蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

里山の居酒屋 けいた  越後湯沢

2014-01-12 20:28:55 | 日本料理
この時期の湯沢駅西口商店街の居酒屋は大変な賑わいをみせる。席に空きが無ければ、お店の方でお客をどんどん断ってしまう状態である。おそらく、雪の多い3ヶ月の売り上げが一年の大半を占めるのではないかと想像される程である。


そのような環境で夕食難民にならないためには、まずは早めの時刻に入店するのがよい。17時半の時点で、けいたさんのカウンターには3席の空きがあり、直ぐに座れた。
生ビールを注文すれば、突き出しは生のきくらげ。つるっとした口ざわり。生醤油にわさびで。


続いて川エビのから揚げ。カリカリに揚がった殻をかみ締めると独特の味わいがある。また、ありがたいことに揚げ物なのだが実に軽い仕上がりで、お腹にこたえない。ゆっくり生ビールを楽しむには、ちょうどよいつまみである。


夕方からの雪が降り出し体が冷えていたので、次にもち豚の塩鍋を注文。こちらのお店には一人前の鍋がある。連れのペースを気にすることなく自分だけの鍋を注文できる。
越後もち豚の脂身の甘さが引き立っていた。日本海の魚の刺身もよいが、冷え込む日には断然鍋だと思う。


鍋の〆には卵雑炊。もち豚の旨みが凝縮した雑炊である。
こういうつまみものの少ない注文の仕方をすると、、お酒の量もいかないし冷遇されるかなとも思ったのだが、そのようなことは全くなかった。出したものを美味しくたべてもらいたいお店であることがよく感じられた(その割には、神業的なスピードでカウンターの内側が回っているのだが)。


ご馳走様でした。


季作久  小田原市江之浦

2014-01-10 22:29:03 | 蕎麦
金曜日の昼だったが小田原東インター近くで狙ったお店は、どれも開いていなかった。市街のお店を求めてウロウロすれば余計に時間がかかりそうなので、小田原から少し海沿いに南下したこのお店に決めた。


お店の姿は海沿いのドライブインのよう。これは、予想した通りである。はたして、メニューには蕎麦以外のものも豊富に載っていた。


ともかく喉が乾いていて、海を見渡せるカウンターでアルコールフリーを一杯。これは、なかなかの瞬間であった。




冬場限定の白子の天麩羅付きせいろを注文した。
先にささっと天麩羅を出してくれるありがたさ。白子の天麩羅は塩でいただくのがちょうどよい。


続いてせいろ。
細打ちでとても食べやすい。団体観光客の昼の宴会の〆にはあまりにも勿体ない、と思うが・・・
エッジの効いた蕎麦である。


ご馳走様でした。


星野リゾート 界熱海

2014-01-08 19:34:52 | 古民家、庭園
熱海の街の北側、湯河原との中間くらいの場所の国道沿いにある。


ロビーは小さめだが、家具や照明器具がなかなか凝っている。
ガラス窓からは海が見渡せるが、室内に差し込む光の量は窓の外の植え込みで調整されているようだ。
これなら、夏の時期でも暑すぎる事はないだろう。


ロビーから客室棟への渡り投下沿いに設けられている中庭。
昼間もよいのだが、夕暮れ時を味わうのが最高のようだ。




この宿には風呂は二つあるのだが、下の風呂に行くには室内・屋外の階段を延々と降りていかなければならない。


下の風呂はかなり海に近い場所にあり、行くのは一仕事なのだが、風呂場の前にデッキが設置されていて海を眺めながら一休みできる。


二階の海側の客室からも、海の眺めがなかなかよかった。

昨日の記事の、谷崎潤一郎の熱海別荘である雪後庵へはこの旅館から歩いて行った。
この旅館は相当歴史があるようで、谷崎の「台所太平記」に松濤館として登場するのが、この宿ではないかと推察する。
数年前に訪れた時には、蓬莱の名であった。


後の雪後庵  熱海市鳴澤

2014-01-07 23:45:54 | 古民家、庭園
谷崎潤一郎は、戦前から京都に本宅を構え熱海に別荘を持つ今でいうマルチハビテーションを実践していた。
しかも、京都も熱海もそれぞれ次々家を買い替えるという、引っ越し道楽のようなことであったようだ。そのなかでも最も贅をこらしたのが昭和27年から31年にかけて京都の家とした後の潺湲亭のようである。しかし、京都の冬の厳しさもありその邸宅は昭和31年にその家を売却した。
しかし同時並行して昭和29年から鳴澤の別荘を所有しており、昭和31年以降はこちらが本宅となった訳である。

