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兵法経営塾第10回

2012年12月28日 | Weblog
経営と兵法

 「兵法経営塾」の著者である大橋武夫氏は、戦後中小企業経営者として活動していた。そこでは軍隊に無かった困難にもぶつかる。増加する受注に対応するため40%もの増員を行ったが、却って生産が落ちるようなことが起こる。このため、戦後我が国に導入されたアメリカ式の経営学も本を読み、学者の講演を聞いて自社に取り入れようと試みたりもした。しかし、「新戦法の導入よりも、旧戦法の追い出しの方がむつかしい」と言われるように、中々思うように進まない。そんな中、得意の兵法を経営に取り入れることを思いついたという。

 熱心に兵書を読み直してみると、戦争をしていた時より感心することが多いのに驚かされた。まずは、民主主義の誤解から生じていた職場規律を徹底すること。そのためには、戦後軍国主義の遺物であると思われていた「命令」の必要も感じた。また生産量など、打ち合わせで終わるのではなく、しっかりと生産計画を作成して、組織的に生産活動を行うことなどである。そして昭和37年10月には、「兵法で経営する」という本まで出した。しかし、その本は、世間から理解されなかった。

 丁度その頃ピーター・F・ドラッカーがたびたび来日して、独特の経営論を展開して日本の経営者をうならせていたが、大橋氏は彼の著書を読み「これは戦争論と共通するものが多い」と気付き、ドラッカー理論をかざして自身の兵法経営論の正当性を主張したのである。

 『ドラッカーの名言に兵書と共通するものが多いからといって、わたくしは決して「ドラッカーの学説は戦争論である」というのではない。真理は一つであり、経営も兵法も「組織の効果的運用」を目指すものである以上、つきつめていけば、その原則が一致するのは当然である。またドラッカーはオーストリア(現在はハンガリー)出身と聞いているが、「戦争論」の著者のクラウゼウィッツ*22)はプロシア(現在のドイツ)人であり、オーストリアもプロシアもかつてナポレオンに惨敗し、その後、苦心惨憺の結果ナポレオンを倒しており、その経験を集めて兵学としたのが「戦争論」なのである。オーストリア人やプロシア人の脳裏には「戦争論」的思考が強く底流している。・・・』

 以下、兵法経営塾にあるドラッカー語録(D)とクラウゼウィッツ(K)のそれを併記する。

「組織の中心的存在は頭脳を用いて仕事をする知識労働者である」:(D)
*軍の戦力は、これを指揮する将軍の精神によってきまる。:(K)

「幹部は生まれながらの才能や地位だけで作られるものではない。また幹部の仕事の能力
と知識とはあまり関係がない」:(D)
*古来、卓越した将師は博学多識な将校(知識があるだけの幹部)の中からは出ていない。:(K)

「決定の場面においては、トップはつねに孤独であり、それに堪えられる人物でなければ
ならない」:(D)
*いかなる名参謀も将師の決断力不足だけは補佐することはできない。:(K)

 『兵法経営塾は「凡人の凡人による凡人のための統率と指導」法を学ぶものである。われわれがいくら努力しても、歴史上の英雄のような名将にはなれないからだ』と大橋氏は言う。加えて『戦後、どっと入ってきたアメリカ流の経営の影響を受けた日本はマーケティング・・・など「科学的経営」を学んだ。しかし、アメリカの経営が元来「異なった言葉と考えを持ち、意思疎通困難で、流動的な異民族の移民を対象とする」ものであり、少数の英才が多数の凡才を駆使するもの、手足だけを働かせることを主とするもので、頭を働かせることを考えるものは少なかった。昭和50年代になると、アメリカ式経営をマスターした日本の経営は、さらに「日本に定住する同一民族を対象とする」ことを基盤とする、より高度なものを目指すことにより、「小集団活動」に見るような、社員の自主積極的な努力を発揮させる「心の経営」にまで発展し、アメリカの企業を圧倒し、経済摩擦まで引き起こすようになった。これは「第三の経営」だと思う。第三の経営の究極的なものは兵法であると思う。兵法は決して「勘の経営」「科学的経営」を否定するものではなく、これらを最も効果的に活躍させるソフトウェアなのである』





*22)カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(独)(1780 -1831)プロイセン王国の軍人で軍事学者である。ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づいています。『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています