父が死んだ。 62歳だった。
母が死んだ。 78歳だった。
梅雨入りは 例年より 10日ほど早かったという。
村中の子ども達の「初めてのおつかい」に登場する
お豆腐屋さんも亡くなった。
豆腐屋のジイサンは 高齢だったが
入退院と 店の一時閉店・再開とを繰り返してくれた。
豆腐難民となった私たちは
その間に あちこちの豆腐屋をめぐって
どこそこの豆腐はまあまあだ、
いや、あっちの方が美味しい、
などと情報交換をして
村で一軒の美味しい豆腐屋が閉店した後の
事前トレーニングを積む事ができたのだった。
私が見つけたのは、大手スーパーに置いてある、
有名な豆腐屋の 一丁500円の豆腐。
それが 村の豆腐屋の105円の豆腐に 最も近い味だった。
あのジイサンは 自分で美味しいと思える豆腐を
大豆にこだわって(結果、北海道産の大豆だったそうだが)
作り続けてくれていたのだ。
何の話だっけ?
そうだ、「死」だ。
我が家のクイーン・オブ・スウェーデンの開花も
例年より10日ほど早かった。
20代の終わりに当地にやって来た私は
50代半ばになった。
当時 若手だった ヨウちゃんも 義さんも
そろそろ老境に近づいている。
死ぬ事を忘れてしまったような
90代も終わりの方のジイサンも
90代半ばのバアサンも
そろそろ身体がきかなくなってきいているし、
そろそろ新しい記憶がアヤシクなっている。
(このふたりだって、村内最高齢というわけではない。
聞いた所によると、100歳を超えて
まだまだ元気なバアサンがいるらしい。)
ふたりよりも もっと若手だった人達が
次々と鬼籍に入っている。
同級生にも 亡くなる人は続いている。
亭主を亡くした同級生もいる。
あの時は あんなに元気だったのに、と思う。
テレビドラマで「ぱじ」というのを見た。
(→ヒューマンドラマスペシャル「ぱじ」:じいじと孫娘の愛情物語)
女の子が可愛い過ぎるのが
私としては気に食わない(爆)
が、評判の高かったドラマだ。
孫を引き取ったジイジが
自らの<老い>と <老い先>の短さを実感しつつ
愛する孫の無事と成長を願い、見守り、時に奮闘する。
伊藤四郎の友人達も 同様に老いている。
<老い>は日常であり、<衰え>も常識である。
けれど そこに
共に老い、共に悩んでくれる思いやりあふれる隣人達がいて
(吉行和子は77歳)
それに関しては
女の子が それは幸せな人生を歩んで来れた事は
間違いない。
ジイサン・バアサンとなった彼らが
自分達亡き後の世界を胸の内で想像し、
より良き未来であるために
今 自分達にできる事とは何か?
を考え、実行していく。
その根底にあるのは、愛。
愛しい者達に寄せる深い人間の情である。
そして、人は、運がよければ、
みんな、老いていく事ができる。
それはしかし、苦悩の日々でもあるらしい。
何の話だっけ?
そうだ、死だ。
周りを見回して、私が実感し続けている事。
それは。
人は、どうやら、やっぱり、みんな、死ぬらしい。
疑った事がある訳じゃないけど、
本当に、本当に、みんなが死んでいく。
ああ、私も 死んでいくんだ。
そう思う。
実感として、それがわかった。 って感じだ。
それが ようやく実感としてわかったのは、
そう、乳がんの手術を受けた頃だった。
癌だったからじゃない。
半世紀近く生きてきて
周りを見てきて
そして それがわかった。
手術から10年経った今では
まるで村の古老のように わかってきたよ!(爆)
母が死んだ。 78歳だった。
梅雨入りは 例年より 10日ほど早かったという。
村中の子ども達の「初めてのおつかい」に登場する
お豆腐屋さんも亡くなった。
豆腐屋のジイサンは 高齢だったが
入退院と 店の一時閉店・再開とを繰り返してくれた。
豆腐難民となった私たちは
その間に あちこちの豆腐屋をめぐって
どこそこの豆腐はまあまあだ、
いや、あっちの方が美味しい、
などと情報交換をして
村で一軒の美味しい豆腐屋が閉店した後の
事前トレーニングを積む事ができたのだった。
私が見つけたのは、大手スーパーに置いてある、
有名な豆腐屋の 一丁500円の豆腐。
それが 村の豆腐屋の105円の豆腐に 最も近い味だった。
あのジイサンは 自分で美味しいと思える豆腐を
大豆にこだわって(結果、北海道産の大豆だったそうだが)
作り続けてくれていたのだ。
何の話だっけ?
そうだ、「死」だ。
我が家のクイーン・オブ・スウェーデンの開花も
例年より10日ほど早かった。
20代の終わりに当地にやって来た私は
50代半ばになった。
当時 若手だった ヨウちゃんも 義さんも
そろそろ老境に近づいている。
死ぬ事を忘れてしまったような
90代も終わりの方のジイサンも
90代半ばのバアサンも
そろそろ身体がきかなくなってきいているし、
そろそろ新しい記憶がアヤシクなっている。
(このふたりだって、村内最高齢というわけではない。
聞いた所によると、100歳を超えて
まだまだ元気なバアサンがいるらしい。)
ふたりよりも もっと若手だった人達が
次々と鬼籍に入っている。
同級生にも 亡くなる人は続いている。
亭主を亡くした同級生もいる。
あの時は あんなに元気だったのに、と思う。
テレビドラマで「ぱじ」というのを見た。
(→ヒューマンドラマスペシャル「ぱじ」:じいじと孫娘の愛情物語)
女の子が可愛い過ぎるのが
私としては気に食わない(爆)
が、評判の高かったドラマだ。
孫を引き取ったジイジが
自らの<老い>と <老い先>の短さを実感しつつ
愛する孫の無事と成長を願い、見守り、時に奮闘する。
伊藤四郎の友人達も 同様に老いている。
<老い>は日常であり、<衰え>も常識である。
けれど そこに
共に老い、共に悩んでくれる思いやりあふれる隣人達がいて
(吉行和子は77歳)
それに関しては
女の子が それは幸せな人生を歩んで来れた事は
間違いない。
ジイサン・バアサンとなった彼らが
自分達亡き後の世界を胸の内で想像し、
より良き未来であるために
今 自分達にできる事とは何か?
を考え、実行していく。
その根底にあるのは、愛。
愛しい者達に寄せる深い人間の情である。
そして、人は、運がよければ、
みんな、老いていく事ができる。
それはしかし、苦悩の日々でもあるらしい。
何の話だっけ?
そうだ、死だ。
周りを見回して、私が実感し続けている事。
それは。
人は、どうやら、やっぱり、みんな、死ぬらしい。
疑った事がある訳じゃないけど、
本当に、本当に、みんなが死んでいく。
ああ、私も 死んでいくんだ。
そう思う。
実感として、それがわかった。 って感じだ。
それが ようやく実感としてわかったのは、
そう、乳がんの手術を受けた頃だった。
癌だったからじゃない。
半世紀近く生きてきて
周りを見てきて
そして それがわかった。
手術から10年経った今では
まるで村の古老のように わかってきたよ!(爆)