試行錯誤

「試行錯誤」(アントニイ・バークリー/著 鮎川信夫/訳 東京創元社 1994)

すでに古典となった傑作ミステリ。
名高い作品でも、読んでみたら相性があわなかったということはよくある。
しかし、この作品についてはその心配は杞憂だった。
傑作は、まごうことなく傑作だった。
それがわかり、大変うれしい。

全体はプロローグとエピローグのほか5部に分かれる。
目次から引用しよう。

プロローグ 討論会
第一部 悪漢小説風(ピカレスク)
トッドハンター氏、犠牲者を求む
第二部 安芝居風(トランズポンタイン)
あずまやでの殺人
第三部 推理小説風(ディティクティヴ)
超完全殺人事件
第四部 新聞小説風(ジャーナリスティック)
法廷の場
第五部 怪奇小説風(ゴシック)
土牢
エピローグ

冒頭には《P・G・ウッドハウスに》ということばが掲げられている。
このことばや目次から、このミステリは同時にユーモア小説でもあり、一種のパロディなのだと見当がつく。

主人公はローレンス・トッドハンター氏。
作中ではつねに、《トッドハンター氏》と呼ばれている。
本書は、だいたい3人称トッドハンター氏視点で話が進んでいく。

トッドハンター氏は、雑誌に書評を寄稿するほかはなにもしていないよう。
いわゆる有閑階級のひとり。

さて、ストーリー。
プロローグの、トッドハンター氏が主人役をつとめる友人たちのあつまりにおいて、次のようなことが話題にのぼる。
医者に、2、3か月しか寿命がないといわれた男が善行をおこなおうとした場合、なにをしたらいいか。

友人たちは、ムッソリーニを射殺することだといったり、ヒトラーを殺すことだといったり。
(ちなみに原書の刊行は1937年)
しかし、ヒトラーを抹殺することは、必ずしもヒトラー主義を壊滅させることにはならない。
そこで議論をまとめると、こういう結論に。

《「――人間がなしうる最大の善は、ある種の悪を行なう者の死が、悲惨を幸福にかえるならば、その人物を除去すべきだというのですね」》

ところで、トッドハンター氏は大動脈瘤をわずらっており、余命いくばくもなかった。
友人たちの意見にもとづき、氏は悪を除去することを決意する。

しかし、おあつらえむきの悪人にはなかなか出会えない。
おかげで、トッドハンター氏の心痛は増すばかり。
ところが、ついに格好の相手が。
ことの起こりは、氏が寄稿しているロンドン・レビューに勤めるオギルビーが解雇されていしまったことから。
社主のフェリックスボーン卿が雇ったアメリカ系ユダヤ人、イシドール・フィッシュマンが、年金もやらずにオギルビーをクビにしてしまったのだ。

その後、2、3の調査をし、フィッシュマンが社内を恐怖におとし入れていることを確信したトッドハンター氏は、フィッシュマンの殺害を決意。
銃砲店でピストルを購入する。

が、老嬢じみたトッドハンター氏には、殺人者の素質がまったくない。
ピストルが届けられる一週間ばかりのあいだに、悪を除去する情熱は冷めていくいっぽう。
すると、諸般の事情により、この計画はすっかりおじゃんに。
やれやれ、ひとを殺さなくてすんだとトッドハンター氏は胸をなでおろす。

ところが、そんな氏の前に新たな悪の影が。
ジーン・ノーウッドという女優がそう。
ジーンに迷い、大衆作家であるニコラス・ファロウェーは身をもちくずしている。
お金を湯水のようにそそぎこみ、妻に送金もしない。
ファロウェーには娘が3人いるが、一番上のバイオラの夫ビンセントもジーンに夢中。
バイオラからみれば、父と夫が同じ女をあらそっている。
さらにファロウェーの次女フェリシティは、その才能をジーンにねたまれて劇団を追われてしまった。

