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書評:『レオナルド・ダ・ヴィンチ』 Walter Isaacson (原著)土方 奈美 (翻訳) 没後五百年、「芸術とテクノロジーの両方に美を見いだし、二つを結びつける能力によって天才となった」

2020-03-22 09:10:49 | 書評

 没後五百年を迎えるレオナルドは、『最後の晩餐』『モナリザ』等により「近代的絵画の創始者」と評されるだけでなく、科学者・技術者として「ルネッサンス的教養人の代表格」である。

 レオナルドの交友は広い。マキャベリが友人で『君主論』の主人公である暴君チェーザレ・ボルジアに彼を介して雇われたこともある。

 50代で、ライバルが『ダビデ像』の彫刻家ミケランジェロであった。20代であった彼は、心底レオナルドを軽蔑し、レオナルドのほうも、自身が『ウィトルウィウス的人体図』を描き裸体に否定的ではないにも関わらず、『ダビデ像』に「品位ある装飾を付けて」設置すべきと発言したこともある。シニョリーナ宮殿の大会議場に戦争画『ギリアーニの戦い』の壁画の依頼を受け、もう一方の壁にミケランジェロも戦争画『カッシーナの戦い』を同時期に描くことになったときがある。まさに競作である。レオナルドは、「絵画は自然界の知覚できるものすべてを受け入れ包含する。たとえば事物の色やその濃淡であり、それは彫刻という乏しい世界では不可能だ。…」とミケランジェロの彫刻や『カッシーナの戦い』等の彫刻的な絵画を批判している。両者とも完成せず、描かれるはずの場には、ヴァザーリによる6枚の戦争画がある。最近の研究で、絵の下にレオナルドの下絵があることがわかってきている。
 ダビンチは、解剖、化石、鳥類、心臓、飛行機、光学、植物学、地質学、流体学、軍事兵器とありとあらゆる分野を研究した。レオナルドは、絵画では、境界線をぼかす「スフマート」という技法を開発した。また、立体性を絵画に取り入れた。史上最も独創的な天才であろう。スティーブ・ジョブズが師と仰ぎ、「芸術とテクノロジーの両方に美を見いだし、二つを結びつける能力によって天才となった」と述べる。

 レオナルドの非凡な才能は、神からの贈りものでは決してない。非嫡出児であり、学校教育をほとんど受けておらず、ラテン語や複雑な計算はできなかった。左利きで、注意散漫で、ときに異端であった。30代の頃、「いまだかつて完成した作品などあるのなら、教えてくれ…教えてくれ…教えてくれ」と心の叫びを書き留めている。才能が認められなかった苦しみの時期をレオナルドも経験しているのだ。

 1508年~1513年レオナルドが解剖学の研究に没頭したことは、医師としても興味深い。バヴィア大学解剖学マルカントニオ教授と共同研究をした。240点以上のデッサンと、1万3000ワード以上の記録を残した。詳細に筋肉や神経・血管、脊椎骨の構造を記録し、脳室の形を解剖で取り出した脳の中に蝋を流して発見し、唇の細かな筋肉の解剖をした。首の筋肉は、後に絵画に筆を付け加え、脳室を空想力の所在地と判断し、唇の解剖は、『モナリザ』の微笑に繋がった。

 動脈硬化の発見だけでなく、驚きなのは、大動脈弁がなぜ閉まるかを流体力学の考察から解き明かした。大動脈の三角形の弁の尖頭が開き、穴を通過した血流は、大動脈のより太い部分に流れ込み、らせん状の渦をまき回転する。その血流が三つの弁の側面に当たり、弁が閉じることを発見した。1700年代初頭の解剖学者にちなみ「バルサルバ洞動脈」と言われる箇所だが、「レオナルド洞動脈」と言われてもよい発見であった。
 しかし、レオナルドが陥った失敗が、弁が一方通行の仕組みであることを理解しておきながら、当時の常識であった「血液は心臓に出たり入ったりするだけ」というガレノスの唱えた説の誤りに気付けなかったことである。私も不思議に思うが、著者は、血液の流れの研究は、本や専門家からの知識をあまりに多く身につけてしまったため先入観に囚われ、斬新な発想ができなくなった珍しいケースと分析する。現代に生きる私たちも、膨大な情報にさらされ、三次元画像が複雑な動きや形などを簡単に示してしまうため、想像する力を鍛える場が減っている。大いに注意をすべきである。

 著者は、本書を上梓した後、レオナルドのように世界を見ようと努力した。日々目の前の世界に驚きを見い出そうとすることで、人生が豊かになると述べている。私も、レオナルドの観察眼をぜひ持ちたい。芸術と科学を幅広く学問分野の枠を超えた学びをこれからもして行きたいと思う。都市計画を考えざるを得ない公職を得ており、なおさらである。7200ページの手記も参考に、レオナルドが得意としたアナロジーも使ってみたい。レオナルドが見ていた地球と人とのアナロジーを自分なりに解き明かしたい。

 子ども達は、もともと自然と周囲の世界に好奇心を抱いている。「キツツキの舌がなぜ長いか?」とまでは疑問を抱かなくとも、「空はなぜ青い?」と多くの子どもが思うはずである。その好奇心を育て、「なぜ」という気持をはぐくめるようにしていきたい。例えば、「ダメな画家は画家に学ぶ。優れた画家は自然に学ぶ」(アッシュバーナム手稿、1巻2 r.)ということが初等教育の図工・理科の中で、生かされることを願う。
                                      以上





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書評:『夜間飛行』&『人間の土地』サン=テグジュペリ、堀口大學訳 新潮文庫 

2020-01-09 23:00:00 | 書評
 世界中で最も愛される書のひとつ『星の王子さま』の著者サン=テグジュペリ(1900年出生、享年44歳)。処女作『南方郵便機』に次ぐ第二作が『夜間飛行』(31年刊)である。

 彼は、日々、厳格な規律の中に身を置いて、死の危険と背中合わせになりながら、その体験を糧に、文学を編み出した。「飛行機が僕に筆を執らせたのでは決してない。…飛行機は決して目的ではなくて手段だ。自分を創り上げる手段だ。僕は飛行機を用いて自分を耕すのだ。」と彼は述べる。描かれているのは、堀口大學が「あとがき」に記すように「彼の飛行文学が、最行動的断面の描出に始終しつつも、その靉靆(あいたい)する高邁な精神美」である。

