福沢諭吉は、「自由は不自由の際に生ず」といいます。
いろいろな自由がお互いに牽制しあって、どの自由も絶対的な力をもたない、まさにそういうところに自由があるのだ、という一種の逆説的な命題です。
『文明論之概略』の根底を貫くひとつの大切な考え方です。
そのこととも関連してくるのですが、日本文明の病理とは何か?
福沢は、五文字で言いえています。
それは、「権力の偏重」です。
政治権力だけでなく、金力、腕力(軍事力)、智力などあらゆる領域で当てはまります。政治権力に限定するのではなく、福沢は、“多元的”権力論者なのです。
あらゆる領域の活動にあてはまり、それ以外の権力によって制限されないと腐敗と濫用の源になると福沢は考えます。
生ずるすべての人間関係で上下の権力の偏重があり、かつ同時に、上が下より“偉いのだ”という価値づけも伴っています。一切の社会関係に、権力の偏重が見られます。
男女関係、親子・兄弟など家族関係、師弟主従、貧富貴賤、新参と古参、本家と末家。大藩小藩、仏寺の本山末寺、神宮の本社末社。官僚制での上下関係。
権力の偏重を生んだ原因は何か。
日本の気候や風土や食物ではありません。
日本の歴史的過程が原因します。
古代は、治者と被治者が分かれ、その治者として王室へ権力が偏重しました。
中世では、寺社の権力が相対的に大きくなり、一向一揆や法華一揆のように武力で俗権に対抗するときは一時ありましたが、続きませんでした。
近世(徳川幕藩体制)では、権力と権威の分化は起こりますが、権力の偏重がまた続くようになります。
「政府は新旧交代するけれども国政は変ずることなし」ということで、「日本の人民は国事に関せず」で今まで来たのです。
明治維新でも、中央政府が、政治以外の諸価値、富価値とか学問などの文化価値を独占して、これを人民に配給するという形をとりました。上からの文明化というパターンは続きました。
以下、丸山氏の解説を、『「文明論之概略」を読む』から抜粋します。
「治者と被治者との間が高壁で隔てられ、軍事力にとどまらず、学問・宗教など文化の領域までもが、治者の勢力範囲に入って、その関係の相互利用によって、各々の領域での自分の権力を伸長しようとする。その結果、富価値・才能価値・名誉価値(栄辱)・倫理価値(廉恥)など一切の社会的価値が、全部治者の側に磁石のように吸い取られてしまう。治者はこれら諸価値を独占して被治者をコントロールする。そうすると、世の中の治乱とか、文明とかいっても、それは治者の支配領域に関することであって、被治者の側には、自ずから政治的無関心だけでなく、一切の社会や文化に対する傍観的態度が生まれる。
(中略)諸領域の活動に被治者が無関心で、俺の知った事じゃないという態度だと、下からの自発的エネルギーを発揮する余地が少ない。」
状況は、昭和そして平成の今に通じていると自分は思います。
治者や被治者というあからさまな区別はないけれども、何事も上から与えられるのを待つ構造があるのではないかと感じます。下からの自発的エネルギーで物事が動く機会はまだまだ少ないと感じます。
少ないと感じながらも、私はそれをあきらめません。
築地市場の現在地再整備は、市場関係者と築地を慕い愛する人たちの力で実現へ近づくことを信じたいと思います。
『中央区協働推進会議中間報告』へのこだわりは、NPOという道具が、下からの自発的エネルギーを形に変えてくれる手段であると信じるからです。
そして、少しずつですが、状況が変わりつつあることも実感としてもちます。
福沢諭吉は、ここまで情報技術の革新を想像し得なかったのではないでしょうか。
インターネットを手にした私たちは、情報を瞬時に手にします。世界中の誰とでもつながります。
上から与えられるのを待つ必要がなくなりました。
いよいよ、日本にも、「権力の偏重」がなくなり、真に文明化した国になれるのではないかと思います。
政治がもう少し、しっかりするという条件付ですが。。。
日本の歴史の三つ目の転換点。
明治維新、敗戦、そして今。
いろいろな自由がお互いに牽制しあって、どの自由も絶対的な力をもたない、まさにそういうところに自由があるのだ、という一種の逆説的な命題です。
『文明論之概略』の根底を貫くひとつの大切な考え方です。
そのこととも関連してくるのですが、日本文明の病理とは何か?
