く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<論語を読み直す> 小倉紀蔵氏「論語は誤読を繰り返されてきた」!

2013年09月15日 | メモ

【奈良県主催セミナーで、「孔子の聖人イメージも後につくられた!」】

 「論語を読み直す」と題した講演会が14日、奈良県文化会館で開かれた。県主催の地域交流セミナーの初回で、講師は京都大学教授の小倉紀蔵氏。専門は朝鮮半島の思想・文化、東アジア哲学で、NHKテレビ・ラジオのハングル講座講師や「日韓文化交流会議」委員などを務めた。昨今の論語ブームもあって、当初予想の2倍の約400人が小ホールを埋め尽くした。

    講師の小倉紀蔵氏

 孔子といえば聖人君子というイメージが強い。だが、小倉氏は講演の初めに「聖人のイメージは後につくられたもの」とまず否定した。「孔子は低い階層の出身で幼くして両親を亡くし、若い頃には正式な就職ができず3Kのアルバイトが続いた。勉学に励み自分を高めていったのは確かだが、孔子自身も『まだ君子にもなれない』と嘆いていた」。

 孔子は「非常に感性が鋭い人だった。そこが大変頭が良かった孟子との大きな違い」という。「孔子が重視したのは見る・聞く・味わうといった感覚」。その例として論語の中の「郷党編」を紹介した。そこには季節外れのものや切り口が雑なものは食べない、食事中には話さない――といった食べ物や食べ方へのこだわりが記される。「論語は決して道徳的なことばかり書かれているわけではない」。

 孔子は「仁」に重きを置いた。論語にも「仁」という言葉が数多く出てくる。「子曰く、荀(まこと)に仁に志せば、悪しきこと無し」(里仁編)、「子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁」(学而編)――。では「仁」とは? 弟子たちもそれを知りたがったが、孔子は最愛の弟子、顔淵には「克己復礼」だといい、他の弟子には1人1人違う説明をした。小倉氏は「仁は人偏に数字の二と書く。仁は本来、定義できないが、あえて言うなら、人と人とのあいだに立ち現れる<いのち>であり、その<あいだのいのち>を立ち現すための意力である」という。

 論語には「君子」とその反対の「小人」についても多く記す。「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(子路編)、「子曰く、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁編)、「子曰く、君子は器ならず」(為政編)――。両者を大別すると、君子はアニミズム的教養の持ち主、共同体主義、生命尊重、文化主義的といった特徴を持つ。一方、小人はシャーマニズム的、グローバリズム、利益尊重、覇権主義的などの特徴を持つ。コミュニケーション能力に関しては、君子は朴訥としているのに対し、小人はペラペラと弁舌さわやかで「上から目線で説教して共同体を破壊する」という。

 論語が誤読されてきた背景には「論語の世界観がアニミズムなのに、後世、それを汎神論的に読んでしまったことによる」と指摘する。孔子の死後、孟子は性善説を唱え孔子が最も重きを置いた「仁」に加え徳目義の思想を主張した。その孟子について、小倉氏は「孔子のいう小人の世界観と道家の汎神論的な世界観を併せ持っていた。その孟子によって孔子は聖人に祭り上げられた」と指摘する。

 小倉氏は「孔子のアニミズム的な世界観が残っているのは(中国や朝鮮半島ではなく)むしろ日本ではないか。の解釈についても一番分かるのが日本人だと思う」と話す。その例証として俳句を挙げた。「同じ場面に立っても1人1人感じ方が違い、それをわずか17文字でそれぞれに表現する。それが孔子の言う仁であり、いのちでもある」。

 最後に学而編の有名な一節「子曰く、学びて時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋あり遠方より来る、また楽しからずや」に触れた。その中の「遠方」は論語が書かれた当時にそんな熟語はなく、「えんぽう」の読みは誤りという。「遠くより方に(まさに)来る」と読むべきで、会いたかった友が突然やって来て2人の間に立ち現れる「仁」そのものを表しているそうだ。

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<ナンバンギセル(南蛮煙管)> ススキの根元に寄り添う〝思い草〟

2013年09月14日 | 花の四季

【光合成できない寄生植物、栄養分は全てススキの根から】

 実に個性的で不思議な植物だ。ハマウツボ科の1年草で、9月から10月にかけて主にススキの根元のそばで20cmほどの花柄を伸ばし、その先に淡い紅紫色の花を一つずつ付ける。寄生植物の代表格で、葉が退化し葉緑体を持たないため光合成ができない。そのため、栄養分は全てススキから吸収する。ススキのほかサトウキビやミョウガなどにも寄生する。

  大きなススキの株のそばにちょこんと生えるため、見つけるのはなかなか容易ではない。以前ある公園で「もう咲いているはず」と聞いて、懸命に探したが徒労に終わったこともあった。一風変わった名前は筒状の花の形が、南蛮人(外国人)の船員が口にくわえたマドロスパイプのように見えることから。「キセルソウ(煙管草)」や「オランダキセル」の別名もある。

