「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

川﨑の事件、不安な気持ちは、担任や養護、学校カウンセラーの先生、そして私達小児科医にご相談下さい。/病児保育鋭意実施中。

『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』佐々木実著、2019年3月第1刷 講談社

2019-07-13 13:34:47 | 書評
 2014年に86歳で亡くなられるその命の灯が燃え尽きるまで、宇沢弘文氏は、経済学はひとのためにあるということを実践した。経済学に人間の心を持ちこもうと努力し続けた。

 宇沢は、現代経済学の課題について、二つの類型に分類し批判する。

 第一は、経済学が、その分析対象をあまりに狭く市場的現象に限定しすぎて、より広範な、政治的、社会的、文化的側面を無視ないし軽視し過ぎたという批判である。環境破壊、公害、人間疎外、ゆたかさの中の貧困などが生じている。第二は、経済学の分析的方法に関するもので、内在的な批判である。すなわち、いわゆる近代経済学の理論的枠組みをかたちづくっている新古典派の経済理論があまりにも静学的な均衡分析に終始しすぎていて、インフレーション、失業、寡占、所得分配の不平等化などという動学的な不均衡状態に関する問題に対し有効な分析を行うことができていないことである。

 第一の問題への対応として、宇沢は、社会的共通資本論を構築した。

 社会的共通資本とは、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、そして教育、医療、司法、金融制度などの制度資本がその重要な要素である。ジョン・スチュアート・ミルの定常状態の経済を理想的な姿としてみている。

 この社会的共通資本の概念に理論的および実証的な観点からの分析を深めるのが制度主義で、ソースティン・ヴェブレンに始まる制度学派の流れの中に位置づけられている。

 数理計画法から始まり、消費者の顕示選好、一般均衡理論の存在と安定、中立的技術進歩の理論、2部門経済成長モデル、最適成長理論、内生的経済成長理論など数理経済学の分野で世界的な業績を発表し、36歳にシカゴ大学の教授になった。ジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、青木昌彦など多くの重要な経済学者を育てた宇沢は、1968年に突然、東京大学に戻った。不惑の歳と呼ばれる40歳を迎えた時、ベトナム戦争が始まり、徴兵されることを憂慮し家族を守るための行動であった。

 帰国した日本は、発展途上国から先進国に、近代から現代に脱皮する過程において高度資本主義社会への適応過程の中であり、学園紛争、水俣病を初めとする公害や環境破壊の問題、三里塚闘争などに宇沢は直面することとなる。

 1970年代は、世界は東西冷戦構造であり資本主義国と社会主義国に二分されていた。資本主義国のオルタナティブとして社会主義国が実在していたわけであるが、宇沢は、社会主義体制は資本主義国の選択肢となる可能性を明確に否定したうえで、現在の市場経済制度への批判を通じて、新しい経済制度が模索されるというというビジョンを有する。

 社会的共通資本の経済学の始まりを告げる作品として、『自動車の社会的費用』を1974年出版しベストセラーとなった。経済学を、与えられた知識の体系として受け止めるのではなく、自分自身の身近な問題、社会の問題を分析する道具として鋳なおそうという意気込みで書かれている。安心して道を歩くことが社会的に合意した基本的な権利であるという認識から出発し、展開する考え方が社会的共通資本の経済学に基づくものであるとした。「価値判断の問題は経済学の範疇ではない」とみなす既存の経済学への反旗として、宇沢は、価値判断を下す経済学者、行動する経済学者へと変貌していったのであった。

 第二の問題に対しては経済学の主舞台であるアメリカの経済学会と向き合う。

 貨幣数量説(マネタリズム)、自由放任主義、市場原理主義などを進める新自由主義の正当性を説くフリードマンが1967年12月アメリカ経済学会の会長に就任し「金融政策の役割」と題する講演を行った。ケインズ革命を葬るための「反革命」がこの時始まったとされる。宇沢は貨幣数量説を厳しく批判し、50歳を目前の1976年計量経済学会会長としてヘルシンキ講演を行ったが、不発に終わった。一方、新自由主義は、1979年誕生のサッチャー首相、1981年誕生のレーガン大統領に取り入れられ多大な影響力をもつこととなる。マネタリズムが現実の政治の中で取り入れられ、自由放任主義が世界の中心に据えられていくこととなる。宇沢は敗れた。

 2008年リーマンショック・ショックによる市場原理主義の破たんを目にしながら、日本は、社会的共通資本が守られようとはしないでいる一方で、新自由主義の経済路線は根強く続いている。新自由主義に翻弄されている現実にどのように対峙するための根拠とする考え方をなかなか見いだせないままでいた。国連のSDGsの考え方が使えるのではないかと思っていた矢先に、宇沢氏の社会的共通資本論に出会った。

 経済学は、政治に入り込んでおり、一部の経済学者と金融界の癒着があるとも言われている。「キル・レーシオ」などはじく恐ろしい学問ともなりうる。今後は、経済学の視点からも政治を分析すると共に「社会的共通資本」を守って宇沢の意志を継げるように最大限の努力をしたい。

 なお、数学が得意だったらよかったと経済学を学ぼうとして反省する次第…

コメント

1951年(昭和26年)詩人・原民喜は、線路を枕にして自ら命を絶った、希望を私たちに託して。『永遠のみどり』

2018-12-17 17:04:11 | 書評
 佐藤春夫氏は、原民喜の鉄道自殺を詠む。


 宵ノ間ハ酒場ニテ

 少女ラト笑ヒシガ

 土手ノカゲ

 線路ノ間二枕シテ

 十一時三十一分

 頭蓋骨後頭部割レ

 片脚切レテ

 人在リヌ

 詰襟ノ服ヲマトヒ

 ヨキ服ハ壁ニカケ

 友ノタメ残シ置キシハ

 ヌケガラニ似テ

 「崩れ墜つ 天地のまなか

 一輪の花の幻」思ヒツメ

 来世ハ雲雀ト念ジ

 人死ニヌ

 サリゲナク別レシ友二

 書キ置キハ多カリキ

(佐藤春夫「三月十三日夜ノ事」)