 本書は、著者が郵便物輸送会社に支配人としてブエノス・アイレスに赴任した時(29年)に執筆が開始された。本書が捧げるディディロ・ドーラ氏こそが主人公リヴィエールであり、まさに現実に夜間飛行を立案した人物であった。時代は第一次世界大戦終戦(18年)後の間大戦期、国家の支配下で郵便飛行の競争がなされていた。当時、フランスの航空郵便航路の開拓・維持のため、100名以上の死者が出たという。本書執筆中の30年、著者自身もアンデス山脈に不時着したギヨメ(『人間の土地』が捧げられた僚友)の救出にあたっている。夜間の定期飛行事業は必ず失敗するはずだと論難攻撃される中で、「非凡な性格者」、航空輸送会社の支配人リヴィエールは、「せっかく、汽車や汽船に対して昼間勝ち優った速度を、夜間に失うということは、実に航空会社にとっては死活の重大問題だ」と抗弁し、世論は自分が導く、経験が法をつくるという気概を持ちながら事業を押し進めた。

 果たして、夜間の急な嵐に遭遇したファビアンの操縦する一機がもどらぬものとなる。事業所に駆けつけたファビアンの妻とリヴィエールは面会する。結婚して一ケ月あまりの若妻は、遠慮がちに、自分の家に待っている花、支度してあるコーヒー、自分の若い肉体のことについて訴える。彼女自身も、自分の実在があまりに強力で、彼女の中にある愛情、あまりに激しく野蛮だとさえ思われる愛情や熱烈さが、遭難機からの連絡を待つ事務室の場においては、邪魔な、利己的な姿に感じ、「お邪魔でしょう…」と発する。「邪魔じゃありません。ただ、あなたもわたしも、待つよりほかには何もできないのが残念です。」とリヴィエールは答えるが、深いあわれみを口には出さなかった。心のうちには、「同情は、外面には現さない…」「部下をそれと知らさずに愛する」との思いを秘めていただろうが。「マダム…」リヴィエールは次を切り出そうとするが、彼女は謙虚に近い微笑を浮かべながら部屋を去った。個人的家庭的なささやかな幸せを望む若妻に、国家的社会的な偉大な事業を遂行する責任者リヴィエールは、おのれの真実を言語化できなかった。だが、彼もそのままたじろいだわけではない。「颶風(ぐふう)は毎晩ありはしない」「一旦道を開いた以上、続けないという法はない。」との揺るぎない信念のもと、不明機をまたずに、次の機を出発させるのであった。

 「勝利だの…敗北だのと…これらの言葉には、意味がない。生命は、こうした表象を超越して、すでに早くも新しい表象を準備しつつ」あるものだと前置きし、リヴィエールが喫した敗北にさえ著者は「どちらかといえば、最も勝利に近い敗北」との評価を与えるのだった。「大切なのは、ただ一つ、進展しつつある事態だけ」であって、それに臨み続ける姿勢があれば何事も達成できるはずである。

 『人間の土地』(39年刊)においても、七章『砂漠のまん中で』において、一歩一歩の歩みが不時着した砂漠からの絶体絶命の脱出が叶う物語がある。

 リヴィエールが夜間飛行を事業継続させ、砂漠の遭難者に歩みをさせる精神の根底には「責任観念」があると言う。この責任観念が、人間に力を与えて、苛酷な悲運に対して戦いを挑む勇気を奮い起こさせる。責任観念が少しでも人間に力の残る限り、その戦いを続けさえる強靭な意志を与え、困難に打ち勝つ努力を続けさせる。

 同書は、「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。」と締めくくる。その人間が生まれて一番最初に接する職業の一つが小児科医師である。最終章『人間』において、生まれでた誰もが「少年モーツァルト」であるが、しかし、運命の「金属打ち抜き機」にかけられると万事休すとの描写がある。乳幼児期の風邪の治療の中で、責任ある第三者としてそのご家庭ごと子ども達の健やかな発達を支え、しっかりと義務教育の現場へとつないで行きたいとの思いで日々診療している。小児科医師として子どもが打ち抜かれぬように守るという責任観念が喚起される。併せて「精神の風」をふかす大地は、「ぼくら人間について、万巻の書より多くを教える」から、そのような大地や自然との多くの出会いも子ども達に与えて行かねばならないと考える。

以上
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『119』長岡弘樹著、文藝春秋 2019年第一刷

2019-11-17 08:54:48 | 書評

 消防官とは、接点が多い。

 小児科医療の現場で、救急隊要請の際、病状や搬送の際の注意点など述べるときに直接のやりとりを救急隊とする。やりとり自体も短時間で要領よく、酸素マスクの装着や呼吸が楽な体位を取ることなど適切な処置もして下さる。

 2011年2月早朝、築地市場内でチラシを配布していて心肺停止の方に遭遇し、心臓マッサージを行った。間も無く救急隊が到着し、心臓マッサージが救急隊員に交代となった。私も救急車に同乗したが、キレのある心臓マッサージを継続下さり、そのかたは、一命を取り止めることができた。

 本年2月に障害者団体主催の餅つき大会で、障害のある方が餅をのどに詰まらせるエピソードがあった。窒息や意識消失まではいかないまでも苦悶の表情であり、脈をとりつつ介助した。その際、親御さんの中に副署長の消防官がおられ、てきぱきと救急要請と現場の采配を取り仕切って下さった。

 また、臨港消防署第二分団として消防団に私は属している。年に一度、「ポンプ操法大会」というポンプ車を組み立て遠くの火点目掛け放水をし、その速さとともに動作の正確性を競う訓練がある。本書にもあるが、服の乱れのないことや指示に対する「よし」という返事や姿勢など「規律」が重要な採点項目である。その練習に指導や補助で消防官がついて下さるが、帰り際、さわやかな挨拶を返して下さり、その日一日の疲れが吹き飛び、すがすがしさをいつも感じる。

 さらに区議として選手村周辺の交通対策の説明を受けているところ、その選手村のセキュリティ内に、我々の臨港消防署が存在する。選手運搬のバスや関係者車両で混雑する中で、臨港消防署からの緊急出動の動線がきちんと確保されるかが、最も気がかりな点である。ところが、都や組織委員会から説明もなければ、彼らの作成する図面(2019.10.23配布の図面を言う。2019.10.31配布分では一部改善。https://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/7851e9035928caffe75b4fbf2b80e989)に臨港消防署の記載さえなされていないのである。新庁舎として本年7月1日に開設された事情があるにしても、大会本番において、テロ対応はもちろん、選手村内での火事や五輪選手の救急搬送など担う重要な施設であり、その記載を落としてしまうこと自体理解できない。五輪まで250日と差し迫った段階にも関わらず、周辺住民に配布された資料でさえ手渡っていないような感じを受ける。本書には、消防署の任務の大きさに比較してつけられる予算が見合わない旨の記載があるが、選手村内の臨港消防署への五輪に向けた情報共有ができていないことから推察して、わかるような気がする。緊急動線とともに、先日導入を聞いてさらに不安を抱いた消防車も通過する選手村内の道路を走行するトヨタ製10人乗り〝無人〟巡回バス10台導入に関しては、報道によると、緊急時には、消防車に道を譲りかつ停車場所も消火活動を妨げない位置に行う旨は約束されているとのことであり、ひとつ安心材料ではある。