 ややうつむき加減に物思いにふけるような花姿から「オモイグサ(思い草)」とも呼ばれる。万葉集にも1首だけ「思ひ草」の名前で登場する。「道の辺の尾花が下の思ひ草 今さらさらに何をか思わむ」(詠み人知らず)。道端の尾花の下に生えている思ひ草のように、今さら何を思い悩みましょうか(私が思っているのはあなただけです)――。この「思ひ草」についてはリンドウやツユクサなど諸説あったが、今では上の句の「尾花(ススキ)が下に」からナンバンギセルが定説になっているそうだ。

 同じ仲間に大型のオオナンバンギセルとやや小型のヒメナンバンギセル。オオナンバンギセルは「オオキセルソウ」「ヤマナンバンギセル」ともいわれ、ヒカゲスゲやヒメノガリヤスに寄生する。ヒメナンバンギセルの宿主は主にクロヒナスゲ。ナンバンギセルを県レベルでみると長野で絶滅し、山形、埼玉、石川など5県で絶滅危惧種または準絶滅危惧種になっている。オオナンバンギセルはさらに深刻で、愛知で絶滅し16県で絶滅危惧種に指定されている。「照り翳(かげ)り南蛮ぎせるありにけり」(加藤楸邨)。

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<BOOK> 「美術品はなぜ盗まれるのか―ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い」

2013年09月13日 | BOOK

【サンディ・ネアン著、中山ゆかり訳、白水社発行】

 ターナーは19世紀英国を代表する巨匠画家。そのターナーの作品2点が所蔵する英国のテート・ギャラリーからドイツ・フランクフルトの美術館に貸与中に盗難に遭った。事件の発生は1994年7月28日。本書はその日から取り戻すまでに要した約8年半を時系列で追ったドキュメンタリーである。しかも執筆者は作品捜索の指揮に当たった当事者の美術館学芸員。それだけにスリルとリアリティーに満ちたものになっている。

   

 ターナーは風景画家として知られるが、盗まれたのはターナー後期の作品で半抽象画の油彩「影と闇―洪水の夕」と「光と色彩(ゲーテの光学理論)―洪水の翌朝」(表紙の写真)。聖書の中の大洪水に題材を取った作品で、画家本人が国に遺贈した〝ターナーの遺産〟と呼ばれるコレクションの中の2点だった。貸与に当たって、これらの作品には2400万ポンド(約37億円)という巨額の保険が掛けられていた。

 著者ネアンは1953年生まれ、盗難当時はテート・ギャラリーの学芸員として内外での展覧会の責任者だった(現在はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーの館長を務める)。盗難は〝居残り〟タイプという手口で、フランクフルト警察の威信をかけた捜査で後に9人が逮捕され、うち3人が窃盗や盗品故買の罪で有罪になった。だが、作品の取り戻しは困難を極めた。

 保険会社側は絵の発見につながる有力情報の提供者に、25万ドルを上限に懸賞金を出すことを決める。1995年から2年余りに13件が寄せられたが、真偽の解明は時間と忍耐を要し、そのうちいくつかは保険会社や仲介業者から金をゆすり取ろうという悪質なものだった。「本来無関係な者たちまで事件から利益を得ようとするため、1つの犯罪がより多くの犯罪を新たに生み出しているようだった」。

 この間、絵の所有権は保険金の支払いに伴って保険会社に移るが、その後、テート・ギャラリーが買い戻す。英国の保険業界では初のケースだったという。これによって盗難5年目以降、作品捜索の全責任はテートが負うことになった。膠着状態の中、1999年夏、転機が訪れる。フランクフルトの弁護士が仲介役として浮上し、翌2000年4月には作品2点のポラロイド写真が送られてきた。「盗難からほぼ6年近く……絵は生きていたと叫びたかった」。

 だが、作品が手元に届くまでには粘り強い交渉を要した。「<あちら側>の絵の所持者は、すでに写真代として100万マルクを受け取っているにもかかわらず、さらに前金をほしがっていることが判明した」。2000年夏、フランクフルトでまず「影と闇」が手元に戻った。「まるで旧友に会った気分」と絵を鑑定した美術館の保存修復士。紛れもなく本物だった。その場の緊迫した雰囲気と喜びが手に取るように伝わってきた。もう1つの「光と色彩」を取り戻すにはさらに2年と5カ月を要した。テート側からドイツの弁護士を通じ支払われた金額は最終的に1000万マルク(約5億円)に達したという。