 この自死の直前に、原民喜から「中国新聞」に送られた詩は、『永遠のみどり』。


 『永遠のみどり』

 ヒロシマのデルタに
 若葉 うづまけ

 死と焰の記憶に
 よき祈りよ こもれ

 とはのみどりを
 永遠のみどりを

 ヒロシマのデルタに
 青葉 したたれ


 現代において、自死は倫理的に許されないことであるし、小児科医としても徹底的に抗わねばならないものであるとしても、自身は死にゆくにも関わらずここまで希望に満ちた詩を私たちに残してくれたことに、ある意味大きな驚きと感銘を憶えます。

参考文献:『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 著 梯久美子 岩波新書 2018年 
コメント

第158回直木賞受賞作 『銀河鉄道の父』門井慶喜 著、講談社 2017年第一刷

2018-04-07 13:29:43 | 書評
 「雨ニモマケズ…」サウイウモノニワタシハナリタイと宮沢賢治がなりたかったその詩に描いた人物像は、父、宮沢政次郎だったのかもしれない。

 イリジウム採掘だの、製飴工場だの、人造宝石だの言い出し資金の無心をする息子に、その現実離れした計画には、世間をあなどるなとして取り合わないが、愛情をかけ常に賢治を見守って来たのが政次郎であった。賢治が小切手を送り返すようになる頃までは、資金援助を惜しまなかった。

 政次郎は、愛情をがまんできず、不介入には耐えられない。小学校に上がる前の赤痢、中学のときの疑似チフス、賢治は入院するほどの病気に罹患したが、その時、看病を買って出たのは政次郎であった。そのために政次郎自身が、赤痢や擬似チフス症状をもらってしまうまでに親身になって寄り添った。

 小学校の際、賢治は同級生らと川の青草が燃えるかどうか確かめるために火をつけるとそれがあっという間に燃え上がり、たまたま川中の島であったため町には燃え広がらずけが人も出なかったが、二、三軒の小屋を燃やしてしまった。賢治が含まれていたことは、政次郎が聞きつけていた。夕飯の際、火をつけたことを賢治に質したが、賢治はやっていないと言い、それ以上、問いたださなかった。そして、燃やした小家の再築代金は、自身が建て替えた。子のウソを知りながら、ウソをついたことを正さないところの甘さは、親に資金を当てにするなど後々の賢治の甘さに繋がっていったのではないだろうか。

 小学生のころ、賢治は、妹のトシと石集めに熱中した。政次郎は、その集め方に対し、付け焼き刀の知識で講義をし、京都まで言って石の標本箱を買ってきたりした。その興味が、将来の地質や土壌の専門性をのばすことに導いた。賢治の作品の中で、石の輝きのような表現が文章中に入る下地を作っているのであろう。

 江戸末期、明治、大正と生き馬の目をぬく世の中で、東北地方の地方の商家がつぶれずに生き残るのは並大抵のことではなかった。政次郎は、一度つぶれかかった質屋を再興した由緒ある家柄の長男として育ち、「本を読むと、なまけ者になる。」として、小学校を卒業し進学したかったが許されず店に入った。明治29年(1896年)生まれ、中学までは進学が許された賢治は、その先も進学をしたかったが、「質屋に学問は必要ない」と一時引き止められた。しかし、その後、農民との質のやりとりをやらせてみるに、お金を借りる事情を聞いて貸す額を上げてしまう賢治が質屋に向かないことを悟ったのであろう。18歳の時に進学を許され、農学校の道を進むのである。「またしても農民のためか」と42歳政次郎を思わせた。

 その後も、親との衝突は、田中智学が創設した日蓮宗系の国柱会に走らせることとなる。賢治は、普及のビラも配り、その真理を理解しようとこころみ、本部へもたずねていた。代々浄土真宗を門下であったため政次郎と賢治は、お互い譲りあうことなく宗教論争をし、その衝突は、夜中まで及ぶこともあった。

 父子は共に、信念を曲げなかった。政次郎は、花巻の町会議員をしながら、質屋を守り続け、財力と名声をもっぱら家と街のためだけに使った。努力で地位を築いたものにとって、ひとのねたみもそのまま新たな努力の糧にした。賢治も無料相談で、農家の土壌の改良の方法をその専門家として伝授した。死の直前、知る者なら訪問さえやめている中、訪れた農民の相談者に一時間ばかり時間をかけて伝授し、その農民は納得の上帰って行く。命を削っても、自らの使命を全うすることに手をゆるめようとはしなかったのである。

 賢治の周りには、①エクトール・マロ『家なき子』を読んで下さる小学校の担任の八木先生がいたこと、②中学校の先輩の石川啄木がおり第一歌集『一握の砂』を読んで衝撃をうけたこと、③盛岡高等農林時代に同級生と同人雑誌『アザリア』を創刊したこと、そして④作り話を聞いてくれる2歳年下の妹トシがいたことなど作家を志すきっかけのような環境はあったにしても、賢治の作品は、父無くして作られることは決して生まれることがなかったのではないだろうか。賢治以上に、貢献しているのは、まさに宮沢政次郎である。

 葛藤のように外見にうつるが、賢治と政次郎の間には、一つの学ぶべき父子関係がある。父子関係で大切なこととは、①愛情をかけること=看病や資金援助を政次郎は子ども達に行った、②共通の話題で心を通わすこと=宗教では宗派こそ違えど議論を父子はした、③父自身の曲げない信念をもつこと=弱い人間相手の商売と言われようと商家を守り次世代に継承した、これらがあれば、それを見て子は育ち、子自らが未来を切り開いてくれることを賢治と政次郎は示してくれている。自らの子育てでできているか自省すべきところである。