谷崎の細雪は戦争中は軍部に睨まれて(そりゃ当り前だとも思うが)、自費出版の形で一部しか公開することができなかった。それが戦後にはベストセラーとなり、谷崎にはそれなりの印税が入った。戦後の熱海の邸宅を雪後庵と呼ぶのは、その印税が山荘購入の資金になったからに他ならない。谷崎は最初熱海市仲田に「先の雪後庵」を持ったが、昭和27年に後の雪後庵に転居する。
この時代の作品の「台所太平記」の第十四回から第十九回にかけて、この後の雪後庵の様子が、谷崎家の女中さんたちが活躍する背景として登場する。
谷崎は「台所太平記」の完成後も、昭和38年までここを本宅としていた。


昨年12月、谷崎がこの舘を売り払って50年後に後の雪後庵を訪ねてみた。
国道からおよそ200メートルの急坂を興亜観音へ向かって登り、さらに石段を六十段登るのは「台所太平記」の記述そのままであった。
ただ、その昔に谷崎が住んでいた時に賑わっていたであろう邸宅は何十年も見捨てられ、自分の足音もはっきり聞こえる静寂のなかに、荒れ果てた姿となっていた。
個人の所有になるものであるので、観光資源にする訳にいかない事情は理解できるがあまりに寂しい姿に見えた。
不思議な事に、この家の前に佇んでいた時、突然ソプラノのアリアを練習する声が遠くから響いてきた。無人である筈の邸宅の中から誰かに見られているかんじがして、ぞっとした瞬間であった。


後の雪後庵の前の石段の傾斜は厳しい。
谷崎自身も、松子夫人も、自らの足でこの石段を上り下りしたと思うと、特別な感慨を感じる。



山せみ 神楽坂 蕎麦緑肆

2014-01-05 21:23:35 | 蕎麦
神楽坂に山せみさんが出来てもう3-4年になる。年が改まって最初の日曜日というのにしっかりお店を開けられていたので、久しぶりに入店してみた。


辛み大根を使ったおろし蕎麦を田舎で、というお品書きにない注文をしたが、全く問題なく通った。
程なくして、おろしと蕎麦猪口が出て来たが、今時に珍しく蕎麦猪口には全く汁が注がれていず、徳利にかぶせられた昔ながらの姿であった。これは、大いに見直した。


田舎蕎麦は色黒で、都会のお店にしては太い。
噛み締めると蕎麦の甘みがひき立つ。前回訪れた時よりもはるかによい印象を得た。
寒い時期でもあり、蕎麦粉のコンディションもよかったのかもしれない。




蕎麦は田舎らしい噛みごたえのあるものだったが、汁はお江戸風の出汁は見事に効いているが味の濃いもの。これでは、田舎蕎麦を田舎流に汁にどっぷりとつける訳にもいかない。綺麗に仕上がった細打ちのせいろを少しだけ付けるのにピッタリの汁だろう。
しかし、辛口のおろしに蕎麦汁を少なめに含ませれば田舎の蕎麦汁のような感じになり、こちらの田舎蕎麦とよくマッチした。
大根も、田舎蕎麦も寒い頃が食べ時であろう。少なくともおろし蕎麦を田舎で、という組み合わせでは、都内ではなかなか味わえないレベルと思われる。


基本的に蕎麦前を売りにしたいお店でありながら、サービスのスタッフの動きはスムーズとはとても言えない。なんだか歯がゆい感じの動きは前回の印象と変わらないが、蕎麦の質だけがぐっと上がった感じがした。
ご馳走様でした。


旧伊藤博文金沢別邸  横浜市

2014-01-03 23:19:52 | 古民家、庭園
伊藤博文が明治31年に建てた茅葺寄棟の別荘である。
その昔と同様、東京湾を望む野島に建てられている。


門を入れば、平成21年に茅葺の姿で復元された台所棟の姿が見える。


海に面した客間の中でも格の高い、帰帆の間。
この日は茶会の準備が進められていたが、庭の松に答えるように雰囲気を引き立てる効果があった。


客間棟を庭から見ればこのようなガラスが多用された姿。
ガラスの内側に設けられた内縁は、当時としては破格なものであったのだろう。


玄関から見て最も奥になる博文の居間の奥庭から東京湾を望む。
別荘でありながら、深い森の奥にこもろうという意識が全く見られないのは、ある面でとても新しい。維新を成し遂げた側の、充実したエネルギーを感じさせる。