 本書は第2部で、高額美術品の過去の盗難事例や盗難が頻発する理由、盗難の予防策、懸賞金の問題などにまで踏み込む。筆者は「高額美術品の市場価値が天井知らずの成長を見せるのと歩調を合わせ(盗難事件が)著しく増大」し、「麻薬の密輸や流通、売買と、ますます密接な関係をもつようになってきている」と指摘する。背後には犯罪組織と結びついた闇市場があり、美術品が裏社会の〝通貨〟や〝担保〟になっているというわけだ。

 高額な美術品泥棒はその大胆不敵さから小説や映画の題材になり、英雄として描かれることも多い。だが、筆者は「エンターテインメント性を重視する映画やフィクションの世界は、意図せぬうちに、犯罪削減のために一致団結しようとする人々の取り組みの障害となっている」と指摘する。盗難を防ぐための課題としては「単独の国際データベースと各国間の専門警察隊を結びつける方針を定めるガイドラインづくり」などを挙げている。

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<阪神タイガース> 人気の秘密は? 「地域性・反東京・人間臭さに共感!」

2013年09月12日 | スポーツ

【大阪自由大学で講師の玉置通夫氏(元毎日新聞編集委員)】

 熱狂的なファン〝虎キチ〟に支えられ、今や巨人の本拠地・東京ドームでも巨人ファンと互角の動員数を見せる阪神タイガース。その人気はどこから来ているのか。プロ野球担当記者として長年阪神を見てきた元毎日新聞編集委員・玉置通夫氏が11日、大阪自由大学北浜教室で講演、「地域性に加え、東京の代表である巨人に対抗する反東京的な雰囲気、ここ一番に弱く〝ダメ虎〟といわれる人間臭さなどが人気の背景にあるのではないか」と分析した。

   

 玉置氏の講演は「タイガースって何だ!」と題した3回シリーズの最終回。1回目は「誕生秘話―巨人との因縁の歴史」、2回目は「電鉄本社との不思議な関係」、そして最終回は「なぜ熱狂させられるのか」のタイトルで講演した。玉置氏の著書に「甲子園球場物語」「これがタイガース」がある。

 阪神タイガースは巨人創設翌年の1936年に大阪タイガースとして誕生した。プロ野球が始まって以来、経営母体が1回も変わっていないのはこの2チームだけ。だが、優勝回数は巨人の43回に対し阪神はわずか9回。巨人のほぼ5分の1と、大きく水をあけられている。だが、年間の観客動員では今や巨人を凌駕しそうな勢いだ。

 人気の要因として玉置氏がまず挙げるのが「関西地区で巨人と常時対戦できる唯一のチームという地域性」。パリーグにはかつて在阪球団が南海、阪急、近鉄と3チームもあったが、セリーグは阪神だけ。「昭和25年(1950年)の2リーグ分裂の際、阪神はセ・パどちらにいくか悩んだが、その後の人気ぶりから見るとセリーグの選択は正しかったといえるのではないか」。

 次に「巨人との対比」が人気の鍵を解くヒントになると話す。「巨人は東京という風土を反映してスマートで官僚的な空気が漂い、チーム管理には定評がある。一方、阪神は政治に置き換えると党人的なムードが強く、選手などの情報管理がうまく機能していない部分がある」。

 阪神の電鉄本社と球団の間の多いトラブルについては「サラリーマン社会の投影であり、社会的な話題になることで球団とファンの距離も濃密になっていくのではないか」と指摘する。阪神―巨人間のトレードは1979年の江川・小林の電撃トレード以外、ほとんどない。「その点からも両チームが互いを意識しているのは間違いない」。

 試合運びも対照的。巨人には勝負に対するソツのなさがあるが、阪神はここ一番にもろいところがある。今季も伝統の一戦は終盤2カードで1勝5敗と振るわず、対巨人戦の今季負け越しが決まった。玉置氏は「野球は人生の縮図ともいわれるが、その典型的な事例が阪神ではないか」と話す。「失敗も多いが、たまにはいいところも見せる〝人間臭さ〟が共感を呼ぶ。失敗のない優等生よりも、よく失敗するが面白みのある人間のほうが気になりやすいもので、そこにファンの深情け心理が働くのではないか」。

 阪神も来年で球団創設から77年目。「人間でいうと喜寿に当たる。それだけに、もう少しふんどしを締め直してやれと言いたい。大相撲に例えるなら稀勢の里と同じように、土壇場にいるつもりで1戦1戦、全力を尽くしてほしい」。玉置氏はこう結んだ。

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<原田千賀子さん> 「化生童子」や「飛天童子」の絵の制作に励む