 親が子の臨終に寄り添わねばならない辛さは計り知れぬ。妻イチに制されながらも政次郎は、死の間際の賢治の遺言を筆で記す。賢治は、妙法蓮華経全章を1千部作り皆に配布するように述べ、政次郎は実行する。昭和8年(1933年)、37歳、賢治の最後の反抗は、遺言の筆を置きに父らが部屋を出たその合間、母一人の前で旅立った。死と言うむさくるしいものを父に見せない。死の瞬間は選べないとしても、架空の地名イーハトヴに「いわて」をかける賢治の遊び・いたずらが、この人生の最後にも父子の間でなされたかのようであった。
コメント

レジス・ドゥブレ、『あなたは、デモクラットか、それとも共和主義者か』1989年11月

2017-10-01 09:49:27 | 書評
 レジス・ドゥブレは、1989年11月の本稿において、デモクラット(デモクラシー)と共和主義者(共和制)を対比させた。どちらも、民意で物事を決める民主主義に基づく制度であるが、両者には、大きな違いがある。

 ドゥブレが論考を書くきっかけとなるライシテ(非宗教性)は、フランス憲法では第一条にあり、国家の非宗教性、公共的空間からの宗教の排除が規定されている。宗教的象徴をまとい教室に入ることは許されない。デモクラットは憤慨するであろうが、不寛容とは別の次元の問題である。

 デモクラシーは、自由主義にも通じ、国家すなわち君主制国家からの自由をいうイギリス型の制度である。
 一方、共和国は、国家すなわち市民的公権力による自由でフランス型の制度であり、言い換えると、「国家による・社会からの・個人の自由」をいう。社会とは、大きく言って、宗教的権力と経済権力を指す。

 日本は、デモクラシーのほうに入る。

 デモクラシーでは、各人は、自分を自分が属している「コミュニティ」によって定義する。
 共和制においては、各人はみずからを市民としてとらえ、すべての市民によって構成されているのが「ネーション」、すなわち「共通の法のもとで生き、同じ立法者によって代表される、仲間・同輩者たちの一団(シエース)である。
 日本では、会社や町会・自治会、職業団体などどのような組織に属しているかでその人を見るし、行政が支援をするのも、まずは念頭にあるのはそれら組織である。

 デモクラシーにおけるキーワードは、コミュニケーションであり、共和国では、制度である。
 日本では、コミュニケーションとして酒の席が多用され、そこで物事が決められて行くと言って過言ではない。

 デモクラシーでは、民間の財団が重要な役割を果たすが、共和制では行政府の省庁がその任にあたる。
 日本では、自助・共助が公助より先に言われることが多くなってきている。

 ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の消滅、中国の経済開放政策等に駆動されて、1990年代に急速に進んだ経済と金融の世界的統合、一元化を本流に持つグローバリゼーションがさらに増大しつつある。このグローバル化した資本主義による精神に対する攻撃の結果、自律的市民のいわば「死民化」と消費的個人の絶対的優位化が起きているという。

 そして今や日本も、特別秘密保護法の成立、解釈改憲、安全保障関連法案の「成立」、武器輸出の解禁、原発再稼働と原発輸出、メディア支配、共謀罪「成立」と進んできており、とどめの一撃として日本国憲法の廃止が待ち受けている。
 十五年戦争時の「天皇制絶対主義的軍事独裁国家」の妖怪が再び出現しかねず、日本の民主主義(デモクラシー)の危機である。

 止めうるには、「政治」を真にその名に値するものに育て上げるしかなく、日本的共同体のあり方を「政治秩序形成原理」の深層にまで降り立って考え直し、それを解体しつつ、同時に自治的社会関係の構築をうながすような新たな実践をいたるところで粘り強く追求し、地道に積み上げて行くことである。
 日本人が、共和制にいう「自律的市民」になることが必要と思われるが、現状においては、地域組織や職業団体などの一部は政党の下部組織のような運営になっており、かつ、日本の投票率は、よくて五割程度で低迷をしている。


 日本国憲法の理念は、共和制であったのに、残念ながら、日本は、近代的成熟を欠いていると言わざるを得ない。
 日本の危機的状況を救う手だては、教育しかない。それも、哲学教育。
 ドゥブレは、ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別するもっとも確かな方法は、哲学が大学入学以前に教えられているかどうかを調べることであると言う。

 しかし、その大切な教育も、日本においては、自律的市民を育てるのとは逆の方向に向かっている。
 教育基本法が改正され、哲学よりも、情操教育のほうに重きが置かれている。国が大学に責任をもつところから、独立行政法人化し、経済的理性にもっともなじまないはずの教育すらも市場の原理に委ねてよしとされている。そして、人文学的教養もまた、その学部が減らされてきている。

 デモクラシーを立て直すのに、教育が必要で、その教育を立て直すには、デモクラシーで多数を取る必要があるという、難しい状況にある。
 ここはあきらめることなく、自律的市民として日本人が目覚め、デモクラシーで多数をとり、教育から日本を立て直すということを地道に進めることしかないのではないかと考える。

 政策のおかしさに気づいた者が、そのおかしいところを社会に発信し、訴えかけていくことで、自律的市民は立ち上がることであろう。
 私達の身近にある大切なものが不合理に壊されていることや、もっと有効で迅速な手段を用いることで多くの人が救われることに気付いた者が、民主主義の学校というべき地方政治の場において問題提起をし、私達に気づきのきっかけとなる判断材料を提供する努力をし続けて行きたいものである。
 学校における教育においても、哲学的な思考ができる場(道徳もまた大切であるとしても)が増えることに熱い期待をする。

