月長石の感想〈承前〉

いつもながら変な理屈を振り回してしまって、申し訳ありません。
ただ、「月長石」は、非常にサスペンスにあふれていて、それには回想形式が効果的に使われているといいたかったのです。
あの長い物語を夢中になって読むことができたのは、じつにこのおかげでした。

もうすこし「月長石」に近づきましょう。
作者のウィルキー・コリンズは、構成だけではなく、登場人物の造形にもすばらしい手腕を発揮しています。
「ロビンソン・クルーソー」教徒のベタレッジ執事、薔薇好きのカッフ部長刑事、偽善者の鏡のようなゴドフリー・エーブルホワイト、隙あらばフランクリンに近づいていってしまう、かわいそうなロザンナ。
そのほか、どの人物をとっても、じつに生き生きと描かれています。

それは単に、読者に対して、登場人物に親しみをもたせるだけではありません。
レイチェル嬢は非常な強情っぱりです。
フランクリンは快活ですが、どこか粗放なところがあります。
月長石をめぐる謎は、この二人を中心に起こり、解かれました。
ここでは、その性格が、綿密な構成を支えています。
性格と構成は幸福に結ばれています。
二人はたがいに二人を思って、事件をややこしくしていたのです。
こういう話を読むことが、喜びでなくてなんでしょうか。

「月長石」は回想のリレーでできていますが、語り手だったひとが別の語り手によって語られるところも、この物語を読む醍醐味といえるでしょう。
友達のことを、べつの友達から聞いたときの楽しさ。
フランクリンによって書かれた文章のなかで、ひさしぶりにベタレッジ執事と再会したときは、じつに嬉しいものでした。

ただ文中、語り手の思い入れが強い相手が出てきたときは、その語り手の語りかたに鼻白む思いがしたことも事実です。
具体的には、フランクリンによって書かれたレイチェル嬢のこと。
「私は彼女を腕の中に抱き、接吻の雨で彼女の顔をおおった」
なんていうところは、読みながら、
――自分でこういうことを書くなよ
と、ツッコミを入れたものでした。

語り手のなかで、ほかのひとたちと毛色がちがうことで深い印象をのこすのが、クラック嬢とエズラ・ジェニングスです。

クラック嬢は、ブラッフ弁護士に「狂信者」呼ばわりされるほどの、熱心な、いささか迷惑なキリスト教徒です。
このクラック嬢の書く文章によって、読者の事件に対する混乱の度合いは深まります。
なにしろこのひとは、レイチェル嬢やブラッフ弁護士がきらいで、ゴドフリー・エーブルホワイトが大好きなのですから。
またクラック嬢は、当人は気づいていないかもしれませんが、とても滑稽味があります。
近くにいたらげんなりするでしょうけれど、見ているぶんにはとても面白い。
作者はこんな人物を、よくつくり、うまく描いたものだと思います。

いっぽうエズラ・ジェニングスには、そんな滑稽味はありません。
かれは痛々しい人物です。
生まれてから辛い目にあいつづけて、物語にあらわれたときは、病気と阿片で苦しんでいます。
物語には、そう明言されていませんが、もしかしたらかれの親はジプシーだったのかもしれないと思いました(ホームズ物にもジプシーは何度か出てきましたね)。

この二人はまるで似ていませんが、ただ物語のなかで二人とも孤独だというところに共通点があります。
おかげで、物語全体をとおして、二人は物語に陰影をつけるという役割をみごとに果たしたといえそうです。
この二人がいなければ、物語はもっと平板なものになっていたことでしょう。

しかし、この傑作である『月長石』にも、文句をつけたいところがあります。
トリックのことです。
宝石がなくなったのは、知らぬまに阿片を飲んで心神喪失となったフランクリンが、自分でも気づかぬうちに、レイチェル嬢の箪笥の引出しから宝石を盗んだからで、これが本編最大の謎の種明かしでした。

しかしこれは、なんだかずるじゃないかと思います。
これがよしとされるなら、作者の都合で勝手に登場人物に阿片を飲ませて、宝石を盗ませることができるでしょう。
誕生会で、キャンディさんとフランクリンのあいだに伏線を張ったことはわかりますが、しかしなんだか卑怯な感じがします。
作者が力をもちすぎているのです。

といっても、この小説はミステリという形式ができるまえのものですから、この文句は的外れかもしれません。
こんなことよりも、ロザンナが流砂に隠した箱から、フランクリンのナイトガウンが出てきたところや、エズラ・ジェニングスとの実験を愉しんだほうがずっと得かとも思います。
実際、ここのところは読んでわくわくしてものでした。

(そして、あんまりわくわくしたので、種明かしのずるさに腹を立てるということにもなるのですが)
(そしてまた、腹を立てること自体も愉しいのですが)

さて、こうして「月長石」は読み終わりました。
つぎはどんな本が読みましょうか。
読んでない本の在庫には、たとえばダシール・ハメットの「デイン家の呪い」(早川書房 1987)や、ドナルド・E・ウェストレイクの「逃げだした秘宝」(早川書房 1998)などがあります。
どちらも宝石がらみの小説です。

しかし、ここはスティーヴンスンの「バラントレーの若殿」(岩波文庫 1996)でいきたいと思います。
この小説は、宝石こそ出てきませんが、名門バラントレー家の執事による回想記という体裁なのです。
執事物なんてジャンルは、あるのかどうか知りませんが、まあその部類に入る一作です。
それに、怪しいインド人も出てきます。
しかも変な術を使うらしいので、これから読むのが楽しみです。
ただ悲劇なので、執事の語りがベタレッジ執事のような愛嬌に乏しいところが、玉に瑕かもしれません。

と、つぎの展望を述べたところで、感想はおしまい。
お疲れ様でした。


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