2013年09月09日 | ひと模様

【水彩画教室主宰、「震災でお子さんを亡くした方々の慰みになれば」】

 2011年の東日本大震災では可愛い盛りの子どもも多く犠牲になった。親の悲しみは深い。その親たちに絵の特技を生かして寄り添えないかと、天国で安らかに過ごす童子の絵を描く女性がいる。奈良市の町なかギャラリー「散華(さんげ)美術館」館長で、各地で水彩画教室を開いている原田千賀子さんだ。絵がある程度たまるたびに被災地で会場を借りて展示し、絵を差し上げたいという。3年程度続けたい考えで、その資金集めに知恵を巡らせている。

   

 原田さんは1948年、鹿児島県の奄美大島生まれ。自ら「鉄ちゃん」というほどの鉄道ファンで、この25年間、大手進学塾に勤める傍ら、青春18きっぷを使って国内をくまなく回った。日本画を以前、約10年間習ったこともあって「車窓からの風景を山ほど描いた」という。1996年には〝全線踏破〟の記念に「ポエム画紀行 各・駅・停・車(長野 岐阜)」を自費出版。これが注目され、JR西日本からの依頼で宝塚線複線電化10周年記念に「ポエム画紀行 JR宝塚線」を出版し、最近では奈良、大阪、東京で「ヨシミチガ」の名前で水彩画教室を開いている。

 

 原田さんがこれまでに描いた童子の絵を数枚見せていただいた。天国に逝った子どもが空を浮遊したり、蓮の花の上で遊んだりしている構図(上の写真2枚=一部)。いずれも穏やかな色調で柔らかいタッチだ。「私自身も最初の子どもを亡くしているので、親の悲しみ、苦しみはよく分かります。絵をぼかしているのは、親御さんに天国に逝った子どもへのイメージを膨らませてもらいたいとの思いからです」。

 これらの絵を見た美術の研究家から「これは仏画の化生(けしょう)童子、飛天童子と同じ」と指摘を受けたという。化生童子は極楽浄土で蓮華の中から生まれ出た童子。原田さんはそれまでその言葉も知識もなかったそうで、「何か奇跡めいたものを感じているところです」。館長を務める「散華美術館」の一角にも原田さんが童子たちを描いた小さな陶器片がたくさん飾られていた(下の写真㊧)。

 

 原田さんはこの構想とは別に、約2年前から宮城県多賀城市のベビーサロンからの依頼で、1歳児の絵を描いてプレゼントする活動も続けている。パソコンに送られてくる赤ちゃんの写真を参考に水彩で描き、サロン側で額縁を付けて1歳の誕生日に贈っているという。これまでに描いた赤ちゃんは既に100人を超える。原田さんの元には8月に送った分の返礼として、「子どもたちも絵を受け取るととても喜ぶんですよ~♪」という一文を添えた、絵を持つ子どもの写真が届いていた。

 散華美術館は原田さんの自宅でもある古民家を改造して2011年秋に開館した。運営母体はNPO法人美術散華保存会(岡村元嗣代表)。原田さんはこのNPOの事務局長も兼ねる。散華は寺院の法要で仏の供養や場の清浄のために撒かれる蓮弁をかたどった紙片。芸術性の高いものは〝美術散華〟と呼ばれる(上の写真㊨)。同館では収集した散華や保存会が制作した散華を展示・販売しており、同時に「ヨシミチガ ギャラリー」として水彩画教室の生徒さんの作品も展示している(開館は土日祝)。

  

 原田さんの活動には無料奉仕のボランティア的なものが多い。その点について原田さんは「小さい頃から人に喜んでもらうのが大好きで、その性分は今も変わりませんね」とにこやかに話す。一方で「これまで苦労も随分してきました。その苦労を拭い去るものが欲しくて、いわば〝自分探し〟をやっているようなものです」とも話してくれた。この10年間ほど、毎日欠かさず早朝、東大寺二月堂にお参りしているという。

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<正倉院宝物> 聖武天皇遺愛品の献納 「梵網経」への信仰に基づく!

2013年09月08日 | 考古・歴史

【奈良女子大学公開講座で奈良国立博物館の内藤栄氏】

 奈良女子大学の地域公開講座が7日、同大学記念館で開かれ、奈良国立博物館学芸部長補佐・工芸考古室長の内藤栄氏が「光明皇后の想いを感じる正倉院展」と題して講演した。長く正倉院展を担当してきた内藤氏は聖武天皇の遺愛品が光明皇后によって大仏に献納された背景について、「天皇は生前から梵網経(ぼんもうきょう)を信仰の柱に据えており、遺愛品の献納も梵網経に基づくと推定される。それがおそらく天皇の意志でもあったのだろう」などと語った。

  

 梵網経は鑑真が中国からもたらした戒に関する根本経典。聖武天皇は東大寺の大仏開眼2年後の754年、大仏殿の前で鑑真から菩薩戒を受けた。この受戒によって天皇は名実ともに菩薩となった。梵網経は殺生・盗み・淫行・飲酒などの10戒のほか、物事に執着せず一切の持ち物を仏に捧げる〝捨心〟や病人の看病、武器武具の不所持なども説く。

