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松山に誕生した「子規の庭」2

2015年04月23日 | 伊予松山歴史散策
子規の育った松山の礎を築いた人物は、豊臣秀吉恩顧の武将、賤ヶ岳七本槍の一人加藤嘉明である。
関ヶ原の戦いに武勲を揚げ徳川家康に伊予国半分20万石を拝領、慶長7年1月15日、家康の許可を得て勝山に新たな城を築城、同8年10月に嘉明は家臣および正木(松前)の住民とともに居を新城下に移し、ここに松山という名称が公にされた。これが現在の松山市の基礎である。その後藩主は、蒲生、松平と代わり、伊予松山藩主松平は、親藩であったため幕府の命を受け長州に二度攻め込み攻撃した。明治新政府から朝敵とされ制裁金15万両を課せられ、領地は土佐藩管理下おかれ松山の苦しみが始まった。
子供達は、何処からの支援も無く彼らなりに考え行動した事は、学問を身につけ自分の身は自分自ら切り開いて生きていく「独立自尊」であった。
その一人が正岡子規である。慶長3年9月17日生まれ、明治35年9月19日、35歳の若さで逝去した。その間近代文学の発展に多大な影響を及ぼした明治を代表する文学者であった。
もう一つの功績に、日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり文学を通じて野球の普及に貢献した。また、他にも「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳し新聞「日本」に紹介している。これらのことが評価され子規は平成14年、松山市で行われたプロ野球オールスター戦開会式で野球殿堂入りの式典が行われた。
そして、今年3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立された。これが松山市に誕生した「子規の庭」の二つ目である。
前置きが長くなりましたが、二つ目「子規の庭」を見て下さい。
三つ目の「子規の庭」が平和通りに創園されてますが、後日紹介します。


平成27年3月20日、松山に創園された二つ目の「子規の庭」で、正岡子規の野球姿を銅像にし、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として建立、松山市に寄贈しました。
正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。
銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してあります。
この俳句掲示は、季節に合わせた野球に関する俳句を掲示するそうです。


正岡子規によって松山に明治22年野球が伝えられ、明治25年松山中学に設立された「球技同好会」が起源で硬式野球部の設立は愛媛県内で最古であり、昭和25年に、松山東高校として夏の甲子園で優勝しています。
今年、高校野球21世紀枠候補に選ばれ甲子園に出場する愛媛県立松山東高校野球部は県内最古の野球部で、松山東高の前身は松山中学、正岡子規の母校であります。82年ぶり2回目」の出場となり初戦を勝利で飾りました。
松山からはバス65台で甲子園に行き、82年前には勝利できなかったが、大応援団の声援を受け初戦(東京代表、二松学舎大付属高校)を5対4で勝った。


「子規の庭」の子規野球姿像前に設置してある、日本語と英語の説明板。


「子規の庭」の子規野球姿像前に設置してある、日本語の説明板。
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