 これら消防官が私にとってはたいへん身近な存在であるにも関わらず、本書は、消防官の知らない世界を紹介してくれている。火消しと救急搬送だけの二分類で機能を想像していたが、さらにレスキュー隊の三つがあるのだという。要救助者は、「二五二(にーごーに)」と略す。消防車の車体の記載の救急の文字は反転している。そして、気づかせてくれた最も重要なことは、消防司令クラスの中間管理職である今垣睦生(いまがきちかお)が、「消防官を、人を助けるヒーローだと思っている人がいまだに多いと思うけれど、ちょっと違うな」と恋人に漏らした本音である。消防官は誰もみな、いつ顔を出すか分からない闇を抱えたまま、それをぎりぎり押さえつけている危うい存在であることが述べられている。火災・事故・災害の現場で死と直面し、また、助けられなかった命に対し、どうしてもその現場でのことが、トラウマとして心に刻まれるのであろう。惨事ストレスから心を病み、自死を考える者は多い。拝命時に抱いた理想の高さに実力がついていかず、深刻な自己嫌悪に陥って命を断つ場合もある。パワハラも多いと2015年時の記載にはある。

 そのメンタルヘルスを支えるある研修会では、精神科医が消防官の中間管理職に、講義の最後に10枚の紙を配り、一つずつ自分の大切なものを書かせた。それから最も優先順位の低いものから順に捨てさせた。各自が悩みながら切りようのないカードを切って行く。人が死んで行くと言うのは、一つずつ大切なものを失って行く過程であるということを認識させる現場が描かれている。

 本書を通じ、激務をこなされておられる消防官へさらなる敬意を抱くに至る。ちなみに、患児の父親の消防官に本書をお示しすると、本年6月の出版であるが彼は知っていた。都では消防・救急・救助の三つの分担・資格を厳格化して運用し、救助のレベルは相当高いことを教えて下さった。お聞きしていて都の消防官としてのプライドを強く感じた。


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『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』佐々木実著、2019年3月第1刷 講談社

2019-07-13 13:34:47 | 書評
 2014年に86歳で亡くなられるその命の灯が燃え尽きるまで、宇沢弘文氏は、経済学はひとのためにあるということを実践した。経済学に人間の心を持ちこもうと努力し続けた。

 宇沢は、現代経済学の課題について、二つの類型に分類し批判する。

 第一は、経済学が、その分析対象をあまりに狭く市場的現象に限定しすぎて、より広範な、政治的、社会的、文化的側面を無視ないし軽視し過ぎたという批判である。環境破壊、公害、人間疎外、ゆたかさの中の貧困などが生じている。第二は、経済学の分析的方法に関するもので、内在的な批判である。すなわち、いわゆる近代経済学の理論的枠組みをかたちづくっている新古典派の経済理論があまりにも静学的な均衡分析に終始しすぎていて、インフレーション、失業、寡占、所得分配の不平等化などという動学的な不均衡状態に関する問題に対し有効な分析を行うことができていないことである。

 第一の問題への対応として、宇沢は、社会的共通資本論を構築した。

 社会的共通資本とは、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、そして教育、医療、司法、金融制度などの制度資本がその重要な要素である。ジョン・スチュアート・ミルの定常状態の経済を理想的な姿としてみている。

 この社会的共通資本の概念に理論的および実証的な観点からの分析を深めるのが制度主義で、ソースティン・ヴェブレンに始まる制度学派の流れの中に位置づけられている。

 数理計画法から始まり、消費者の顕示選好、一般均衡理論の存在と安定、中立的技術進歩の理論、2部門経済成長モデル、最適成長理論、内生的経済成長理論など数理経済学の分野で世界的な業績を発表し、36歳にシカゴ大学の教授になった。ジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、青木昌彦など多くの重要な経済学者を育てた宇沢は、1968年に突然、東京大学に戻った。不惑の歳と呼ばれる40歳を迎えた時、ベトナム戦争が始まり、徴兵されることを憂慮し家族を守るための行動であった。

 帰国した日本は、発展途上国から先進国に、近代から現代に脱皮する過程において高度資本主義社会への適応過程の中であり、学園紛争、水俣病を初めとする公害や環境破壊の問題、三里塚闘争などに宇沢は直面することとなる。

 1970年代は、世界は東西冷戦構造であり資本主義国と社会主義国に二分されていた。資本主義国のオルタナティブとして社会主義国が実在していたわけであるが、宇沢は、社会主義体制は資本主義国の選択肢となる可能性を明確に否定したうえで、現在の市場経済制度への批判を通じて、新しい経済制度が模索されるというというビジョンを有する。

 社会的共通資本の経済学の始まりを告げる作品として、『自動車の社会的費用』を1974年出版しベストセラーとなった。経済学を、与えられた知識の体系として受け止めるのではなく、自分自身の身近な問題、社会の問題を分析する道具として鋳なおそうという意気込みで書かれている。安心して道を歩くことが社会的に合意した基本的な権利であるという認識から出発し、展開する考え方が社会的共通資本の経済学に基づくものであるとした。「価値判断の問題は経済学の範疇ではない」とみなす既存の経済学への反旗として、宇沢は、価値判断を下す経済学者、行動する経済学者へと変貌していったのであった。

 第二の問題に対しては経済学の主舞台であるアメリカの経済学会と向き合う。

 貨幣数量説(マネタリズム)、自由放任主義、市場原理主義などを進める新自由主義の正当性を説くフリードマンが1967年12月アメリカ経済学会の会長に就任し「金融政策の役割」と題する講演を行った。ケインズ革命を葬るための「反革命」がこの時始まったとされる。宇沢は貨幣数量説を厳しく批判し、50歳を目前の1976年計量経済学会会長としてヘルシンキ講演を行ったが、不発に終わった。一方、新自由主義は、1979年誕生のサッチャー首相、1981年誕生のレーガン大統領に取り入れられ多大な影響力をもつこととなる。マネタリズムが現実の政治の中で取り入れられ、自由放任主義が世界の中心に据えられていくこととなる。宇沢は敗れた。

 2008年リーマンショック・ショックによる市場原理主義の破たんを目にしながら、日本は、社会的共通資本が守られようとはしないでいる一方で、新自由主義の経済路線は根強く続いている。新自由主義に翻弄されている現実にどのように対峙するための根拠とする考え方をなかなか見いだせないままでいた。国連のSDGsの考え方が使えるのではないかと思っていた矢先に、宇沢氏の社会的共通資本論に出会った。