 天皇は受戒2年後の756年に崩御する。光明皇后は四十九日に天皇の遺愛品と薬物を献納した。宝物リストの「国家珍宝帳」には袈裟、書、鏡、楽器、屏風、遊戯具、武器武具など六百数十件が記されるが、その3分の2を武器武具が占める。その願文は「遺愛品を喜捨することで大仏、諸仏菩薩を供養し、その功徳によって天皇(の御霊)が速やかに『花蔵(けぞう)の宝刹』へと赴いて……」と書かれている。「花蔵の宝刹」は梵網経の思想表現の1つ。

 献納した60種類の薬物を記した「種々薬帳」願文にも「薬効虚しく死去した場合は花蔵世界に往生して廬舎那仏にまみえ、悟りの境地に達しますように」とある。内藤氏は「天皇の病気治癒や追善法要も梵網経を主軸に執り行われた」と指摘し、「続日本紀」の756年12月30日にある「称徳天皇は皇太子、諸臣を諸大寺に派遣し、梵網経を講じさせた」との記述にも注目する。1周忌に向けて全国で梵網経の講義を行わせたというわけだ。この記述の中にも「国家珍宝帳」の願文に似た「華蔵の宝刹」という表現が見える。

 内藤氏はこれらのことから「梵網経に基づく献納の功徳によって、天皇の御霊が大仏の世界である『蓮華台蔵世界海』に達し、菩薩の次のステップである如来(仏)となることを願ったものだろう」と推論する。さらに「遺愛品とともに献納された薬物は国民が等しく仏の世界に往生できることを願ったものだった」とみる。

 講演の最後に今年の正倉院展(10月26日~11月11日)に触れ、見どころとして蘇芳地金銀絵箱、漆金薄絵盤(香印坐)、漆彩絵花形皿、横笛(おうてき)、投壺(とうこ)と投壺矢などの紹介があった

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<パンパスグラス> 草原で花穂を悠然となびかせる〝お化けススキ〟

2013年09月07日 | 花の四季

【和名は「シロガネヨシ」。「西洋ススキ」とも】

 イネ科の大型多年草。南米アルゼンチンのラプラタ川流域に広がる大平原(パンパス)に群落をつくることから「パンパスグラス」の名が付いた。ブラジルやチリ、ニュージーランドなどにも分布する。高さが1m前後の矮性種から、2~3mにも伸びる大型種まで20種ほどがある。

 日本には明治の中頃に大型の「セロアナ種」が渡来した。国内で広く流通・栽培されているのはこの品種が中心。「シロガネヨシ(白銀葭)」という和名を持つが、この名前より英名の「パンパスグラス」として一般に知られている。「西洋ススキ」や「シロススキ(白薄)」と呼ばれることもある。

 雌雄異株で、大きな花穂を付けるのは雌株。8月後半から10月にかけて長さが50~100cmもある羽毛状の花穂を伸ばして風になびかせる。花穂の色は銀白色のほかピンクや茶色がかったものもあり、切り花やドライフラワーの材料として利用される。葉の縁にはススキと同様に鋭いギザギザ。葉に斑(ふ)が入った品種もある。

 東京都調布市の都立神代植物公園の芝生広場では巨大なパンパスグラスが圧倒的な存在感を見せる。40年以上の古株といわれ、直径が7~8mほどもある。国営ひたち海浜公園(茨城県ひたちなか市)にはサイクリングコースなどに約500株。東京都立シンボルプロムナード公園(江東区)、伊豆シャボテン公園(静岡県伊東市)、花博記念公園鶴見緑地(大阪市)、国営海の中道海浜公園(福岡市)などでもパンパスグラスの颯爽とした〝雄姿〟を見ることができる。

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<紀伊半島大水害2年> 奈良・橿原市で「復旧・復興シンポジウム」

2013年09月06日 | メモ

【長岡造形大・澤田氏「危機感の共有が集落再生の契機に」】

 2011年9月の台風12号に伴う紀伊半島大水害から丸2年。奈良県はその記憶を風化させず「災害に強く、希望の持てる地域づくり」に取り組む一環として、5日、奈良県橿原市のかしはら万葉ホールで「復旧・復興シンポジウム」を開いた。長岡造形大学准教授・澤田雅浩氏が新潟県中越地震からの復興の教訓を踏まえて基調講演、この後、「5年後、10年後を見据えた復興を考える」をテーマにパネルディスカッションが行われた。会場前のロビーでは「紀伊半島大水害復旧・復興パネル展」も行われた。

 

 紀伊半島大水害では和歌山、奈良両県を中心に大きな被害が発生、死者は三重県も含めて3県で72人、行方不明者は16人に上った。奈良県五條市大塔町と野迫川村の一部では土砂崩れの恐れから今も避難指示が継続中。仮設住宅の入居者は奈良県を中心になお200人を超えている。

