く~にゃん雑記帳

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<最初の遣隋使> 「600年が始まり。604年に派遣した可能性も」

2013年09月22日 | 考古・歴史

【横大路1400年記念国際シンポで、王勇・北京大学客員教授】

 日本書紀の推古21年(西暦613年)に日本最初の官道「横大路」について記されてから今年でちょうど1400年目。これを記念した国際シンポジウム「道~その遥かなる記憶」が21日、奈良県橿原文化会館で開かれた。遣隋使の始まりは600年と607年に学説が分かれているが、講師の王勇・北京大学客員教授(浙江工商大学日本文化研究所長、中国日本史学会副会長、写真㊥)は多くの文献や当時の国際情勢から「600年から始まった」と明言、さらに604年に遣隋使が送り込まれた可能性にも触れた。

   

 遣隋使の派遣回数は3回説から6回説まで諸説ある。最も多いのは4回説。では最初の派遣はいつだったのか。日本書記では600年の記載がなく、607年の遣使を最初とする。それを基に2007年には遣隋使1400年の記念イベントが繰り広げられた。「謎めく推古十二年の遣隋使」の演題で講演した王氏はそれ以来「疑問が膨らんでいた」と話し始めた。

 王氏が遣隋使の始まりを600年とする根拠の1つは様々な文献の収録記事。中国の「随書・倭国伝」をはじめ「通典」「冊府元亀」「新唐書」「宋史」に記され、さらに日本の「釈日本紀」にも記録されている。さらに「異国牒状記」の中の「推古天皇2年(594年)正月、随国之牒状到来」の記事や「隋書・百済伝」、隋朝の開皇20年(600年)の倭国朝貢記事などの分析からも「600年に日本の使者が中国に行ったことは間違いない」という。

 また604年の遣隋使の可能性も指摘した。「経籍後伝記」には「この時(推古12年=604年)正月、国家に書籍いまだに多からず。ここに小野妹子を隋国に遣わして、書籍を買い求めしむ」と記され、「随書・音楽志」には「始開皇初定令……倭国等伎」と記す。このほか、604年に日本で初めて暦日を用いたこと、朝礼作法が中国式に改められたことなど傍証として挙げた。ただ「まだ謎が残り、立証のためにはもっと多くの史料が必要」とも述べた。

 王氏は中国と西域の東西を結ぶ交易ルートがシルクロードと呼ばれるのに対し、中国、朝鮮半島、日本の東アジアのルートを〝ブックロード〟と呼ぶ。「日本はシルクが目当てではなく、最初から書物を求めて遣隋使を派遣した」。その根拠として「経籍後伝記」のほかに607年の遣隋使について触れた「異本上宮太子伝」の「奉請『法華経』将来」の記述などを挙げる。聖徳太子の著作とされるものに「三経義疏」(法華・維摩経・勝鬘経)がある。それらを著すためにも多くの経典などが必要だったのだろう。

 王氏の講演の前には東アジアの古代史に詳しい作家、豊田有恒氏(写真㊨)が「中国・韓国から、推古大道に至る古代ルート」と題して講演した。「漢字にしても仏教にしても朝鮮半島伝来の記録が記紀にあるが、中国文化は単に半島を経由しただけでなく、いったん咀嚼されたものが日本に伝わってきた」。日本への文化の窓口として重要な役割を果たしたのが半島の南にあった古代国家「弁韓」と後の「加羅(カラ)」(後に新羅と百済に併合)という。

 文化の伝播ルートについては「弁韓・加羅が倭人の〝前進基地〟だったことは間違いない。そこから対馬―壱岐―東松浦半島(佐賀)という順路だったとみられる」と話した。豊田氏は約30年前、復原した古代船でそのルートの一部をたどった。その際、風待ち、潮待ちのため港で3日間の逗留を余儀なくされた。その経験から「邪馬台国論争でしばしば距離が争点になるが、魏志東夷伝の倭人条に書かれている日数から距離を割り出す方法はあまり意味がないことが分かった」そうだ。


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