 経済学は、政治に入り込んでおり、一部の経済学者と金融界の癒着があるとも言われている。「キル・レーシオ」などはじく恐ろしい学問ともなりうる。今後は、経済学の視点からも政治を分析すると共に「社会的共通資本」を守って宇沢の意志を継げるように最大限の努力をしたい。

 なお、数学が得意だったらよかったと経済学を学ぼうとして反省する次第…

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1951年(昭和26年)詩人・原民喜は、線路を枕にして自ら命を絶った、希望を私たちに託して。『永遠のみどり』

2018-12-17 17:04:11 | 書評
 佐藤春夫氏は、原民喜の鉄道自殺を詠む。


 宵ノ間ハ酒場ニテ

 少女ラト笑ヒシガ

 土手ノカゲ

 線路ノ間二枕シテ

 十一時三十一分

 頭蓋骨後頭部割レ

 片脚切レテ

 人在リヌ

 詰襟ノ服ヲマトヒ

 ヨキ服ハ壁ニカケ

 友ノタメ残シ置キシハ

 ヌケガラニ似テ

 「崩れ墜つ 天地のまなか

 一輪の花の幻」思ヒツメ

 来世ハ雲雀ト念ジ

 人死ニヌ

 サリゲナク別レシ友二

 書キ置キハ多カリキ

(佐藤春夫「三月十三日夜ノ事」)



 この自死の直前に、原民喜から「中国新聞」に送られた詩は、『永遠のみどり』。


 『永遠のみどり』

 ヒロシマのデルタに
 若葉 うづまけ

 死と焰の記憶に
 よき祈りよ こもれ

 とはのみどりを
 永遠のみどりを

 ヒロシマのデルタに
 青葉 したたれ


 現代において、自死は倫理的に許されないことであるし、小児科医としても徹底的に抗わねばならないものであるとしても、自身は死にゆくにも関わらずここまで希望に満ちた詩を私たちに残してくれたことに、ある意味大きな驚きと感銘を憶えます。

参考文献:『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 著 梯久美子 岩波新書 2018年 
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第158回直木賞受賞作 『銀河鉄道の父』門井慶喜 著、講談社 2017年第一刷

2018-04-07 13:29:43 | 書評
 「雨ニモマケズ…」サウイウモノニワタシハナリタイと宮沢賢治がなりたかったその詩に描いた人物像は、父、宮沢政次郎だったのかもしれない。

 イリジウム採掘だの、製飴工場だの、人造宝石だの言い出し資金の無心をする息子に、その現実離れした計画には、世間をあなどるなとして取り合わないが、愛情をかけ常に賢治を見守って来たのが政次郎であった。賢治が小切手を送り返すようになる頃までは、資金援助を惜しまなかった。

 政次郎は、愛情をがまんできず、不介入には耐えられない。小学校に上がる前の赤痢、中学のときの疑似チフス、賢治は入院するほどの病気に罹患したが、その時、看病を買って出たのは政次郎であった。そのために政次郎自身が、赤痢や擬似チフス症状をもらってしまうまでに親身になって寄り添った。

 小学校の際、賢治は同級生らと川の青草が燃えるかどうか確かめるために火をつけるとそれがあっという間に燃え上がり、たまたま川中の島であったため町には燃え広がらずけが人も出なかったが、二、三軒の小屋を燃やしてしまった。賢治が含まれていたことは、政次郎が聞きつけていた。夕飯の際、火をつけたことを賢治に質したが、賢治はやっていないと言い、それ以上、問いたださなかった。そして、燃やした小家の再築代金は、自身が建て替えた。子のウソを知りながら、ウソをついたことを正さないところの甘さは、親に資金を当てにするなど後々の賢治の甘さに繋がっていったのではないだろうか。

 小学生のころ、賢治は、妹のトシと石集めに熱中した。政次郎は、その集め方に対し、付け焼き刀の知識で講義をし、京都まで言って石の標本箱を買ってきたりした。その興味が、将来の地質や土壌の専門性をのばすことに導いた。賢治の作品の中で、石の輝きのような表現が文章中に入る下地を作っているのであろう。

 江戸末期、明治、大正と生き馬の目をぬく世の中で、東北地方の地方の商家がつぶれずに生き残るのは並大抵のことではなかった。政次郎は、一度つぶれかかった質屋を再興した由緒ある家柄の長男として育ち、「本を読むと、なまけ者になる。」として、小学校を卒業し進学したかったが許されず店に入った。明治29年(1896年)生まれ、中学までは進学が許された賢治は、その先も進学をしたかったが、「質屋に学問は必要ない」と一時引き止められた。しかし、その後、農民との質のやりとりをやらせてみるに、お金を借りる事情を聞いて貸す額を上げてしまう賢治が質屋に向かないことを悟ったのであろう。18歳の時に進学を許され、農学校の道を進むのである。「またしても農民のためか」と42歳政次郎を思わせた。

 その後も、親との衝突は、田中智学が創設した日蓮宗系の国柱会に走らせることとなる。賢治は、普及のビラも配り、その真理を理解しようとこころみ、本部へもたずねていた。代々浄土真宗を門下であったため政次郎と賢治は、お互い譲りあうことなく宗教論争をし、その衝突は、夜中まで及ぶこともあった。

 父子は共に、信念を曲げなかった。政次郎は、花巻の町会議員をしながら、質屋を守り続け、財力と名声をもっぱら家と街のためだけに使った。努力で地位を築いたものにとって、ひとのねたみもそのまま新たな努力の糧にした。賢治も無料相談で、農家の土壌の改良の方法をその専門家として伝授した。死の直前、知る者なら訪問さえやめている中、訪れた農民の相談者に一時間ばかり時間をかけて伝授し、その農民は納得の上帰って行く。命を削っても、自らの使命を全うすることに手をゆるめようとはしなかったのである。

 賢治の周りには、①エクトール・マロ『家なき子』を読んで下さる小学校の担任の八木先生がいたこと、②中学校の先輩の石川啄木がおり第一歌集『一握の砂』を読んで衝撃をうけたこと、③盛岡高等農林時代に同級生と同人雑誌『アザリア』を創刊したこと、そして④作り話を聞いてくれる2歳年下の妹トシがいたことなど作家を志すきっかけのような環境はあったにしても、賢治の作品は、父無くして作られることは決して生まれることがなかったのではないだろうか。賢治以上に、貢献しているのは、まさに宮沢政次郎である。

