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兵法経営塾第7回

2012年12月19日 | Weblog
トップの条件(下)

 兵法経営塾では、この「トップの条件」の項に、日露戦争において満州軍総司令官として、総参謀長児玉源太郎と絶妙のコンビを組んで、大任を果たした大山巌をあげてその人となりをトップの条件事例としている。

 日露戦争は、現在の中華人民共和国の遼寧省から吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区北部まで(中国東北地区)にあたる旧満州の南部を主戦場とした。ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉によって我が国は日清戦争で得た遼東半島を清国に返還させられたが、遼東半島は清国内の内乱(義和団の乱)を経て、帝政ロシアの勢力圏となっていた。我が国にとってはロシアの南下を食い止める必死の戦いであった。日清戦争では1日で落とした旅順要塞は、その10年後、ロシア支配下での堅固な砲台や塹壕によって、日本軍を苦しめることになる。

 『満州に上陸してから連戦連勝して全世界を驚倒させながら北進した満州軍も、明治38年(1905年)1月25日以来、きわめて優勢なロシア軍の反抗を受け、苦戦に陥っていた。所謂黒溝台会戦*13)である。新たに南下してきたロシア軍に対して、この方面に配備されていた日本軍は甚だ微弱であった。満州軍総司令部は慌てて、各方面から兵力をかき集め、臨時立見*14)軍を編成して差し向けたが、当然これは兵学上最も不利とされている「兵力の逐次使用」となり、「焼石に水」の観を呈し、参謀部はすっかり狼狽していた。・・・

 この時、のっそりと作戦室に入ってきたのが大山総司令官である。「児玉さん。今朝からだいぶ大筒の音がするようですが、いったいどこですか」と、彼はおよそ場違いな声をかけた。・・・この素頓狂な発言が部屋の空気をいっぺんに和らげてしまった。・・・「満州軍は、一挙に渤海(ぼっかい)湾に追い落とされるのではないか」と心配されたこの危機を何とか収拾することができたのである・・・』。

 同じような話を司馬遼太郎「坂の上の雲」第4巻「203高地」の章では、『大山巌は、幕末から維新後十年くらいかけて非常な知恵者で通った人物であったが、人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身につけはじめ、頭のさきから足のさきまで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物である。海軍の東郷平八郎にもそれが共通しているところをみると、薩摩人には、総大将とはどうあるべきかという在り方が、伝統的に型としてむかしからあったのであろう。

 ついさきごろの沙河会戦*15)で、激戦がつづいて容易に勝敗のめどがつかず、総司令部の参謀たちが騒然としているとき、大山が昼寝から起きてきて部屋をのぞき、「児玉サン、今日もどこかで戦(ゆつさ)がごわすか」といって、一同を唖然とさせた人物である。大山のこの一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、ヒステリックな状態がしずまったという。・・・』
 
 先に『満州に上陸してから連戦連勝して全世界を驚倒させながら北進した満州軍』とあったが、有名な203高地攻略は、1904年8月19日の旅順への第1回総攻撃による戦死者15,800人に始まり、乃木軍は計6万人にのぼる犠牲の上に、児玉総参謀長の第三軍司令代行によって、その年12月ようやく成し遂げたものだった。旅順陥落は翌年1月となっている。

 さらに北進する日本軍を待ち受けていたものは、『戦線が、沙河の線で凍結している。「冬営」という軍事用語が、このときはじめてできたが、文字通り、凍結であった。満州平野は褐色の死の色をいっそうすさまじいものにしている。気温は平均して零下20度であり、風が吹けば体感温度は同30度以下になり、ときに夜は同40度以下に下がることもあった』。とは、同じく「坂の上の雲」第4巻「黒溝台」の章の冒頭にある。当地の1月の厳しい環境を指している。

 極限の世界で、将たる者の器の差が装備や兵力数を超えて勝利をもたらした。「坂の上の雲」にある『人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身につけはじめ、頭のさきから足のさきまで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物・・・』とは、トップの在るべきひとつの姿を象徴している。また『大山は、緒戦の遼陽戦において「児玉サア、戦のことは全部お頼み申します。責任は全部オイが負いますので。存分にやってくりゃんせ」と語った』とある*16)。我利我欲、責任はどこかへの多い現代人には見られなくなった風格・胆力である。

 それにしても、我が国にとっても過酷な日露戦争なくば、現在の韓国は尚、北朝鮮のごとくであったかも知れず、未だ日本統治を根に持つ韓国の国民感情が、如何に歴代当国の為政者の恣意により、歴史を踏まえていないかを物語るものであることを改めて思う。







*13) 黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)とは、日露戦争中の1905年1月25日-1月29日にロシア満州軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘。ロシア側の奇襲により始まり日本軍は緒戦苦戦したが、結果的には日本の辛勝に終わった。司馬遼太郎の言う沙河会戦もこの会戦の一部と捉え、大山大将の同じエピソードとなったものであろうか。
*14)立見尚文(1845-1907):桑名藩士、陸軍大将、男爵。
*15)沙河会戦(さか(しゃか)かいせん)は、日露戦争において、1904年10月、ロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。この戦い以降冬季に突入し、沙河の対陣と呼ばれる膠着状態に陥った。日本軍12万に対してロシア軍22万。戦死者は日本軍約2万人に対してロシア軍4万1千人。<by Wikipedia>
*16) 文藝春秋2010年12月臨時増刊号「坂の上の雲」“日本人の奇跡”大山巌の稿「素顔は理数系の実践家」堺屋太一より

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊の他、司馬遼太郎「坂の上の雲4」昭和46年4月初版(文藝春秋社)及び文藝春秋2010年12月臨時増刊号「坂の上の雲」“日本人の奇跡”を参考にし、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。