く~にゃん雑記帳

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<斑鳩文化財センター> 「法隆寺昭和大修理展」を開催中

2013年09月01日 | 考古・歴史

【世界遺産登録20周年の記念事業、柱根や葵紋の軒瓦、桃の種…】

 奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで夏季特別展「法隆寺を未来にたくす―法隆寺昭和大修理展」(17日まで)が開かれている。1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」が国内で初めて世界文化遺産として登録されてから20周年になるのを記念した事業の1つ。31日には斑鳩町中央公民館で記念講演会も開かれた。

 昭和大修理は法隆寺の長い歴史の中で最も規模の大きい修理工事で、昭和9年から昭和60年までほぼ半世紀をかけて行われた。西院伽藍で最も古い建造物の金堂や五重塔は創建当初の姿への復元を基本方針とした。ただ金堂の屋根に当初飾られていたとみられる鴟尾(しび)瓦は復元のための資料に乏しいことから見送られ、奈良時代の型式の鬼瓦が載せられた。一方、夢殿や東院鐘楼は鎌倉時代に大改造が行われていたことが判明したが、復元模型の製作にとどめ建物自体の復元は見送られた。

   

 大修理展には工事に関連する資料や写真パネルなどが展示されているが、まず東院礼堂の地下遺構から出土した柱根(ちゅうこん)や金堂の創建当初の古材が目を引いた。柱根は地面より下に残った柱の下部で、展示されているのは高さ約63cm、直径約39cm。現在の礼堂は鎌倉時代に建てられた瓦葺きの礎石建てのため、この柱根はそれ以前の建物の柱とみられる。金堂の古材では柱の上部で屋根を支える部材の大斗(だいと)、出桁下雲肘木(だしげたしたくもひじき)などが展示されている。これらは金堂の解体に伴って新しい部材に取り替えられた。

 金堂の柱上部から見つかった桃の種(桃核)30個余りも展示されている。木製の栓で塞がれた深さ約50cmの刳り込みから見つかった。いずれの種にも穴が開けられていることから紐のようなものでつながっていたとみられる。桃の種は纒向遺跡(桜井市)でも大量に出土している。また古代中国では桃は「仙果」と呼ばれ、特殊な霊力を持つと考えられていた。こうしたことから、金堂の立柱の儀式で供養品または鎮壇具として使用されたと推測されている。

 徳川家の紋所などが入った軒瓦も並ぶ。これは江戸時代前期の「元禄大修理」の際に金堂や五重塔に葺かれたもの。徳川5代将軍綱吉と生母桂昌院から修理のために多額の浄財が寄せられたことから、「三葉葵紋」と桂昌院の出身である本庄家の「九目結紋」をあしらった軒瓦が使われた。昭和大修理では創建当初の複弁八弁蓮華紋軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦に葺き替えられたため、紋所入りの軒瓦は屋根から下ろされた。

 このほか、修理工事について詳細に記録した「法隆寺国宝保存工事報告書」や金堂正立面図、昭和大修理で使用されたヤリガンナ(槍鉋)、金堂や五重塔の修理工事前と竣工後の写真パネルなども展示されている。

【元奈良国立文化財研究所所長の鈴木嘉吉氏が記念講演】

 記念講演会では日本建築史研究の第一人者で元奈良国立文化財研究所(当時)所長の鈴木嘉吉氏が「法隆寺昭和大修理―古代技術の解明と復原」と題して講演した。昭和大修理は文部省内に文部次官をトップとする「法隆寺国宝保存事業部」、現地に保存工事事務所を開設して進められた。「3つの現場ごとにベテラン主任と学校出の若手助手を組み合わせて配置した。国は空前絶後の体制で臨み、国直営の形で工事は始まった」。修理は①修理工事報告書の刊行②埋蔵文化財の調査③壁画の保存修理④大宝庫の建設――を基本方針とした。

 鈴木氏は建物ごとにどう解体され復原されていったかを詳細に説明した後、昭和大修理の意義として①古建築の修理に伴う調査研究方法を確立した②古代から中世に至る建築技術の変遷、とりわけ日本独特の屋根構造の変化・発展を解明した③工事報告書の刊行により修理事業の全般的なレベルアップに寄与した――などを挙げた。詳細な工事報告書や焼損した壁画や柱なども含めた古材の保存は、世界遺産登録のために来日した調査員たちも驚きを隠さず、登録に少なからず貢献したという。

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