福沢は、五文字で言いえています。
それは、「権力の偏重」です。
政治権力だけでなく、金力、腕力(軍事力)、智力などあらゆる領域で当てはまります。政治権力に限定するのではなく、福沢は、“多元的”権力論者なのです。
あらゆる領域の活動にあてはまり、それ以外の権力によって制限されないと腐敗と濫用の源になると福沢は考えます。
生ずるすべての人間関係で上下の権力の偏重があり、かつ同時に、上が下より“偉いのだ”という価値づけも伴っています。一切の社会関係に、権力の偏重が見られます。
男女関係、親子・兄弟など家族関係、師弟主従、貧富貴賤、新参と古参、本家と末家。大藩小藩、仏寺の本山末寺、神宮の本社末社。官僚制での上下関係。
権力の偏重を生んだ原因は何か。
日本の気候や風土や食物ではありません。
日本の歴史的過程が原因します。
古代は、治者と被治者が分かれ、その治者として王室へ権力が偏重しました。
中世では、寺社の権力が相対的に大きくなり、一向一揆や法華一揆のように武力で俗権に対抗するときは一時ありましたが、続きませんでした。
近世(徳川幕藩体制)では、権力と権威の分化は起こりますが、権力の偏重がまた続くようになります。
「政府は新旧交代するけれども国政は変ずることなし」ということで、「日本の人民は国事に関せず」で今まで来たのです。
明治維新でも、中央政府が、政治以外の諸価値、富価値とか学問などの文化価値を独占して、これを人民に配給するという形をとりました。上からの文明化というパターンは続きました。
以下、丸山氏の解説を、『「文明論之概略」を読む』から抜粋します。
「治者と被治者との間が高壁で隔てられ、軍事力にとどまらず、学問・宗教など文化の領域までもが、治者の勢力範囲に入って、その関係の相互利用によって、各々の領域での自分の権力を伸長しようとする。その結果、富価値・才能価値・名誉価値(栄辱)・倫理価値(廉恥)など一切の社会的価値が、全部治者の側に磁石のように吸い取られてしまう。治者はこれら諸価値を独占して被治者をコントロールする。そうすると、世の中の治乱とか、文明とかいっても、それは治者の支配領域に関することであって、被治者の側には、自ずから政治的無関心だけでなく、一切の社会や文化に対する傍観的態度が生まれる。
(中略)諸領域の活動に被治者が無関心で、俺の知った事じゃないという態度だと、下からの自発的エネルギーを発揮する余地が少ない。」
状況は、昭和そして平成の今に通じていると自分は思います。
治者や被治者というあからさまな区別はないけれども、何事も上から与えられるのを待つ構造があるのではないかと感じます。下からの自発的エネルギーで物事が動く機会はまだまだ少ないと感じます。
少ないと感じながらも、私はそれをあきらめません。
築地市場の現在地再整備は、市場関係者と築地を慕い愛する人たちの力で実現へ近づくことを信じたいと思います。
『中央区協働推進会議中間報告』へのこだわりは、NPOという道具が、下からの自発的エネルギーを形に変えてくれる手段であると信じるからです。
そして、少しずつですが、状況が変わりつつあることも実感としてもちます。
福沢諭吉は、ここまで情報技術の革新を想像し得なかったのではないでしょうか。
インターネットを手にした私たちは、情報を瞬時に手にします。世界中の誰とでもつながります。
上から与えられるのを待つ必要がなくなりました。
いよいよ、日本にも、「権力の偏重」がなくなり、真に文明化した国になれるのではないかと思います。
政治がもう少し、しっかりするという条件付ですが。。。
日本の歴史の三つ目の転換点。
明治維新、敗戦、そして今。
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