 葛藤のように外見にうつるが、賢治と政次郎の間には、一つの学ぶべき父子関係がある。父子関係で大切なこととは、①愛情をかけること=看病や資金援助を政次郎は子ども達に行った、②共通の話題で心を通わすこと=宗教では宗派こそ違えど議論を父子はした、③父自身の曲げない信念をもつこと=弱い人間相手の商売と言われようと商家を守り次世代に継承した、これらがあれば、それを見て子は育ち、子自らが未来を切り開いてくれることを賢治と政次郎は示してくれている。自らの子育てでできているか自省すべきところである。

 親が子の臨終に寄り添わねばならない辛さは計り知れぬ。妻イチに制されながらも政次郎は、死の間際の賢治の遺言を筆で記す。賢治は、妙法蓮華経全章を1千部作り皆に配布するように述べ、政次郎は実行する。昭和8年(1933年)、37歳、賢治の最後の反抗は、遺言の筆を置きに父らが部屋を出たその合間、母一人の前で旅立った。死と言うむさくるしいものを父に見せない。死の瞬間は選べないとしても、架空の地名イーハトヴに「いわて」をかける賢治の遊び・いたずらが、この人生の最後にも父子の間でなされたかのようであった。
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レジス・ドゥブレ、『あなたは、デモクラットか、それとも共和主義者か』1989年11月

2017-10-01 09:49:27 | 書評
 レジス・ドゥブレは、1989年11月の本稿において、デモクラット(デモクラシー)と共和主義者(共和制)を対比させた。どちらも、民意で物事を決める民主主義に基づく制度であるが、両者には、大きな違いがある。

 ドゥブレが論考を書くきっかけとなるライシテ(非宗教性)は、フランス憲法では第一条にあり、国家の非宗教性、公共的空間からの宗教の排除が規定されている。宗教的象徴をまとい教室に入ることは許されない。デモクラットは憤慨するであろうが、不寛容とは別の次元の問題である。

 デモクラシーは、自由主義にも通じ、国家すなわち君主制国家からの自由をいうイギリス型の制度である。
 一方、共和国は、国家すなわち市民的公権力による自由でフランス型の制度であり、言い換えると、「国家による・社会からの・個人の自由」をいう。社会とは、大きく言って、宗教的権力と経済権力を指す。

 日本は、デモクラシーのほうに入る。

 デモクラシーでは、各人は、自分を自分が属している「コミュニティ」によって定義する。
 共和制においては、各人はみずからを市民としてとらえ、すべての市民によって構成されているのが「ネーション」、すなわち「共通の法のもとで生き、同じ立法者によって代表される、仲間・同輩者たちの一団(シエース)である。
 日本では、会社や町会・自治会、職業団体などどのような組織に属しているかでその人を見るし、行政が支援をするのも、まずは念頭にあるのはそれら組織である。

 デモクラシーにおけるキーワードは、コミュニケーションであり、共和国では、制度である。
 日本では、コミュニケーションとして酒の席が多用され、そこで物事が決められて行くと言って過言ではない。

 デモクラシーでは、民間の財団が重要な役割を果たすが、共和制では行政府の省庁がその任にあたる。
 日本では、自助・共助が公助より先に言われることが多くなってきている。

 ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の消滅、中国の経済開放政策等に駆動されて、1990年代に急速に進んだ経済と金融の世界的統合、一元化を本流に持つグローバリゼーションがさらに増大しつつある。このグローバル化した資本主義による精神に対する攻撃の結果、自律的市民のいわば「死民化」と消費的個人の絶対的優位化が起きているという。

 そして今や日本も、特別秘密保護法の成立、解釈改憲、安全保障関連法案の「成立」、武器輸出の解禁、原発再稼働と原発輸出、メディア支配、共謀罪「成立」と進んできており、とどめの一撃として日本国憲法の廃止が待ち受けている。
 十五年戦争時の「天皇制絶対主義的軍事独裁国家」の妖怪が再び出現しかねず、日本の民主主義(デモクラシー)の危機である。

 止めうるには、「政治」を真にその名に値するものに育て上げるしかなく、日本的共同体のあり方を「政治秩序形成原理」の深層にまで降り立って考え直し、それを解体しつつ、同時に自治的社会関係の構築をうながすような新たな実践をいたるところで粘り強く追求し、地道に積み上げて行くことである。
 日本人が、共和制にいう「自律的市民」になることが必要と思われるが、現状においては、地域組織や職業団体などの一部は政党の下部組織のような運営になっており、かつ、日本の投票率は、よくて五割程度で低迷をしている。


 日本国憲法の理念は、共和制であったのに、残念ながら、日本は、近代的成熟を欠いていると言わざるを得ない。
 日本の危機的状況を救う手だては、教育しかない。それも、哲学教育。
 ドゥブレは、ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別するもっとも確かな方法は、哲学が大学入学以前に教えられているかどうかを調べることであると言う。

 しかし、その大切な教育も、日本においては、自律的市民を育てるのとは逆の方向に向かっている。
 教育基本法が改正され、哲学よりも、情操教育のほうに重きが置かれている。国が大学に責任をもつところから、独立行政法人化し、経済的理性にもっともなじまないはずの教育すらも市場の原理に委ねてよしとされている。そして、人文学的教養もまた、その学部が減らされてきている。

 デモクラシーを立て直すのに、教育が必要で、その教育を立て直すには、デモクラシーで多数を取る必要があるという、難しい状況にある。
 ここはあきらめることなく、自律的市民として日本人が目覚め、デモクラシーで多数をとり、教育から日本を立て直すということを地道に進めることしかないのではないかと考える。

 政策のおかしさに気づいた者が、そのおかしいところを社会に発信し、訴えかけていくことで、自律的市民は立ち上がることであろう。
 私達の身近にある大切なものが不合理に壊されていることや、もっと有効で迅速な手段を用いることで多くの人が救われることに気付いた者が、民主主義の学校というべき地方政治の場において問題提起をし、私達に気づきのきっかけとなる判断材料を提供する努力をし続けて行きたいものである。
 学校における教育においても、哲学的な思考ができる場(道徳もまた大切であるとしても)が増えることに熱い期待をする。

 風頼みではなく、政策で政権を選択する日が来るのを信じつつ…。


参考文献:
『思想としての〈共和国〉[増補新版]――日本のデモクラシーのために』2016/6/25
レジス・ドゥブレ、 樋口 陽一 みすず書房
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書評のアーカイブ 「オール・レビューズ」

2017-08-05 12:50:00 | 書評

 本の世界というものをつかむには、書評が欠かせない。

 その書評のサイトがあるということです。

 「オール・レビューズ」(https://allreviews.jp/

******朝日新聞************

「知恵の宝庫」、書評を蓄積 鹿島茂さんら41人の評、ネットで無料公開開始
2017年8月5日05時00分

 プロの「本読み」の力、使ってみませんか――。仏文学者の鹿島茂さん(67)が、新聞や雑誌などに発表された書評をネット上で公開、アーカイブ化する試みを始めた。ネット書店やSNS上の「感想」が氾濫(はんらん)するなか、「知恵の宝庫」である書評文化を復活させるのが狙いだ。