 風頼みではなく、政策で政権を選択する日が来るのを信じつつ…。


参考文献:
『思想としての〈共和国〉[増補新版]――日本のデモクラシーのために』2016/6/25
レジス・ドゥブレ、 樋口 陽一 みすず書房
コメント

書評のアーカイブ 「オール・レビューズ」

2017-08-05 12:50:00 | 書評

 本の世界というものをつかむには、書評が欠かせない。

 その書評のサイトがあるということです。

 「オール・レビューズ」(https://allreviews.jp/

******朝日新聞************

「知恵の宝庫」、書評を蓄積 鹿島茂さんら41人の評、ネットで無料公開開始
2017年8月5日05時00分

 プロの「本読み」の力、使ってみませんか――。仏文学者の鹿島茂さん(67)が、新聞や雑誌などに発表された書評をネット上で公開、アーカイブ化する試みを始めた。ネット書店やSNS上の「感想」が氾濫(はんらん)するなか、「知恵の宝庫」である書評文化を復活させるのが狙いだ。

 7月に公開されたウェブサイト「オール・レビューズ」(https://allreviews.jp/)。鹿島さんはじめ41人の文筆家の書評を無料で読むことが出来る。メディア横断的な書評サイトは新潮社運営の「ブックバン」などがあるが、新刊の紹介が多い。オール・レビューズは過去の書評の掘り起こしに力点を置く。

 例えば、思想家吉本隆明の『中島みゆき全歌集』(1986年)の書評。

 〈この本の歌コトバのおおきな流れをひと口にいってしまえば、恋や愛を喪失した「女」の嘆きの歌ということになる〉

 書評家としても有名だった作家の米原万里さんの、〈たけし軍団に直木賞希望作家井上ひさしぶりという芸人がいる〉という書き出しの、井上ひさし著『東京セブンローズ』(99年)の書評も掲載している。ほかにも作家の辻井喬といった故人から、エコノミストの水野和夫さんや作家で俳優の中江有里さんら現役まで人選は幅広い。鹿島さんは「よい書評は読み物としてすぐれ、プロによる本の要約も含まれている。過去にさかのぼれば膨大な知恵になる。にもかかわらず、書評文化はきちんと蓄積されてこなかった」と話す。

 きっかけは、2月に刊行した『神田神保町書肆街考』のため、全国有数の古本屋街、東京・神田神保町の歴史を探ったことだ。既刊本を息長く売っていく仕組みが、本の文化を支えてきたことがわかった。ネット書店が存在感を増し、新刊本の感想がSNSで話題を集め、売り上げを左右する。鹿島さんは「それは悪いことではない」としつつ「本には話題性以外に『知』としての価値もある。読者が長い目で本と向き合えるよう、書評をうまく活用してほしい」と訴える。

 ネットで検索すれば何でも見つかると言われるのに、過去の書評を見つけるのは難しい。新聞や雑誌で定期的に発表されるものの、本としてまとめられるのは一部だけ。鹿島さん自身、書評歴35年以上のベテランだが「書評ほど報われない仕事はない」という。

 「アマゾンやグーグルに依存するばかりではない知の仕組みをつくりたい」。将来的には、近代以降のすべての書評のアーカイブにすることを目指している。(高久潤)

コメント

夏の読書のすすめ、朝日新聞天声人語から。1927年7月10日岩波文庫創刊 90周年の日に

2017-07-10 23:00:00 | 書評
 1927年(昭和2年)7月10日岩波文庫創刊 90周年を祝してのことか、朝日新聞コラム天声人語に、純粋に読書のすすめについて記載がされていました。

 この夏、どんな本に出会えるか、自分も楽しみです。

****朝日新聞20170710*****

断言していいが、本は読む場所によって表情を変える。机の上ではいかめしく取っつきにくかった1冊が、静かな喫茶店に持ち込むとやさしく語りかけてくる。読みかけの本でも見知らぬ土地で開くと、新鮮な感じがしてくる▼数冊をカバンに入れ、目的のない日帰り旅行をする。そんな楽しみがあると、書評家の岡崎武志さんが『読書の腕前』で書いている。夏休みなど学校の長期休暇のときに使える「青春18きっぷ」を手に、本を読むための旅に出る▼ときにはページから目を離して車窓の景色を眺めたり、乗り込んできた学生服の集団の大声に耳を傾けたり。「移動しながら、それぞれの土地の空気を取り込みつつ、本も読むのである」。昔読んだ小説を読み返すのも、この旅には向いているという▼読書週間は秋だが、夏も本に親しむのにふさわしいと感じるのはなぜだろう。学校時代の読書感想文を引きずっているせいか。夏に盛んになる文庫本の宣伝に影響されているのか。いずれにせよ風の通りのいいところを見つけて好きな本を開くのは、何ともいえないぜいたくである▼寺山修司の句に〈肉体は死してびつしり書庫に夏〉がある。いまはこの世にいない著者たちの思索や魂に触れる。そんな読書は、ひと夏の間に一皮も二皮もむけたような気にさせてくれる▼夏本番が近い。旅行を計画しているなら、お供の数冊を少し時間をかけて選びたい。読みたい本が見当たらない? それでは、旅先で出会う1冊に期待しよう。
コメント

『憲法9条と安保法制』政府の新たな憲法解釈の検証 坂田雅裕氏

2016-07-30 23:00:00 | 書評

 毎年巡ってくる8月15日、敗戦の日を前に、政府が作成した違憲な安保法制の理解を深めたいと思い、下記書物を手にしました。

 これから読むところです。

コメント

『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規氏 

2016-07-01 23:00:00 | 書評

 あるブログに出会いました。

 英国のEU離脱判断で民主政に?

