松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

学校は工場(こうば)になりえるか

2008-08-29 12:55:58 | Weblog
  佐久間勝彦先生は、「『事実と創造』8月号新・教師のこころの扉をひらく」において小関智弘氏の著書から次のような文章等を紹介している。
小関さんは「こうじょう」と「こうば」について、その規模で使い分けることをしない。「工場」になる施設を、何から思い浮かべてその映像を描くか。私たちの視座の違いによって、読み方が異なると言う。つまり、「工場(こうじょう)」と言うとき、人はまず「建物」を思い浮かべ、それから、そのなかで働いている「機械」に目線を向け、そして、そこで「人間が何やら仕事をしているという光景」を視野に入れる。それに対して、「工場(こうば)」と言うときは、まず「作業服姿の人間」が大きく目に入ってくる。それから、その人が使っている「機械」に目が移り、最後に「機械を囲う建物」が視界に入る。※ ※ ※ 
 「学校」という言葉を聞くとき、私たちはどのような映像を思い浮かべるだろう。まず校舎と校庭が思い浮かび、次に教室の黒板と机・椅子などが見えてきて、教科書をめくりながら教師の話を聞いてノートする子どもが見えてくる。そういう人が多いかもしれない。
  しかし、「学校」というと、目を輝かせた子どもたちが真っ先に思い浮かび、頭をひねりながら教材と格闘する子どもの姿が目に入ってくる。教室からは歌声が聞こえてきて、校庭には子どもたちのはずむ声が飛び交っている。そういう「学校」を思い描く人もいる。おそらく、その人には、子どもが集中する授業をつくりたい。そう思って、教材と誠実に向き合う教師も視界に入っているだろう。※ ※ ※
  私は今までに多くの学校を参観してきた。そのなかには、学校の建物や校庭、きらびやかな数々の施設は思い浮かぶが、子どもや教師の姿が少しも思い出されない学校がたくさんあった。しかし、それとは逆に子どもの集中した授業や輝くような歌声、格の高い授業をつくり出してる教師の言動が今でも鮮やかに思い出される学校もあった。私たちは、後者のような「工場」(こうば)」である「学校」をつくらなければならない。そうしなければ学校の中にいる子どもや教師はいつまでも変わらないであろう。(ここの文は河島)