 澤田氏の基調講演の演題は「地域の実情に応じた復旧・復興プロセスとするために」。中越地震で被害が大きかった山古志村(現長岡市)などを例に挙げながら、「過疎・高齢化で〝茹で蛙状態〟でしぼんでいくばかりの中山間地が、被災によって危機感を共有し、集落再生に向けて前向きに踏み出す契機になった」と振り返った。

 地域の復興では被災地でも再建が可能な「小規模住宅地区等改良事業」が貢献したという。震災をきっかけに学生の研修受け入れなど新たな絆や交流も生まれた。澤田氏は人口減が進む地域での復興のポイントとして①身の丈にあった〝自律的復興像〟の共有②復興計画を適宜修正する柔軟性③地域や市民の力を十分に発揮させる制度づくり――などを挙げた。

 パネルディスカッションでは新潟、奈良の両被災地で復興住宅づくりに取り組むアルセッド建築研究所副所長の大倉靖彦氏が、地域の大工さんでも施工可能な低コストモデル住宅を紹介した。同研究所は奈良での現地調査や大工ワークショップ、気候風土などを踏まえ「十津川にふさわしい住まいづくり」を提案する。その中で平屋建て、奥行き3間程度の横一列型の間取りなど基本構造から内外装の仕上げ方法までを「25の手法」として細かく定めている。モデル住宅の建設費は広さ約55㎡の平屋建てで約1100万円という。

 この日のシンポジウムでは全国治水砂防協会理事長の岡本正男氏による世界と日本の自然災害の状況報告と、来年11月に奈良市で開かれる国際防災学会「インタープリベント2014」の紹介もあった。同学会は「強靭さを備えた社会を構築するための減災対策」をテーマに掲げ、奈良の土砂災害被災地の現地視察も予定されている。岡本氏は環太平洋インタープリベント協議会会長も務める。

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<ワタ(綿)の花> ムクゲに似たクリーム色の清楚な花

2013年09月05日 | 花の四季

【秋になると成熟した実から綿毛がモコモコと】

 ワタはハイビスカスやタチアオイ、ムクゲなどと同じアオイ科の1年草。高さは1m前後になり、夏に直径5~6cmの5弁花を付ける。花色はクリーム色が多いが、白やピンクもある。1日花で夕方にはしぼむ。5~6週間後、実が成熟すると、中から種子を包み込んだ真っ白い綿毛がモコモコとあふれ出てくる。その様が白い花のように見えるため綿花と呼ばれる。

 綿花栽培の歴史は古い。紀元前2000年前後にインダス文明が栄えたインダス川流域のモヘンジョ・ダロの遺跡からは綿布が見つかっている。ワタに関する日本の最古の記録は「日本後紀」という平安時代初期に編纂された歴史書。そこには延暦18年(799年)に「三河国に崑崙人が漂着し、持っていた綿の種子を諸国で栽培した」と記されている。崑崙は今のインドとみられる。

 一方で綿花は奈良時代から既に栽培されていたのではないかとの説もある。万葉集にはワタの花を詠んだ歌はないものの、綿の暖かさを詠んだ歌が数首掲載されている。その1つに「しらぬひ筑紫の綿は身に着けて いまだは着ねど暖けく見ゆ」(沙彌満誓)。ただ、この歌にある「綿」は蚕の繭を煮て引き伸ばして作った真綿のことを指すらしい。

 崑崙人が指導した綿花栽培は日本の風土に合わなかったのか、うまくいかなかったようだ。国内で本格的に栽培が始まるのは室町末期になってから。中でも大阪の泉州地方は綿花栽培が盛んで、日本の綿業地帯の中心地になった。だが、明治に入って外国産綿花の輸入が始まると、次第に斜陽になって明治の20年代にはほとんど姿を消した。「泉州や海の青さと棉の花」(青木月斗)。

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<く~にゃん物語21> ウサギの楽園「大久野島」通信弟7弾

2013年09月04日 | ウサギ「く~にゃん物語」

【最初に放たれた8匹が今ではなんと約700匹!】

 広島県竹原市沖の瀬戸内海に浮かぶウサギの楽園「大久野島」。8月下旬に2カ月ぶりに島を訪れた関西在住のK・Iさんご夫妻から、またまた近況報告と写真が届いた。今回は島内唯一の宿泊施設「休暇村大久野島」での2泊3日の滞在で、ウサギの好物キャベツやニンジンもどっさり持参した。

 

 ウサギの楽園は昔、小学校で飼われていた8匹が放たれ半野生化したのが始まり。休暇村の職員さんの話によると、それが最近ではなんと約700匹まで増えているそうだ。今年は春が比較的涼しく天候に恵まれたこともあって、多くの子ウサギがすくすく育ったという。