 まさに、同じ感をもっています。

 そのブログhttp://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1058899452.htmlには(ブログの著者が誰かは存じ上げません)、

 トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ) 宇野重規 講談社

 「現時点だからこそ、トクヴィルの『アメリカの民主政』を初めとして、『ザ・フェデラリスト』やバークの『フランス革命の省察』という民主政を扱った古典を読み直す必要がある。」

 と書名があげられていた。

 ひとつの参考にしていきたい。
 

コメント

「文系学部廃止」の衝撃 を受けて

2016-04-19 11:26:39 | 書評

 私の中高時代の悪友の東の雄が、写真家 中筋純氏なら、西の雄は、評論家 角谷昌紀氏です。




コメント

『職業としての小説家』(村上春樹著2015年第1刷)を読んで、共感したことについて

2016-02-07 23:00:00 | 書評
 村上氏は言う。小説というジャンルは、誰でも気が向けば簡単に参入できるプロレス・リングのようなものであると。小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉として、「誰にでも書ける。」と言い切る。

 きっと、自分が過ごしてきた人生を振り返って、自分を主人公にしたてあげたノンフィクションの小説であれば、誰もが、ひとつは、小説が書けるであろう。自叙伝の作成を手助けするビジネスも出てきている。私も、他人が私だったらどう思うかは別にして、私自身は私の人生を今まで楽しく送ってきたから、自身を主人公にした小説をいつか書きたいと思ってきた。

 しかし、『職業としての小説家』(本著)を読んで、私は、到底「職業的」小説家にはなれないと感じた。村上氏も、小説を長く書き続けること、書いて生活をしていくこと、小説家として生き残っていくことは、至難の業であり、普通の人間にはまずできないことだと述べている。それに、小説家は、多量の本を読んでいることが大前提とも村上氏は述べるが、それが私には、残念ながらない。村上氏の処女作『風の声を聴け』を読んで、「こんな小説は、自分でも書ける。」と言い張ったひとがいたようだが、私も試しに読んで挑戦してみたが、私には書けそうもない作品だった。

 本著は、村上氏のひととなりを理解させてくれる書物である。村上氏は、「どこにでもいるひと」といっているが、そうは思えない、ある意味、「ノーベル賞」を受賞してもおかしくない巨匠作家に思うことにはばかりはない。

 村上氏の小説家としてのスタートは、三十代でのふたつの偶然から始まる。ひとつは、1978年4月セリーグの開幕戦、神宮球場ヤクルト対カープ1回裏高橋の第一球をヒルトンがレフトにきれいにはじき返し二塁打を打ったその小気味の良い音と、ぱらぱらとまばらな拍手の中で、「そうだ、僕には小説が書けるかもしれない」と啓示のようなものを受け、処女作を書く気持ちになった。もうひとつは、その開幕戦から一年近く経った日、「群像」の編集者から、新人賞の最終選考に残ったと電話をもらい、そのまま起きて、妻と一緒に散歩中に、千駄谷小学校の近くの茂みの陰の一羽の伝書鳩をみつけた。拾い上げると翼に怪我をしており、近くの交番に届けた。良く晴れた気持ちのよい日曜日のことで、あたりが美しく輝いており、その時に新人賞をとることを確信し、その確信とおり新人賞を受賞した。小説を書くチャンスを与えられたと感じ、いまもその感触を思い起こし、自分の中にあるはずの何かを信じ、「気持ち良く」「楽しく」小説を書き、そのことが幸福につながっている。村上氏は、本当に自らにあう職業を、偶然に発見できたのである。それが、今まで、続いているのである。私も様々な偶然により、現在の職業にたどりついているが、村上氏のように「気持ち良く」「楽しく」過ごすことが幸いにできている。このことが肝心なのだろう。

 丁度、バブルのときには、『ノルウェーの森』が大ヒットした。大金を得るオファーがある中で、自らがスポイルしてしまうことを避けたく、健全な野心をもって、40代直前に、アメリカに渡る。大金を得るような経験はないが、あったとして、スポイルされることなくはないと信じたいが、ここがまた、凡人と天才の境なのだろうと感じた。村上氏は、決して、健全な野心を失うことがない。

 村上氏は、小説家とは、自分の意識の中にあるものを「物語」という形に置き換え(パラフレーズ)て、それを表現しようとするので、パラレーズの連鎖も起きかねず、「不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義している。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子のように利用して、何かを語ろうとしているのだと述べている。

そして、「物語」とは、現実のメタファーであり、人の魂の奥底にあるもの、人の魂の奥底にあるべきもので、魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものをいうのだそうだ。「架空の読者」(それは、「総体としての読者」でもあるわけだが)を念頭におき、意識の下部に自ら下っていく作業をしている。暗いところで、村上氏の根っこと、読者の根っこが繋がるという感触を受けるのである。「信頼の感覚」を村上氏は得ている。

 結局、職業的小説家にはなれるひとはごくわずかであるが、職業的小児科医師、職業的政治家、職業的教師…、いずれの職業においても当てはまる真理を本著はのべていると読了して感じている。小さなきっかけをも肯定的にとらえて職につき、ついた職を心から楽しみ、職を通して人と繋がることができている実感(上述の「信頼の感覚」を自分なりに言い換える。)を持てているかどうかが「職業的」ということなのだと理解した。


