよったなあ。
あの時代は、物は無かったけど、みんなが毎日活き活きしとったよなあ~」息子さんが、僕を見ながら、朗らかに話した。
「行商って?」
僕は初めて聞いた言葉に一瞬、言葉を詰まらせた。
「祖谷の人達は野菜は自給自足できたけど、魚は高知から車で行商の人達が、売りに来とったからな。
交通が不便だった頃の話だけどな」と言いながら、息子さんは、奥の部屋のシゲ爺さんの傍に行った。
僕は一人で動揺し、じっと壁の一点を見ていた。
「村の外から…母を好きだった人…」
自分の庭に降り積もった真っ白な雪の上に、突然現れた見知らぬ人の靴跡みたいに、突然聞いたその話は
僕の仮定を振り出しに戻されて、全て否定されてしまいそうで、頭の中が真っ白になった。
「そろそろ、お念仏あげて、今夜は終いにしませんか?」
空になった湯のみを集めながら、美香さんが言った。
「シゲ爺さん、何十年も新仏さんでる度に、通夜の時に、お念仏あげよったなあ。
シゲ爺さんの代わりに誰か、お念仏あげてよ」
組うちの女性が、そう言いながら、区長さんをチラッと見た。
区長さんは、お念仏は知らないから勘弁してと必死で抵抗していた。
「親父は、お念仏書いた紙、仏壇の引出しにいつも仕舞いよったわ~」
と息子さんが、奥の部屋に行き、仏壇の引き出しから何かを探して、こちらの部屋に戻ってきた。
「書いた紙、ボロボロになっとるでえ~なんだよ~これ~折り目に穴空いて、字読めんぞ」
と区長さんは、そのボロボロになった紙を膝の上で広げると、開き直ったみたいに、シゲ爺さんの前に座った。
区長さんの後ろに身内の人達が座り、組うちの人、美香さん、僕と座った。お念仏が 始まった。
みんなが、区長さんの背中ごしに仏様になったシゲ爺さんを、見ていた。
お念仏が 唱えられている柱時計の、振り子の音だけが静寂の中に響く。
お念仏が 唱えられている
「区長さん、中々いけるぞ、シゲ爺さんの跡取りできるぞ」
小さな声で 誰かが言った。
お念仏は続いている
組うちの女性の携帯電話が鳴った。
お念仏が 繰り返されている。誰かが、くしゃみをした。
女性が 台所に行き携帯で話している
お念仏は 繰り返されている
「生まれたんかぁ、良かった。良かった。葬式済んだら行くけんな
気をつけて大事にするように、娘に言うてな~ありがとう」
お念仏は 唱えられている。
ぶっきらぼうな 口調で
決して 上手でないけれど
お念仏は 唱えられている
家の裏の竹が、また鳴ったお念仏は続いている
涅槃の世界の意味を問うように
単調な拍子が
切なく心に響いてくる
母さん、あの日病室の窓から空を見ながら
「帰り…た…い」
と言ったのは
この場所だったんだね。
母さん、親孝行出来ないままでごめんなさい。
神様、もう一度母さんに会わせて下さい。
僕は ポケットに手を入れた。
昨日シゲ爺さんに貰った、方位磁石をそっと撫でた。
神様、どうして愛する人達を奪って行くのですか
有理のあの日の泣き顔や
有理のあの日の笑い声
母さんの 最期の瞬間
母さんの 笑った顔。怒った顔。おどけた顔。
シゲ爺さんの 最期の
また もんてこいよの優しい顔
もう、僕は父に逢えなくていいと思った。
母さんとこの世で出逢えただけで、僕はこの先の人生を愛情の轍を道標にして、歩いて行ける。
涙が 後から後から
溢れてきて
涙腺が決壊したみたいに
ずっと ずっと泣いていた。
美香さんが
ポケットからチョコレートを出して
僕の手に乗せた
美香さんが
ポツンと 呟いた。
「生まれて…死んで
にんげんってキレイだね」
新仏さんに
融通念仏を唱えたてまつる
極楽浄土の
しょうりが池の
ハスの花は
一本開いて 一本つぼんで
ひらいたお花は
傘にもねへそや
つぼんだお花は
にのにも ねえそや
宵の薬師に 夜中の虚空蔵
朝とき お地蔵に
明けての 観音
じいひが浄土へ
通らせたあまえ
融通念仏 南無阿弥陀仏
お念仏は終わった。
美香さんが、僕の腕を軽くつねって言った。
「森田智志っ、しっかりしなさいっ」
僕はまた、泣いていた。
美香さんは 小声で言った。
「シゲ爺ちゃん、昔から真言宗なのにね…」
僕は 泣きながら、美香さんのチョコレートの付いた口元をみて、少しだけ笑った。
僕は黙祷した。
「シゲ爺さん…ありがとう。シゲ爺、さようなら」
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