波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方    第14回

2015-07-11 10:11:35 | Weblog
欽二は小学校を卒業した頃からいなかのせいかつになれてきたようだ。4キロの道のりでの通学は相変わらずであったが、身体の成長とともに肉体にも力がついてきて通学が楽になり、楽しみに変わっていた。そして休憩場所、水のみ場所などを決めたり、時には山越えをして距離を稼いだりすることも出来るようになっていた。中学も隣接した校舎で隣村の生徒が一緒になり、「新制中学」一期生としてスタートしていた。生来あまりくよくよする性格ではないのか、次第に自分のしたい事を自ら希望し、行動するようになっていた。戦後も5年を過ぎると生活も落ち着いて食糧事情も良くなっていた。落ち着いた生活に恵まれながらの学校生活だった。
クラブ活動も盛んになり、欽二は張り切っていた。初めて出来た放送部が出来ると率先して入部し学校放送を始めていた。年に一度の学校発表会では舞台に上がり、当時NHKで始まった「三つの鐘」のまねをしたり、村代表の音楽会の郡大会では率先して出場していた。まだ声変わり前の高い声が出ていたこともあってその時歌った「ローレライ」は入選候補になっていた。
しかし学業のほうにはあまり熱心ではなかった。友人は三年になると高校受験を意識して生活も変わっていたが、彼はあまり機にしないで相変わらず普段のままだった。
高校は地域制度があり、地元で行ける学校が決まっており(家が裕福な子は都会の私立を目指して特別な勉強をしていた)あまり意識をしていなかった。
新制高校一期生としてスタートしていた。さすがに高校は電車を利用していかなくてはならない。高校でも勉強よりもくらぶかつどうに関心があった。宣伝もあり、欽二はどのクラブへ入ろうかと関心が強かった。
その時一人の先輩が「新聞部」の責任者として希望者を募っていた。その先輩を見た瞬間
彼はこの人についていこうとひらめいた。そして迷わず入部した。
校舎の片隅に小さな小部屋があり、そこが新聞部のたまり場として使用されていた。
授業が終わるとそこで時間を過ごすことがとても楽しく、時間を忘れて過ごすことができた。しかし、そこでの役目は目立ったものは無かった。殆どがじもとの商店街をまわり、お願いして広告を載せてもらうことぐらいで新聞の記事など書く機会は無かったのだ。

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