先日、高校生がどのように学んだらよいだろうかと疑問を呈された。
きっと、中高の教える側の先生方も、楽しんで教えられているものは、大変深い学びができるはずである。
中高は、最低限の生きる力をつけるとともに、大学受験や専門学校等高等教育機関へのための学びのように一般的にはとらえられがちである。
受験は、決して「目的」ではない。
好きな大学等へいけ、大学等で好きな学びができるための「手段」としての受験がある。
「学習指導要領」から飛び出せないから、なかなか、楽しい学びへと広がりづらいであろう。
時間がなくて、さらにつっこんだ学びへと自分の学びを広げていくことも難しくもある。
全てはなかなか難しいかもしれないけれど、学びたいという気持ちが芽生えると、飛躍的に自身の学びは広がっていきます。
やらされているという勉強からの脱皮が鍵となると考えています。
ちなみに、義務教育や学習指導要領、大学受験がない時代の700年前、吉田兼好さんは、身に着けたい学問(特に帝王学として)を以下のように述べています。
漢詩、和歌、音楽、古典の教養、礼儀作法。
「ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道、また有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走りかき、聲をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ男はよけれ。」
*******徒然草 第一段******************
いでや、この世に生れては、願はしかるべきことこそ多かめれ。
帝の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人などたまはる際は、ゆゆしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつつ、時に逢ひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口惜し。
法師ばかり羨しからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢猛に、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀聖のいひけんやうに、名聞くるしく、佛の御教に違ふらむとぞ覚ゆる。ひたふるの世すて人は、なかなかあらまほしき方もありなん。
人は、かたち・有樣の勝れたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性見えんこそ、口をしかるべけれ。
人品・容貌こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なくなりぬれば、しなくだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道、また有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走りかき、聲をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ男はよけれ。