「月長石」の感想 2006.5.14 〈再掲〉

※ネタバレありです。

「月長石」(ウィルキー・コリンズ/著 中村能三/訳 東京創元社 1981)を読み終えました。
この長い、たっぷりとした物語を読み終えたかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。

あともうすこしで読み終えるというときに気になったのは、結末の落しどころでした。
なくなった宝石が、もち主のレイチェル嬢のところにもどっても、インド人がねらっているあいだはハッピーエンドにはなりません。
かといって、宝石がインド人の手にわたるのも、最良の結末とは思えませんし、なんだかシャクな話です。
目次には「宝石の発見」というタイトルがあります。
物語の終わりには、宝石はだれかに確実に発見される運命にあるようです。

それで、いったいだれが宝石を発見するのかと思っていたら、インド人たちがあっさり宝石をもっていってしまったのでした。

しかし、考えてみるとこの小説、冒頭はともかく、後半は月長石をとりもどす必要はまるでないのでした。
後半は、レイチェル嬢とフランクリンの恋が成就すればよくて、それにはレイチェル嬢のフランクリンに対する誤解が解けさえすれば、それでよかったのです。
そして、それはエズラ・ジェニングスの実験によって証明されました。

「こんなダイヤモンドはこなければよかったのに」

と、執事のベタレッジがいった月長石は、もうもどらなくてよかったのです。
もう月長石は、インド人のものになってよかったのでした。

これはまったく、うまい結末の落しかただと思います。

インド人が宝石を手に入れても、まだ物語は続きます。
インド人たちの逃走経路を、語り手は律儀に語ってゆきます。
ここはもう、なくったっていいところです。
なくて、探検家がインドで月長石を見つけてジ・エンドとしてかまわない。
にもかかわらず、物語はインド人たちの消息を追っていって、このマメマメしさも気に入っています。
長い物語にはそれなりのていねいな結末が欲しいもので、それをしていると思ったのです。

さて、一歩下がって、小説全体をながめてみることにしましょう。

これはまえから思っていたのですが、(そして以前話したような気がするのですが)、ミステリに回想という手法は、とてもあう気がします。
「薔薇の名前」(ウンベルト・エーコ/著 河島英昭/訳 東京創元社 1990)を読んだときもそう思いましたし、ずっとまえホームズを読んだときにも、つくづくそう思いました。
以下、ちょっと横道にはいって、ホームズ物を例に、回想がどんなに便利かを話してみることにしましょう。

回想がどんなに便利か。その①
ご存知のとおり、ホームズ物はワトソン博士の回想という形式で書かれています。
この回想が便利なのは、話が早いことです。
ホームズのところにくる依頼人たちは、自分たちの身に起こった出来事を、じつに正確に相手につたえることができます。
これは依頼人たちの有能さばかりではなくて、ワトソン博士の手際のよさもあるのではないかと思うのです。
この手際を発揮するのに、回想という手法はとても便利なものでしょう。
おかげで読者は、煩雑な事実関係にわずらわされることなく、ホームズの名推理ぶりを味わうことができるのです。

回想がどんなに便利か。その②
また回想には伝聞がともないます。
読者は現場に案内されることはなく、ただワトソン博士から話を聞いて、その事情を察します。
これが、ワトソン博士がホームズから聞いた話となると、読者-ワトソン-ホームズとなります。
さらにホームズが依頼人から話を聞いて、なおかつその依頼人がだれかと話していたなんてことになると、読者-ワトソン-ホームズ-依頼人-だれか、となって、ほとんど伝言ゲームみたいなことが起こります。

ホームズ物はよく考えるとバカバカしい事件が、妙なリアリティをもって読むひとをとらえますが、その原因はここにあるのではないかと思うのです。
「友達の友達」の話を聞いている気分とでもいえばいいでしょうか(もちろん回想者の手腕が第一ですが)。
バカバカしい話が好きな人間にとって、この伝聞とは、かくも魅力のあるものなのです。

だしぬけですが、ホームズ物にあって、クリスティにないのはここのところ、「バカバカしさ」ではないかと思います。
クリスティの登場人物は、物語とはあんまり関係がないくだらない話をしません。
クリスティは、お勧めの、「謎のクィン氏」(早川文庫 1978)と「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」(早川文庫 1981)くらいしか読んでいないのですが、勝手にこうだと確信している次第です。
ぜんぶ読まなくたって、わかるものはわかる。

回想がどんなに便利か。その③
回想形式では,事件はもう終わっています。
それは語るさい、事件のつじつまがあってもおかしくないという感じをあたえます。
現在形のミステリは、読んでいる最中、「そううまくいくものかなあ」という気がするときがあるものです。
真相は「藪の中」が当然とまではいいませんが、そのほうがより真実味があるような気がするのです。
またもやだしぬけですが、伝聞だけれど回想形式ではない、「隅の老人の事件簿」(バロネス・オルツィ 東京創元社 1982)で、「隅の老人」の語る話が非常にうさんくさいのは、このためのような気がします。

◆回想がどんなに便利か。その④
それから回想形式では、話は思い出して語られるので、しみじみとした風情が漂います。
これは、「赤い館の秘密」(A.A.ミルン 東京創元社 1989)のラスト、犯人からの手紙が好きなKさんには、わかってもらえるでしょう。
また回想形式は、事件に対して余裕が生まれます。
現在形のものにありがちなように、せっぱつまっていない。
これも回想形式の徳のひとつかと思います。

〈続く〉

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