以上

*参照 『職業としての小説家』村上春樹著2015年第1刷 スイッチ・パブリッシング
コメント

『トゥイーの日記』ダン・トゥイー・チャム 訳 高橋和泉

2015-05-28 23:00:00 | 書評
『トゥイーの日記』ダン・トゥイー・チャム 訳高橋和泉 経済界 
 
 ダン・トゥイー・チャム、1942年11月26日ハノイに5人姉弟の長女として生まれる。1966年ハノイ医科大学卒業、眼科を専攻し、その後、直ぐに自らベトナム戦争に志願し、クアンガイ省に赴任。1968年9月27日ホーチミン率いる党に入党。1970年6月22日アメリカ兵に撃たれ死亡、享年27歳。
 1970年6月20日で日記は、唐突に終わる。最後の文章、「自分自身を見つめなさい。孤独な時は自分の手を握り、愛を注ぎ、力を与え、そして目の前の険しい道を乗り越えて行きなさい。」彼女自身、2日後に死ぬことまでも予期していたのかもしれない文章である。
 彼女は、敵に立ち向かって死んで行った。額の真ん中にぽっかりとあいた銃跡が母と妹ダン・キム・チャムに確認されている。話をたぐり合わせると、彼女は、最後に、診療所の中で患者を守ろうとして一人で、120名のアメリカ兵と戦ったというのである。死への覚悟ができていた。「母さん、もしあなたの娘が明日の勝利のために斃れたとしても、流す涙は少しでいい。それよりも、価値ある生き方をした私たちのことを誇りにしてほしい。人は誰でもいつか死ぬのだから。」同年6月10日に述べている。
 トゥイーは、南ベトナムに向かってハノイを出発したときから日記をつけ始めた。残存する日記からなる本書は、クアンガイに到着した1年後の1968年4月8日から始まっている。盲腸を疑っての開腹手術の様子の記載である。乏しい器材に関わらず、大学卒業2年目の眼科医が、一人で手術をしていることに医師として驚きを感じる。その後も、トゥイーは、負傷兵の手術をこなし、かつ、医学を教える講師もし、さらに、党の指導者として秀でた活動を行っていく。一人何役もの任務を果敢にこなすのであった。
 日記は、基本的には、他人に見せるものとしてつけるものではない。出版されることなど夢にも思わなかったであろう。ただ、自らの生きた証として家族に届けることの意図はあったと日記の文面「もし私が帰らなかったらそのノートを大切に持っていて。そして私の家族に送ってちょうだい。そういうつもりだった…」から読み取れる。
 日記は、気分の落ち込んだところから始まっているが、親友の訃報が入るにも関わらず、暗いトーンで終始するのではなく、自らのへの自問自答と必死で生きようとする励ましの言葉が有り、彼女のおかれた状況とは比較にならない安全な日本という地で生きる者へ大いなる励ましの文章でもあった。
 「信頼とは自分で自分に与えるものではなく、人々に尊敬されてこそ得られるものだから…」党に忠実に貢献しようとする彼女の使命感が伝わる文章である。
 「死とはこんなにも身近で、あっけないものなのだ。そんな人生を、それでも強く奮い立たせるものは何なのだろう?それは人と人との心のつながりかもしれない。心の中で燃え続ける明日への希望かもしれない。」たとえ、死と隣り合わせになりながらも人と人の信頼関係があれば、乗り越えていけることを私達に伝えてくれている。
 トゥイーの日記は、身近なひとや患者を失い、それらの家族が悲嘆にくれる様子が、その仲間の名前とともに描かれている。トゥイーが、「人の生き血を絞り、金のなる木に注いでいるやつら」と評するアメリカの兵士の側にも、同様にいえるはずなのに、そのことへの想像は至っていないがそれが戦争というものなのであろう。そのような想像をしてしまうと、銃口を向けることはできなくなってしまう。
 日記は、アメリカ兵に収集され、軍の情報部に所属していたアメリカ人フレッド・ホワイトハーストらの好意により、35年ぶりの2005年4月、母親(当時81歳)の手に帰った。フレッドは、トゥイーを知らないが、「人間対人間として、私は彼女と恋に落ちた」と述べている。そして、執念で家族を探し当てた。日記は、その後、2005年6月18日にハノイで出版され、5000部以上売れる本がほとんどない国で43万部を売り上げる大ヒットとなった。日記に描かれるのは、祖国を救った英雄ではなく、勇敢ではあるが、か弱く、理想を追い求めるが、時に迷い、日々葛藤する普通の女性であった。ベトナムの若者は、この日記を通して「『無敵のベトナム』から、戦争の真実をより現実の出来事として認識した。
 2008年高橋和泉氏訳により、日本語版が制作され、2015年その初版第1刷を私は手にする。人の日記を本人の承諾なく読むという抵抗感や、人物名が多く、物語では主人公との関係性が適切に書かれているそのようなものがなく読みづらい書物ではあった。だが、読み終えると、ベトナムの若者と同じように、どのような過酷な状況でも、希望を捨てずに人生を生ききったひとりの女性トゥイーが作り物ではなく、実在したことに感動を覚える。高橋氏が日本語にできる喜びを記したように、私も、トゥイーに出会えたことに感謝する。                             
                                 以上
コメント

『編集者という病い』(著者 見城徹 太田出版2007年)を読んで 

2015-04-04 03:30:25 | 書評
『編集者という病い』 著者 見城徹 太田出版2007年 

 憲法学の講義の際、顔に血管奇形がある韓国籍の実在の主人公の私生活を赤裸々に描き問題となった『石に泳ぐ魚事件』に象徴されるようなプライバシーや名誉の侵害となってもなお出版されることがあり、作家や編集者に対し、なぜ、そこまで表現行為をするのかと常々否定的に見て来た。だからこそ、見城氏の著書『編集者という病い』は、書名からして、他者の人権を侵害してでもなお表現しようとする者の確信に迫るものであるから興味深く読み進めることができた。

 「表現というのは、非共同体であること、すなわち個体であることの一点にかかっている。百匹の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちるたった一匹の羊の内面を照らし出すのが表現である。共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要だろうけれども、一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はある」と見城氏は述べる。