 7月に公開されたウェブサイト「オール・レビューズ」(https://allreviews.jp/)。鹿島さんはじめ41人の文筆家の書評を無料で読むことが出来る。メディア横断的な書評サイトは新潮社運営の「ブックバン」などがあるが、新刊の紹介が多い。オール・レビューズは過去の書評の掘り起こしに力点を置く。

 例えば、思想家吉本隆明の『中島みゆき全歌集』(1986年)の書評。

 〈この本の歌コトバのおおきな流れをひと口にいってしまえば、恋や愛を喪失した「女」の嘆きの歌ということになる〉

 書評家としても有名だった作家の米原万里さんの、〈たけし軍団に直木賞希望作家井上ひさしぶりという芸人がいる〉という書き出しの、井上ひさし著『東京セブンローズ』(99年)の書評も掲載している。ほかにも作家の辻井喬といった故人から、エコノミストの水野和夫さんや作家で俳優の中江有里さんら現役まで人選は幅広い。鹿島さんは「よい書評は読み物としてすぐれ、プロによる本の要約も含まれている。過去にさかのぼれば膨大な知恵になる。にもかかわらず、書評文化はきちんと蓄積されてこなかった」と話す。

 きっかけは、2月に刊行した『神田神保町書肆街考』のため、全国有数の古本屋街、東京・神田神保町の歴史を探ったことだ。既刊本を息長く売っていく仕組みが、本の文化を支えてきたことがわかった。ネット書店が存在感を増し、新刊本の感想がSNSで話題を集め、売り上げを左右する。鹿島さんは「それは悪いことではない」としつつ「本には話題性以外に『知』としての価値もある。読者が長い目で本と向き合えるよう、書評をうまく活用してほしい」と訴える。

 ネットで検索すれば何でも見つかると言われるのに、過去の書評を見つけるのは難しい。新聞や雑誌で定期的に発表されるものの、本としてまとめられるのは一部だけ。鹿島さん自身、書評歴35年以上のベテランだが「書評ほど報われない仕事はない」という。

 「アマゾンやグーグルに依存するばかりではない知の仕組みをつくりたい」。将来的には、近代以降のすべての書評のアーカイブにすることを目指している。(高久潤)

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夏の読書のすすめ、朝日新聞天声人語から。1927年7月10日岩波文庫創刊 90周年の日に

2017-07-10 23:00:00 | 書評
 1927年(昭和2年)7月10日岩波文庫創刊 90周年を祝してのことか、朝日新聞コラム天声人語に、純粋に読書のすすめについて記載がされていました。

 この夏、どんな本に出会えるか、自分も楽しみです。

****朝日新聞20170710*****

断言していいが、本は読む場所によって表情を変える。机の上ではいかめしく取っつきにくかった1冊が、静かな喫茶店に持ち込むとやさしく語りかけてくる。読みかけの本でも見知らぬ土地で開くと、新鮮な感じがしてくる▼数冊をカバンに入れ、目的のない日帰り旅行をする。そんな楽しみがあると、書評家の岡崎武志さんが『読書の腕前』で書いている。夏休みなど学校の長期休暇のときに使える「青春18きっぷ」を手に、本を読むための旅に出る▼ときにはページから目を離して車窓の景色を眺めたり、乗り込んできた学生服の集団の大声に耳を傾けたり。「移動しながら、それぞれの土地の空気を取り込みつつ、本も読むのである」。昔読んだ小説を読み返すのも、この旅には向いているという▼読書週間は秋だが、夏も本に親しむのにふさわしいと感じるのはなぜだろう。学校時代の読書感想文を引きずっているせいか。夏に盛んになる文庫本の宣伝に影響されているのか。いずれにせよ風の通りのいいところを見つけて好きな本を開くのは、何ともいえないぜいたくである▼寺山修司の句に〈肉体は死してびつしり書庫に夏〉がある。いまはこの世にいない著者たちの思索や魂に触れる。そんな読書は、ひと夏の間に一皮も二皮もむけたような気にさせてくれる▼夏本番が近い。旅行を計画しているなら、お供の数冊を少し時間をかけて選びたい。読みたい本が見当たらない? それでは、旅先で出会う1冊に期待しよう。
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『憲法9条と安保法制』政府の新たな憲法解釈の検証 坂田雅裕氏

2016-07-30 23:00:00 | 書評

 毎年巡ってくる8月15日、敗戦の日を前に、政府が作成した違憲な安保法制の理解を深めたいと思い、下記書物を手にしました。

 これから読むところです。

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『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規氏 

2016-07-01 23:00:00 | 書評

 あるブログに出会いました。

 英国のEU離脱判断で民主政に?

 まさに、同じ感をもっています。

 そのブログhttp://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1058899452.htmlには(ブログの著者が誰かは存じ上げません)、

 トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ) 宇野重規 講談社

 「現時点だからこそ、トクヴィルの『アメリカの民主政』を初めとして、『ザ・フェデラリスト』やバークの『フランス革命の省察』という民主政を扱った古典を読み直す必要がある。」

 と書名があげられていた。

 ひとつの参考にしていきたい。
 

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「文系学部廃止」の衝撃 を受けて

2016-04-19 11:26:39 | 書評

 私の中高時代の悪友の東の雄が、写真家 中筋純氏なら、西の雄は、評論家 角谷昌紀氏です。




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『職業としての小説家』(村上春樹著2015年第1刷)を読んで、共感したことについて

2016-02-07 23:00:00 | 書評
 村上氏は言う。小説というジャンルは、誰でも気が向けば簡単に参入できるプロレス・リングのようなものであると。小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉として、「誰にでも書ける。」と言い切る。

 きっと、自分が過ごしてきた人生を振り返って、自分を主人公にしたてあげたノンフィクションの小説であれば、誰もが、ひとつは、小説が書けるであろう。自叙伝の作成を手助けするビジネスも出てきている。私も、他人が私だったらどう思うかは別にして、私自身は私の人生を今まで楽しく送ってきたから、自身を主人公にした小説をいつか書きたいと思ってきた。

 しかし、『職業としての小説家』(本著)を読んで、私は、到底「職業的」小説家にはなれないと感じた。村上氏も、小説を長く書き続けること、書いて生活をしていくこと、小説家として生き残っていくことは、至難の業であり、普通の人間にはまずできないことだと述べている。それに、小説家は、多量の本を読んでいることが大前提とも村上氏は述べるが、それが私には、残念ながらない。村上氏の処女作『風の声を聴け』を読んで、「こんな小説は、自分でも書ける。」と言い張ったひとがいたようだが、私も試しに読んで挑戦してみたが、私には書けそうもない作品だった。