 

 今回ご夫妻がウサギにあげたのはニンジン10本にブロッコリー1個、それにキャベツがなんと16玉というからすごい。滞在中に愛媛県の大三島までわざわざ出かけていってキャベツを買い足したそうだ。その数を聞いただけでも、ご夫妻がいかにウサギを可愛がっているか、またウサギが大切な存在になっているかがよく分かる。

 

 「ウサギたちの食欲は相変わらず旺盛でした」とK・Iさん。今回は猛暑だっただけに、日を避けて木陰で休んでいるウサギが多かったという。懸命に巣穴を掘っているウサギもいたそうだ。3日間のウサギとの触れ合いで、今回もたくさんの癒やしをもらってきたに違いない。

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<ナツズイセン(夏水仙)> 花茎の先にユリに似たあでやかなピンクの花

2013年09月03日 | 花の四季

【彼岸花の仲間、「裸百合」「傾城花」の異名も】

 細長い葉が水仙に似て、夏に花を付けることから「夏水仙」の名がある。しかしスイセンの仲間ではなく、ヒガンバナ科の植物でヒガンバナやキツネノカミソリと同じ仲間。本州以西の人里に近い山野や草地、土手などに自生する。花期は8~9月頃。葉が枯れた後、長さ50~60cmの花茎をすくっと伸ばし、その先端にユリに似た淡紅色の花を5~7輪ほど付ける。

 もともとの原産地は中国とみられ、古く日本に渡ってきて野生化した帰化植物といわれる。ヒガンバナと同じように何もない地面からいきなり茎と花が現れることから「ハダカユリ(裸百合)」の別名を持つ。忘れた頃に突然花が咲くため、地方によっては「ワスレグサ(忘れ草)」とも呼ばれる。海外ではその不思議な花姿から「マジックリリー」の名前が付いているそうだ。

 江戸時代の植物学者、貝原益軒は「花譜」(1698年)の中で「鉄色箭(なつすいせん)」として「花あるとき、葉なし。花尤下品なり」と紹介している。薄いピンク花には色香とともに気品も漂うが、益軒には品がない花に見えたようだ。「ケイセイバナ(傾城花)」という異名もある。傾城(けいせい)はもともと中国の故事から出た絶世の美女を形容する言葉。ただ日本では近世、高級の公娼(遊女)の別称としても使われた。

 ヒガンバナ同様、球根にはアルカロイド系のリコリン、ガランタミンなどの有毒成分を含む。誤って食べると嘔吐や下痢などの食中毒症状を生じ、ひどくなると痙攣を起こし死に至ることもある。一方、球根をすりつぶして腫れ物の患部に塗ると効き目があるという。ガランタミンはアルツハイマー型認知症の進行抑制効果があることでも知られる。「花かざし夏水仙の独り立ち」(沢木欣一)。

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<奈良市・トレド市> 姉妹都市提携40周年で「古都フィエスタ」

2013年09月02日 | 音楽

【子どもの能や童謡、語り、フラメンコ……】

 奈良市の学園前ホールで1日「なら・トレド 古都♪古都フィエスタ」が開かれた。スペインの古都トレド市との姉妹都市提携から40周年になることを記念したイベントの1つ。太鼓の演奏によるオープニングに始まって、子どもの能や日本・スペイン両国の童謡、語り、フラメンコなど、多彩で愉快なプログラムが次々に繰り広げられた。

  

 トレド市は首都マドリードの南約70キロに位置し、かつては西ゴート王国の首都として栄えた。〝町全体が博物館〟といわれ旧市街は世界遺産に登録されている。ルネサンス期を代表する画家エル・グレコがその情景に魅せられ、後半生を過ごしたことでも有名。両市は1972年9月に姉妹提携に調印した(奈良市のその他の海外の姉妹・友好都市は韓国・慶州、中国・西安、フランス・ベルサイユ、オーストラリア・キャンベラ、中国・揚州)。

 

 古都フィエスタではなら100年会館こどもお能グループによる能「鶴亀」と「猩々」に続いて、「童謡でつなぐ日本とスペイン」としてスペイン語による歌や奈良のわらべ歌が披露された。その中で行われたスペイン式の長縄跳びが少し変わっていた。数回跳んでは縄を子どもの上でクルクルと旋回させていた。わらべ歌は「音声館ならまちわらべうた教室」の小学生たちが歌ったが、教室全体の受講者は現在7クラス合わせて1歳から90歳まで約400人に上るという。

 