 有限の一回限りの人生しか生きることができず、時と場所と共同体を選べずに生まれてくるという条件の中で、表現でしか救えない問題を、この世にたった一人しかいない個体としての人間は背負っている。編集者は、その人の精神という無形の目に見えないものから本という商品を作り出し、そこから収益をあげる。そのために、裸になって真剣に作家と切り結びあう。精神のデスマッチを表現者と編集者は繰り広げるのである。特に見城氏は、デスマッチの上に目指したのは、安全な港ではなく、悲惨の港であった。その悲惨が黄金に変わる瞬間、その誕生の場に立ち会うことが見城氏にとって何ものにもかえられないエクスタシーを「正しい病い」として味わう。見城氏の見解を知ったとき、表現の自由に関連する判例を読み、編集者に否定的なまなざしを向けていた自分の謎が解けたような気がした。やはり、表現の自由が保障される理由のひとつ「自己実現」という4文字では語りつくせない作家や編集者の思いがそこにはあり、結局は、売れなければ満足できないから「病い」ではあるが、その思いは、「正しい病い」というべきものであった。

 見城氏は、本物たちをプロデュースし、下火になってきていた文芸の手法を用いて、一つの時代を作り出して来たといって過言ではない。作家は、自分の内部から滲み出る、やむにやまれぬ気持ちを作品化している。表現者は、あざとく、表現者が無意識に持っているもの、葛藤している様を言語化させる。心に裂傷を負わせ、それを抉(えぐ)ってでも書いてもらう。自分の人生の全体重をかけた言葉が相手の胸に届かなければ編集者として現役でいる資格がない。逆に、表現者が編集者をそこまで駆り立てるのは、見城氏に言わせれば、「極端なことを言えば、殺人者だろうと変態だろうと、僕を感動させる作品さえ見せてくれるか、書いてくれるか、聴かせてくれればいいんだよ。逆に、そんなに爽やかでいい奴でも、その作品に心が震えなければ、付き合うことができない。編集者は、自分が感動できて、それを世にしらしめたいと思うからやっていける。その一点に尽きる。」と言い切る。まさに、精神の格闘家である。

 見城氏は、42歳にして、角川書店の取締役という安泰なポストを捨て、四谷の雑居ビルで自ら5人の仲間と幻冬舎を1千万円資本金で設立し、9年後には、時価総額300億円に育て上げ、ジャスダック上場も果たした。

 見城氏曰く、40代とは、「切羽詰まって闘える最後の世代」という。今、見城氏が出版界に「闘争宣言」を掲げ挑戦した40代という年代に、私もいるため、彼と自分を比較して見てしまう。見城氏は、慶応大学法学部を出て、法曹の道を選ばなかった。自分は、医師であるが、法曹の道を目指す。一方、「勝つことが目的ではない。闘うプロセスに充足を感じる」。「死ぬ時に笑って死ねたらよい。」と同じようなことを思う。そして、見城氏の自己評価同じく私もまた、自己愛に溺れ、永遠の少年である。

 出版の依頼を、幻冬社若手の編集者から受けたことがあるが、未だ実を結んでいない。もし、本著のような書を十年後に私が書けるならば、自己実現とは別に、「共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要で」それらが機能するための政治的表現という「自己統治」に通じる表現について是非とも論じたいものである。見城氏は、「自らを、悪魔のように繊細で、天使のようにしたたかでありたい。悪魔と天使が一つの心に巣食い、引き裂かれるような痛みを感じなければ作家に共感することもできないし、この世の中の光と影のグラディエーションを感じ分けることはできない」という。心が運動することによって生まれる風や熱があるから人は引き寄せられるゆえの表現であろう。行政、有権者、専門家などの相手と共感を勝ち得ることもまた、同じ心が運動することによってのみ生まれるものと考える。幻冬舎は、その時の私の表現を活字化してくれようか。

コメント

『セロニアス・モンクのいた風景』 編者・訳者 村上春樹(2014年10月10日発行)

2014-11-29 23:00:00 | 書評
『セロニアス・モンクのいた風景』村上春樹編著        

 1968年、村上春樹氏は、当時20歳になったばかりの頃、新宿の花園神社近くの「マルミ・レコード」というジャズ専門レコード店で、店主に説教され、ほとんど無理矢理モンクのLP『ファイブ・バイ・モンク・バイ・ファイブ』(1959年の録音)を買わされた。このことがきっかけで、それまでもモンクの演奏は耳にしていたものの、モンクを熱心に聞き入ることとなったのである。

 以後、村上氏は、周りにいる人々にモンクの音楽のすばらしさを伝えたいと思っていたが、本当に大事なものを、本当に深いものを誰かと共有するには、言葉はむしろ余計なものになってしまうため、言葉でそれを具体的に表すことができなかった。とはいえ、いつか何かの形で、人にうまく伝えることができるようになればと思い、いろんなモンクに関することがらを、ひたすら拾い集めてきた。村上氏は、音楽の素晴らしさが、どのように文章で表現されうるかということに、一人の書き手として昔から個人的に深い興味を持っていたのである。

 そして、2014年、村上氏は、本書『セロニアス・モンクのいた風景』を編者・訳者として出版し、モンクの音楽の素晴らしさを文章で表現した。

 村上氏自身は、モンクの音楽をどう表現しているか。モンクの音楽の響きに、宿命的なまでに惹かれた時期があり、ディスティンクティブな(誰がどこで耳にしてもすぐに彼のものとわかる)、極北でとれた硬い氷を、奇妙な角度で有効に鑿削っていくようなピアノの音を聞くたびに「これこそがジャズ」と思い、しばしば温かく励まされたと述べる。幸福な邂逅(かいこう)であったとさえ述べる。

