経済を良くするって、どうすれば

経済政策と社会保障を考えるコラム


 *人は死せるがゆえに不合理、これを癒すは連帯の志

成長するための原動力

2010年04月08日 | 経済
 生産性を上げるために改善を続けるというのは苦しいものだ。改善を試みたからといって、必ず生産性が上がるわけではなく、いくつも試み、失敗もしつつ成功を積み上げていくことなのであり、大変なエネルギーがいる。

 そのエネルギーの源になるのは危機感である。しかも、それは共有されなければならない。「現状でも何とかやっていけるのに、なぜ大変な思いをしなければならないのか」と抵抗する人が少しでもいると、労力は倍加する。

 高度成長期の日本企業が生産性を高めたのは、「自由化」への危機感があったからだ。自由化によって欧米の大企業が日本市場に乗り込んでくるという不安、欧米の輸出市場で生き残るためには品質を上げなければならないという焦り、それらがエネルギーとなっていた。そして、内外の伸びる市場が挑戦の余地を与えてくれていた。

 日本が携帯電話で勝てなかったのは、一言でいえば、日本市場に安住できたからだろう。独自規格で守られていれば、入って来られる不安も、打って出る焦りも必要ない。そうなれば、競争力が身に付かないのもいたしかたない。国内の市場が飽和したところで、成長も衰えることになる。

 同じ「元公社」でも、国内市場が縮小することが明らかだった日本たばこ産業(JT)は、海外企業の買収に打って出て成功を収めた。正直に言って、元官営企業がM&Aでで成功できるのかと危ぶんでいたが、まったく脱帽である。これも危機感のなせる業なのだろう。

 今の中韓を見ていると、かつての日本と同じなのだろうと思う。成長への期待と危機感が交じり合った熱気がある。そして、内需が抑えつけられている日本市場というハンデを背負い、海外だけに期待をかける日本企業の苦しさも分かる。国内で力をつけて、海外に打って出るという勝ちパターンは失って久しい。

 今でも日本製品は高品質と言われるが、それを確立したのは高度成長を潜り抜けてからだ。それまでは、「安かろう、悪かろう」が日本製品の代名詞だった。高品質は、決して日本の文化や風土によるものではない。改善や挑戦を続ける苦しい営みが滞れば、失ってしまうものなのだ。 

 そうなる前に、内需を安定させて、苦しさを少しでも緩めてやりたいものだが、いまの経済政策を見ていると、とても希望が持てない。成長は、改善と挑戦から生まれ、それを助けることなしには、財政再建もあり得ないのだが。

(今日の日経)
 こもるなニッポン・ものづくり+α。政府税調・法人税財源、租特すべて廃止でも8000億円。最低保障年金・民主公約。日銀総資産、国債13.7%増73兆円。経済教室・医療を産業化。EVカーシェア開始。
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