慎重なトッドハンター氏は、各関係者から話を聞いていく。
そのさい、ジーンに誘惑されたりする。
結局、ジーンを殺すことが世のためひとのためと決まった。
義務感と良心の板ばさみになりながら、トッドハンター氏はピストルを手にジーンの家へ。

ことがすむと、再び各関係者のもとを訪れ、氏なりに対策をほどこし、またフェリシティが主演する劇には金をだし、これで全てがすんだと氏は船の客となり旅にでる。
が、事件すんでいなかった。
ビンセントがジーン殺しの容疑者として逮捕されたことを東京で知った氏は、ロンドンへとんぼ帰りする――。

ここからが第三部の幕開け。
ロンドンにもどったトッドハンター氏は、犯人はビンセントではなく自分なのだと主張するのだが警察は耳を貸さない。
そこで、氏は友人である犯罪研究家、アンブローズ・チタウィック(「毒入りチョコレート事件」にも登場したと訳注)の助けを借り、自分の犯罪を立証しようとこころみる。

この小説は、すっかりさかさまになった探偵小説だといっていい。
ひとりの男が殺人をおかそうと努力をかさねる。
そして、犯人になりたいがため探偵をやとう。

このあと、自分の犯罪を立証しようとしている最中に出会った王室顧問弁護士アーネスト・プリティボーイ卿に、氏は自分を犯人にしてくれと訴える。
裁判がはじまり、結局トッドハンター氏は喚問されないまま、ビンセントの有罪が評決され、死刑が確定。
すると、有能なアーサー卿はトッドハンター氏を相手どり、殺人に対する民事訴訟を起こす。
この訴訟がすむまでビンセントの処刑は延期されなければいけないと議会にねじこみ、きわどいところで処刑の延期にもちこむ。
こうして、ややこしい法的手続きを乗りこえたのち、後半は白熱の法廷劇に。
それにしても、こんなに有罪になりたがる登場人物もめずらしい。

この、すっかりさかさまになった探偵小説は、結果的にいくところまでいく。
そしてエピローグにいたり、この作品はさかさまになった探偵小説というだけでなく、実際に探偵小説だったということが明かされる。
この手並みには讃嘆を禁じ得ない。

解説で、宮脇昭雄さんも触れているけれど、この大技を決めるのに、ユーモア小説風の文体が大いに効果をあげている。
この作品はユーモア・ミステリでもあり、このこしらえがなければこの構成も、大技も、成り立たせるのは不可能だった。
殺人をするために、トッドハンター氏は探偵小説を読み、ついで犯罪学の本を読んで勉強するのだが、その場面をえがいた文章はこんな風だ。

《――トッドハンター氏はさらに金を使って通俗犯罪小説の本をしこたま買いこみ、その大部分の無学な文体に恐れをなしながらも、熱心に読んで研究した。これらの書物によると、もっとも成功している殺人芸術の専門家たち(つまり、結局は容疑をかけられるどころではすまない大しくじりをやってしまうが、それまでに二度や三度はまんまと完全犯罪の殺人を犯しているといった種類の連中)は、死体を処理するに当たって、火を使う方法を好んでいるようだった。しかし、トッドハンター氏はこの方法を採用するつもりはなかった。できるだけ慈悲深いやり方で殺し、全速力で逃げたいというのが、彼の考えだった。殺したあとの死体には指一本触れたくなかった。したがって、そうした書物を読みながら彼がもっとも注意を集中したのは、何ひとつ手がかりを残さず、すばやく、沈黙のうちに行われた殺人の話だった。》

センテンスが長いので引用も長くなってしまう。
語り手とトッドハンター氏は分離しており、決して一緒にはならない。
その分離しているあいだに、皮肉や批評や分析や評価などが入りこみ、ユーモラスな雰囲気をつくりだしている。
この諧謔に満ちた文体は、ついに作品の最後まで維持され、ミステリとしての構築にひと役買うばかりでなく、作品全体を興趣あふれるものにしている。



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