 本著は、村上氏のひととなりを理解させてくれる書物である。村上氏は、「どこにでもいるひと」といっているが、そうは思えない、ある意味、「ノーベル賞」を受賞してもおかしくない巨匠作家に思うことにはばかりはない。

 村上氏の小説家としてのスタートは、三十代でのふたつの偶然から始まる。ひとつは、1978年4月セリーグの開幕戦、神宮球場ヤクルト対カープ1回裏高橋の第一球をヒルトンがレフトにきれいにはじき返し二塁打を打ったその小気味の良い音と、ぱらぱらとまばらな拍手の中で、「そうだ、僕には小説が書けるかもしれない」と啓示のようなものを受け、処女作を書く気持ちになった。もうひとつは、その開幕戦から一年近く経った日、「群像」の編集者から、新人賞の最終選考に残ったと電話をもらい、そのまま起きて、妻と一緒に散歩中に、千駄谷小学校の近くの茂みの陰の一羽の伝書鳩をみつけた。拾い上げると翼に怪我をしており、近くの交番に届けた。良く晴れた気持ちのよい日曜日のことで、あたりが美しく輝いており、その時に新人賞をとることを確信し、その確信とおり新人賞を受賞した。小説を書くチャンスを与えられたと感じ、いまもその感触を思い起こし、自分の中にあるはずの何かを信じ、「気持ち良く」「楽しく」小説を書き、そのことが幸福につながっている。村上氏は、本当に自らにあう職業を、偶然に発見できたのである。それが、今まで、続いているのである。私も様々な偶然により、現在の職業にたどりついているが、村上氏のように「気持ち良く」「楽しく」過ごすことが幸いにできている。このことが肝心なのだろう。

 丁度、バブルのときには、『ノルウェーの森』が大ヒットした。大金を得るオファーがある中で、自らがスポイルしてしまうことを避けたく、健全な野心をもって、40代直前に、アメリカに渡る。大金を得るような経験はないが、あったとして、スポイルされることなくはないと信じたいが、ここがまた、凡人と天才の境なのだろうと感じた。村上氏は、決して、健全な野心を失うことがない。

 村上氏は、小説家とは、自分の意識の中にあるものを「物語」という形に置き換え(パラフレーズ)て、それを表現しようとするので、パラレーズの連鎖も起きかねず、「不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義している。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子のように利用して、何かを語ろうとしているのだと述べている。

そして、「物語」とは、現実のメタファーであり、人の魂の奥底にあるもの、人の魂の奥底にあるべきもので、魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものをいうのだそうだ。「架空の読者」(それは、「総体としての読者」でもあるわけだが)を念頭におき、意識の下部に自ら下っていく作業をしている。暗いところで、村上氏の根っこと、読者の根っこが繋がるという感触を受けるのである。「信頼の感覚」を村上氏は得ている。

 結局、職業的小説家にはなれるひとはごくわずかであるが、職業的小児科医師、職業的政治家、職業的教師…、いずれの職業においても当てはまる真理を本著はのべていると読了して感じている。小さなきっかけをも肯定的にとらえて職につき、ついた職を心から楽しみ、職を通して人と繋がることができている実感(上述の「信頼の感覚」を自分なりに言い換える。)を持てているかどうかが「職業的」ということなのだと理解した。


以上

*参照 『職業としての小説家』村上春樹著2015年第1刷 スイッチ・パブリッシング
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『トゥイーの日記』ダン・トゥイー・チャム 訳 高橋和泉

2015-05-28 23:00:00 | 書評
『トゥイーの日記』ダン・トゥイー・チャム 訳高橋和泉 経済界 
 
 ダン・トゥイー・チャム、1942年11月26日ハノイに5人姉弟の長女として生まれる。1966年ハノイ医科大学卒業、眼科を専攻し、その後、直ぐに自らベトナム戦争に志願し、クアンガイ省に赴任。1968年9月27日ホーチミン率いる党に入党。1970年6月22日アメリカ兵に撃たれ死亡、享年27歳。
 1970年6月20日で日記は、唐突に終わる。最後の文章、「自分自身を見つめなさい。孤独な時は自分の手を握り、愛を注ぎ、力を与え、そして目の前の険しい道を乗り越えて行きなさい。」彼女自身、2日後に死ぬことまでも予期していたのかもしれない文章である。
 彼女は、敵に立ち向かって死んで行った。額の真ん中にぽっかりとあいた銃跡が母と妹ダン・キム・チャムに確認されている。話をたぐり合わせると、彼女は、最後に、診療所の中で患者を守ろうとして一人で、120名のアメリカ兵と戦ったというのである。死への覚悟ができていた。「母さん、もしあなたの娘が明日の勝利のために斃れたとしても、流す涙は少しでいい。それよりも、価値ある生き方をした私たちのことを誇りにしてほしい。人は誰でもいつか死ぬのだから。」同年6月10日に述べている。
 トゥイーは、南ベトナムに向かってハノイを出発したときから日記をつけ始めた。残存する日記からなる本書は、クアンガイに到着した1年後の1968年4月8日から始まっている。盲腸を疑っての開腹手術の様子の記載である。乏しい器材に関わらず、大学卒業2年目の眼科医が、一人で手術をしていることに医師として驚きを感じる。その後も、トゥイーは、負傷兵の手術をこなし、かつ、医学を教える講師もし、さらに、党の指導者として秀でた活動を行っていく。一人何役もの任務を果敢にこなすのであった。
 日記は、基本的には、他人に見せるものとしてつけるものではない。出版されることなど夢にも思わなかったであろう。ただ、自らの生きた証として家族に届けることの意図はあったと日記の文面「もし私が帰らなかったらそのノートを大切に持っていて。そして私の家族に送ってちょうだい。そういうつもりだった…」から読み取れる。
 日記は、気分の落ち込んだところから始まっているが、親友の訃報が入るにも関わらず、暗いトーンで終始するのではなく、自らのへの自問自答と必死で生きようとする励ましの言葉が有り、彼女のおかれた状況とは比較にならない安全な日本という地で生きる者へ大いなる励ましの文章でもあった。
 「信頼とは自分で自分に与えるものではなく、人々に尊敬されてこそ得られるものだから…」党に忠実に貢献しようとする彼女の使命感が伝わる文章である。
 「死とはこんなにも身近で、あっけないものなのだ。そんな人生を、それでも強く奮い立たせるものは何なのだろう?それは人と人との心のつながりかもしれない。心の中で燃え続ける明日への希望かもしれない。」たとえ、死と隣り合わせになりながらも人と人の信頼関係があれば、乗り越えていけることを私達に伝えてくれている。
 トゥイーの日記は、身近なひとや患者を失い、それらの家族が悲嘆にくれる様子が、その仲間の名前とともに描かれている。トゥイーが、「人の生き血を絞り、金のなる木に注いでいるやつら」と評するアメリカの兵士の側にも、同様にいえるはずなのに、そのことへの想像は至っていないがそれが戦争というものなのであろう。そのような想像をしてしまうと、銃口を向けることはできなくなってしまう。
 日記は、アメリカ兵に収集され、軍の情報部に所属していたアメリカ人フレッド・ホワイトハーストらの好意により、35年ぶりの2005年4月、母親(当時81歳)の手に帰った。フレッドは、トゥイーを知らないが、「人間対人間として、私は彼女と恋に落ちた」と述べている。そして、執念で家族を探し当てた。日記は、その後、2005年6月18日にハノイで出版され、5000部以上売れる本がほとんどない国で43万部を売り上げる大ヒットとなった。日記に描かれるのは、祖国を救った英雄ではなく、勇敢ではあるが、か弱く、理想を追い求めるが、時に迷い、日々葛藤する普通の女性であった。ベトナムの若者は、この日記を通して「『無敵のベトナム』から、戦争の真実をより現実の出来事として認識した。
 2008年高橋和泉氏訳により、日本語版が制作され、2015年その初版第1刷を私は手にする。人の日記を本人の承諾なく読むという抵抗感や、人物名が多く、物語では主人公との関係性が適切に書かれているそのようなものがなく読みづらい書物ではあった。だが、読み終えると、ベトナムの若者と同じように、どのような過酷な状況でも、希望を捨てずに人生を生ききったひとりの女性トゥイーが作り物ではなく、実在したことに感動を覚える。高橋氏が日本語にできる喜びを記したように、私も、トゥイーに出会えたことに感謝する。                             
                                 以上
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『編集者という病い』(著者 見城徹 太田出版2007年)を読んで 