 続いてスペインの作曲家ファリャの「火祭りの踊り」が十三弦・十七弦の琴とエレクトーン4台で演奏された。もともとは管弦楽曲だが、一味違った和洋のコラボだった。休憩を挟んで両国の語りと演奏があり、「屯鶴峯(どんづるぼう)物語」と合唱付きの「ドン・キホーテ物語」(本邦初演)が披露された。最後は学園前に拠点を置くフラメンコ教室「エル・ビエント」のメンバー約30人によって、歌とギターの伴奏で華麗な舞踊が繰り広げられた。「エル・ビエント」は発足20周年を迎える来年の5月、なら100年会館大ホールで第10回発表会を開催の予定。

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<斑鳩文化財センター> 「法隆寺昭和大修理展」を開催中

2013年09月01日 | 考古・歴史

【世界遺産登録20周年の記念事業、柱根や葵紋の軒瓦、桃の種…】

 奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで夏季特別展「法隆寺を未来にたくす―法隆寺昭和大修理展」(17日まで)が開かれている。1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」が国内で初めて世界文化遺産として登録されてから20周年になるのを記念した事業の1つ。31日には斑鳩町中央公民館で記念講演会も開かれた。

 昭和大修理は法隆寺の長い歴史の中で最も規模の大きい修理工事で、昭和9年から昭和60年までほぼ半世紀をかけて行われた。西院伽藍で最も古い建造物の金堂や五重塔は創建当初の姿への復元を基本方針とした。ただ金堂の屋根に当初飾られていたとみられる鴟尾(しび)瓦は復元のための資料に乏しいことから見送られ、奈良時代の型式の鬼瓦が載せられた。一方、夢殿や東院鐘楼は鎌倉時代に大改造が行われていたことが判明したが、復元模型の製作にとどめ建物自体の復元は見送られた。

   

 大修理展には工事に関連する資料や写真パネルなどが展示されているが、まず東院礼堂の地下遺構から出土した柱根(ちゅうこん)や金堂の創建当初の古材が目を引いた。柱根は地面より下に残った柱の下部で、展示されているのは高さ約63cm、直径約39cm。現在の礼堂は鎌倉時代に建てられた瓦葺きの礎石建てのため、この柱根はそれ以前の建物の柱とみられる。金堂の古材では柱の上部で屋根を支える部材の大斗(だいと)、出桁下雲肘木(だしげたしたくもひじき)などが展示されている。これらは金堂の解体に伴って新しい部材に取り替えられた。

 金堂の柱上部から見つかった桃の種(桃核)30個余りも展示されている。木製の栓で塞がれた深さ約50cmの刳り込みから見つかった。いずれの種にも穴が開けられていることから紐のようなものでつながっていたとみられる。桃の種は纒向遺跡(桜井市)でも大量に出土している。また古代中国では桃は「仙果」と呼ばれ、特殊な霊力を持つと考えられていた。こうしたことから、金堂の立柱の儀式で供養品または鎮壇具として使用されたと推測されている。

 徳川家の紋所などが入った軒瓦も並ぶ。これは江戸時代前期の「元禄大修理」の際に金堂や五重塔に葺かれたもの。徳川5代将軍綱吉と生母桂昌院から修理のために多額の浄財が寄せられたことから、「三葉葵紋」と桂昌院の出身である本庄家の「九目結紋」をあしらった軒瓦が使われた。昭和大修理では創建当初の複弁八弁蓮華紋軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦に葺き替えられたため、紋所入りの軒瓦は屋根から下ろされた。

 このほか、修理工事について詳細に記録した「法隆寺国宝保存工事報告書」や金堂正立面図、昭和大修理で使用されたヤリガンナ(槍鉋)、金堂や五重塔の修理工事前と竣工後の写真パネルなども展示されている。

【元奈良国立文化財研究所所長の鈴木嘉吉氏が記念講演】

 記念講演会では日本建築史研究の第一人者で元奈良国立文化財研究所(当時)所長の鈴木嘉吉氏が「法隆寺昭和大修理―古代技術の解明と復原」と題して講演した。昭和大修理は文部省内に文部次官をトップとする「法隆寺国宝保存事業部」、現地に保存工事事務所を開設して進められた。「3つの現場ごとにベテラン主任と学校出の若手助手を組み合わせて配置した。国は空前絶後の体制で臨み、国直営の形で工事は始まった」。修理は①修理工事報告書の刊行②埋蔵文化財の調査③壁画の保存修理④大宝庫の建設――を基本方針とした。

 鈴木氏は建物ごとにどう解体され復原されていったかを詳細に説明した後、昭和大修理の意義として①古建築の修理に伴う調査研究方法を確立した②古代から中世に至る建築技術の変遷、とりわけ日本独特の屋根構造の変化・発展を解明した③工事報告書の刊行により修理事業の全般的なレベルアップに寄与した――などを挙げた。詳細な工事報告書や焼損した壁画や柱なども含めた古材の保存は、世界遺産登録のために来日した調査員たちも驚きを隠さず、登録に少なからず貢献したという。

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