 生きたジャズの歴史のような存在であるロレイン・ゴードンは、一目見た時から、モンクの音の選択は、完全にどこまでも彼独自のものであり、非の打ち所がないのと同時に、まさに常軌を逸しているという。ジャズ批評家ナット・ヘントフは、モンクのつくった曲には、「揺らぎなき正しさの特性」が備わっているという。ピアニストのディック・カッツは、モンクが型破りにみえるのは、きわめて個性的な彼の和声システムのためという。リズムの流れの中で不協和音が効果的に浮かび上がるように、まさに劇的な瞬間をとらえて不協和音を叩くという。

 もともと、モンクのジャズを知らない自分は、言葉からモンクの音楽を感じようと本書を読み進めるが、なかなか分かりづらいところであった。本書で取り上げられた文書に出てくるモンクの音楽の批評において、「揺らぎなき正しさの特性」という言葉もあるように「正しさ」という言葉が印章に残った。

 モンクの人となりも述べられている。1917年10月10日、ノースカロライナ州ロッキー・マウント生まれ。2歳に家族とニューヨークに出来てサンファン・ヒル地区で育つ。受けた教育といえば、ほとんどがピアノの個人レッスンだけであった。30歳でネリー・スミスと結婚し、一男一女の父となった。1982年2月17日脳梗塞にて死去、享年64歳、ニューヨーク州ハーツデイルのファーンクリフ墓地に埋葬される。1951年ピアニストで友人のバド・パウエルと共に麻薬所持容疑で逮捕され、60日間の刑期(ただし周囲の証言では、モンクは無実)及び58年公安を乱した罪状で罰金刑を受ける。

 モンクは時間を守らないひとで、時間に送れ、それが原因でバンドから外されたこともある。自らの葬式まで遅れると評されているのであるからよほどのものであったのだろう。知らない人を相手にはしゃべらない、エキセントリックで無口であった。人間としてもミュージシャンとしてもラディカルなまでに個人主義者であったとドイツの評論家トマス・フィッタリングはいう。モンクは、新しい曲を書くといつも、夜も昼もおかまいなく、誰かがそれをとめるまで、何週間もぶっつづけでその曲を弾いた。その曲が自分の中に根を下ろすかどうかをたしかめていたと硬派ジャズ・ピアニストであるメアリ・ルウ・ウイリアムズはいう。
 
 謎の男と言いうるモンクに貫くものは、いったい何なのだろうか。

 多くの人の評するところ、彼の音楽には「正しさ」があったように、彼の生き様にも、内的ロジックがあり、そのロジックの中心には、「自分自身であること」があったのだと思う。だからこそ、妻ネリーは、子ども達にも伝えようとしている。「人がなんと言おうが、そんなものを気にすることはない。なぜならあなたたちはあなたたちなんだから。あなたたちが自分自身であれば、それでいいのよ。」

ジャズ界の特別な存在となったモンクの内的ロジックのシンプルさ「自分自身であること」ゆえに、モンクに強い関心を抱くようになった。文字だけを追ってモンクのひととなりと音楽を想像して来たが、今度は、ゆっくりと音楽そのものを聴き、味わってみようと思う。


****************

○Thelonious Monk - Live in Norway & Denmark '66.Intimate TV Concerts.

https://www.youtube.com/watch?v=SzGm0qOooJ4

Piano- Thelonious Monk
Tenor Sax- Charlie Rouse
Bass- Larry Gales
Drums- Ben Riley

****************

○Thelonious Monk Solo - 1969 Paris Jazz Icons

https://www.youtube.com/watch?v=UNQSeBiqTWE

****************

○Thelonious Monk Live In Berlin 1969 (Solo Piano)

https://www.youtube.com/watch?v=MGbLRaaqrCc

0:14 Satin Doll
3:53 Sophisticated Lady
8:19 Caravan
14:33 Solitude
18:43 Crepuscule with Nellie
21:08 Blues for Duke

****************
コメント

経済学の視点 K・ポラニー『大転換』/K・ポメランツ『大分岐』

2014-09-25 23:00:00 | 書評


 経済学の視点も参考になります。

 

〇K・ポラニー『大転換』

 労働・土地・貨幣は本来、商品ではない。

 労働力を売るしかない状況を生み出した構造的な暴力こそ市場経済への大転換の前提。


〇K・ポメランツ『大分岐』

 奴隷制の制度的な暴力と植民地への生態学的な圧力の転移こそ西欧優位の理由。
 

コメント

9月14日(日)15(祝)、中央区月島3丁目こども元気クリニック・病児保育室5547-1191急病対応致します。

2014-09-14 09:53:21 | 書評

 9月14日(日)15(月、祝)の午前中、中央区月島3丁目 こども元気クリニック・病児保育室03-5547-1191急病対応致します。
 

 1)高熱の風邪、2)咳の風邪、3)お腹の風邪の3つのお風邪がそれぞれ、今、流行っています。
 急に寒くなって、気候の変化に体が対応できていないことが、流行の原因のひとつと考えます。
 
 喘息の子の咳も増えています。
 あわせて、クループの咳の子が多いのも気になるところです。

 体調崩されておられませんか?
 


 おとなも、こどもの風邪をもらいます。
 こどもから夏風邪がうつること、多々、あります。
 そのような場合、お子さんとご一緒に、親御さんも診察いたしますので、お気軽にお声掛けください。



 
 なおったお子さんには、日曜日に、登園許可証も記載します。
 月曜日朝一番から登園できますように、ご利用ください。



 合わせて、平日なかなか時間が作れない場合でも、休日も、予防接種を実施いたしますので、ご利用ください。
 
 
 お大事に。

こども元気クリニック・病児保育室
中央区月島3-30-3
電話 03-5547-1191

小坂和輝

コメント