2015-04-04 03:30:25 | 書評
『編集者という病い』 著者 見城徹 太田出版2007年 

 憲法学の講義の際、顔に血管奇形がある韓国籍の実在の主人公の私生活を赤裸々に描き問題となった『石に泳ぐ魚事件』に象徴されるようなプライバシーや名誉の侵害となってもなお出版されることがあり、作家や編集者に対し、なぜ、そこまで表現行為をするのかと常々否定的に見て来た。だからこそ、見城氏の著書『編集者という病い』は、書名からして、他者の人権を侵害してでもなお表現しようとする者の確信に迫るものであるから興味深く読み進めることができた。

 「表現というのは、非共同体であること、すなわち個体であることの一点にかかっている。百匹の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちるたった一匹の羊の内面を照らし出すのが表現である。共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要だろうけれども、一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はある」と見城氏は述べる。

 有限の一回限りの人生しか生きることができず、時と場所と共同体を選べずに生まれてくるという条件の中で、表現でしか救えない問題を、この世にたった一人しかいない個体としての人間は背負っている。編集者は、その人の精神という無形の目に見えないものから本という商品を作り出し、そこから収益をあげる。そのために、裸になって真剣に作家と切り結びあう。精神のデスマッチを表現者と編集者は繰り広げるのである。特に見城氏は、デスマッチの上に目指したのは、安全な港ではなく、悲惨の港であった。その悲惨が黄金に変わる瞬間、その誕生の場に立ち会うことが見城氏にとって何ものにもかえられないエクスタシーを「正しい病い」として味わう。見城氏の見解を知ったとき、表現の自由に関連する判例を読み、編集者に否定的なまなざしを向けていた自分の謎が解けたような気がした。やはり、表現の自由が保障される理由のひとつ「自己実現」という4文字では語りつくせない作家や編集者の思いがそこにはあり、結局は、売れなければ満足できないから「病い」ではあるが、その思いは、「正しい病い」というべきものであった。

 見城氏は、本物たちをプロデュースし、下火になってきていた文芸の手法を用いて、一つの時代を作り出して来たといって過言ではない。作家は、自分の内部から滲み出る、やむにやまれぬ気持ちを作品化している。表現者は、あざとく、表現者が無意識に持っているもの、葛藤している様を言語化させる。心に裂傷を負わせ、それを抉(えぐ)ってでも書いてもらう。自分の人生の全体重をかけた言葉が相手の胸に届かなければ編集者として現役でいる資格がない。逆に、表現者が編集者をそこまで駆り立てるのは、見城氏に言わせれば、「極端なことを言えば、殺人者だろうと変態だろうと、僕を感動させる作品さえ見せてくれるか、書いてくれるか、聴かせてくれればいいんだよ。逆に、そんなに爽やかでいい奴でも、その作品に心が震えなければ、付き合うことができない。編集者は、自分が感動できて、それを世にしらしめたいと思うからやっていける。その一点に尽きる。」と言い切る。まさに、精神の格闘家である。

 見城氏は、42歳にして、角川書店の取締役という安泰なポストを捨て、四谷の雑居ビルで自ら5人の仲間と幻冬舎を1千万円資本金で設立し、9年後には、時価総額300億円に育て上げ、ジャスダック上場も果たした。

 見城氏曰く、40代とは、「切羽詰まって闘える最後の世代」という。今、見城氏が出版界に「闘争宣言」を掲げ挑戦した40代という年代に、私もいるため、彼と自分を比較して見てしまう。見城氏は、慶応大学法学部を出て、法曹の道を選ばなかった。自分は、医師であるが、法曹の道を目指す。一方、「勝つことが目的ではない。闘うプロセスに充足を感じる」。「死ぬ時に笑って死ねたらよい。」と同じようなことを思う。そして、見城氏の自己評価同じく私もまた、自己愛に溺れ、永遠の少年である。

 出版の依頼を、幻冬社若手の編集者から受けたことがあるが、未だ実を結んでいない。もし、本著のような書を十年後に私が書けるならば、自己実現とは別に、「共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要で」それらが機能するための政治的表現という「自己統治」に通じる表現について是非とも論じたいものである。見城氏は、「自らを、悪魔のように繊細で、天使のようにしたたかでありたい。悪魔と天使が一つの心に巣食い、引き裂かれるような痛みを感じなければ作家に共感することもできないし、この世の中の光と影のグラディエーションを感じ分けることはできない」という。心が運動することによって生まれる風や熱があるから人は引き寄せられるゆえの表現であろう。行政、有権者、専門家などの相手と共感を勝ち得ることもまた、同じ心が運動することによってのみ生まれるものと考える。幻冬舎は、その時の私の表現を活字化してくれようか。

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