花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「横浜・山下公園にある童謡関連の碑」

2016年02月15日 10時00分00秒 | 日々のこと
中華民族の春節で『爆買い』の模様がTVなどで報道されています。横浜中華街の雰囲気を感じたくなり、数十年ぶりに中華街に出かけてみました。中華街での春節祝いは、2月8日~2月22日の間で、春節を祝うポスターや春節限定のの食事メニューが張り出してあったりと、春節の雰囲気が感じられました。また、中国語を話す人で賑わっていましたが、日本に住んでいる中華民族の皆さんが訪れているものと思います。 週末(土、日)には、伝統の獅子舞「採青(ツァイチン)」などの催し物も行われていますが、私が出かけた日は平日のため、見ることができませんでした。 
隣接の山下公園には童謡の「赤い靴」と「かもめの水兵さん」の2つの碑があります。「赤い靴」の碑はガイドブックなどで取り上げられておりよく知られていますが、「かもめの水兵さん」のほうは、知る人ぞ知る存在のようです。この2つの碑が建設されたのは、ともに、1979(昭和54)年 (横浜開港120年) 11月です。 

「赤い靴」の碑。
碑の由来を「赤い靴記念文化事業団(団長:松永春氏)」(童謡 赤い靴を愛する市民の会が発展的に改称)のHPより転載します。
「松永春氏が、童謡の赤い靴から生まれた女の子像を「ヨコハマの心」として後世に残したいと願い『赤い靴はいてた女の子像』建設の運動を展開し、42,992名の方々のご理解とご協力をいただきまして、1979年(昭和54年)11月11日、山下公園にこの像を誕生させました」。とあります。要するに、市民の団体が山下公園に設置したものです。








「赤い靴」1922年(大正11年)発表 
  作詞:野口雨情 
作曲:本居長世
(一)
赤い靴はいてた
女の子
異人さんにつれられて
行っちゃった
(ニ)
横浜の埠頭から
船に乗って
異人さんにつれられて
行っちゃった
(三)
今では青い目に
なっちゃって
異人さんのお国に
いるんだろう
(四)
赤い靴見るたび
考える
異人さんに逢うたび
考える


「かもめの水兵さん」の碑。
氷川丸が係留されている埠頭の近くに「かもめの水兵さん」の碑があり、長洲一二知事(当時)の直筆入りの歌碑と、野間省一氏の名前入りの“碑を建てることば(昭和54年11月)”が建っています。 昭和40年(1965年)に神奈川県の鳥に「かもめ」が指定されたことと関係があるように思われ、長洲神奈川県知事の署名があります。、野間省一氏は、碑の建設当時、講談社・キングレコードのトップだったと思いますので、キングレコード社・講談社が費用を負担して碑を建てたのでしょうか。?? 除幕式は、昭和54年(1979年)11月25日に行われていますが、「赤い靴」の除幕式が、同じ昭和54年11月11日ですので、この14日後に「かもめの水兵さん」の除幕式があったことになります。





「かもめの水兵さん」1937年(昭和12年)発表
   武内俊子 作詩
   河村光陽 作曲
   河村順子歌
(一)
かもめの水兵さん
並んだ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップチャップ 浮かんでる
(ニ)
かもめの水兵さん
駆け足水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波をチャップチャップ 越えていく
(三)
かもめの水兵さん
ずぶ濡れ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波でチャップチャップ お洗濯
(四)
かもめの水兵さん
仲良し水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップチャップ 揺れている




「氷川丸」
昭和5年(1930年)、日本郵船が北米シアトル航路用の貨客船として建造(三菱重工横浜造船所)。全長163.3m,総トン数 11,622トン。 戦中には、政府徴用船、海軍特設病院船となり、戦後も引き続き病院船のまま復員輸送に従事。 昭和28年(1953年)7月、シアトル航路に復帰。 昭和36年( 1961年)5月、横浜開港100年記念事業の一つとして山下公園に係留。 平成15年(2003年)に横浜市の有形文化財に指定。





<横浜媽祖廟>





<横浜関帝廟>








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