水彩学

「水彩学」(出口雄大 東京書籍 2007)
副題は「よく学びよく描くために」。

著者は水彩画家。
英文学者出口保夫さんのご子息。

「水彩学」とは著者の造語。
「一介の絵描きが「学」などとは傲慢もはなはだしい」と、あとがきで著者は述べているけれど、そんなことはない。
油絵が主とすると、いつも従の位置に立たされている水彩画を正面にもってくることで、絵画の世界がどんなふうにみえてくるのか。
たとえば、著者はこんなことをいう。

「ゲーテ、ターナー、セザンヌ、カディンスキー、クレー、彼らが水彩描きであったことの意味はきわめて大きいと思うのです」

つまり、抽象画は水彩から生まれたのではないか。
道具がひとの思考や表現の幅を決定するということはよくあることで、水彩は油絵ではみえなかった表現の幅をひろげたのではないか。

「私見では、近代絵画の大きな特質のひとつとは、油彩の水彩化ということではなかったかという気がするのです」

息の長い文章で、できるだけ根本に立ち返って伸びていく著者の思考に立ち会うのは、大変スリリングだ。

本書は3部構成。
序論、歴史編、技法編。

ひとつの「学」を立ち上げるにはすることがたくさんある。
まず定義。
絵というのは要するに、顔料をなにかで溶いて、それをなにかに描いたもの。

この、最初の「なにか」はメディウムと呼ばれるそう。
メディウムはふたつの意味があり、ひとつは技法や材料のこと。
この絵のメディウムはなにかと訊かれたとき、油彩だとか、パステルだとかテンペラだとか答える。

もうひとつは絵の具の「つなぎ」の意味。
顔料を油で練れば油絵の具。
卵で練ればテンペラ。

つぎの「なにか」のほう、紙とかキャンバスとか板とか、絵の具がのせられるほうのことは、専門的には支持体と呼ぶそう。
つまり絵画とは、顔料+メディウム+支持体、という式であらわすことができる。

水彩のメディウムはアラビアゴム。
ここで冗談。

「顔料を油で練った絵の具で描かれた絵を油絵というなら、さしずめ水彩画はアラビアゴム画ということになります。もしくはゴム絵。しかしながら「ゴム絵のみずみずしいタッチ」「やさしいアラビアゴム画入門」ではまったくイメージが狂ってしまいますね…」

序論の第2章は、「絵の学びについて考える」。
著者は、水彩画を教えるひとでもあるから、この問題は切実なのだろう。
しかし、これはややこしい。
西洋画が日本に入ってきて、現地の先生に教えてもらおうと現地にいったら、現地の先生はわけがわからなくなっている最中だったという経緯が、日本の西洋画にはあるから、学ぶさいに必要な評価のモノサシが、社会レベルでわからなくなってしまっているという、とんでもないややこしさがある。

つねに根本までもどって粘り強く考える著者は、ここでも美術教育の祖、フランツ・チゼックまで立ちもどり、それが日本に移入されたさい、どんなねじれが起こったのかを突き止めようとしている。

この章の、ラスト近くのことばは美しい。

「水彩というものを、いまという、近現代なる時代の果てに甦ってきたメディウムであるとするなら、おそらく私たちはそれとともに絵の描き方を思い出している最中なのです」

つぎが歴史編。
ここは3章に分かれている。
「私的美術史」、「明治水彩史」、「英国水彩史」の3つ。

「私的美術史」は、著者の来歴を語ったもの。
これがすこぶる面白い。
この本を読むひとは、ここから読むのも手かと思う。

本物そっくりに描けないことに泣き出した幼稚園のころの思い出から、芸大を志すまで。
芸大の予備校に通うも、そこはゴミ袋をかぶせた石膏像にとり組まされたりするような、じつに不思議な世界。
けっきょく三浪ののち芸大をあきらめる。
レゲエ・バンドでドラムを叩いてその日暮らしをしていたところ、父上からロンドンで下宿の話が。

下宿先は、倫敦漱石記念館。
たまたまそのとなりの地区が、ジャマイカ移民が多く住むブリクストンというところ。
その話に乗り、管理人兼掃除夫という名目で記念館に。

ロンドンでは、レゲエに浸かり、また西欧絵画巡礼の旅と称してイタリア、スペイン、フランスなどの主要美術館をまわる。
そこで思ったのが、「やっぱり絵はいい。絵が好きだ」。
ノートパッドを買ってきて、水彩で色を塗ってみる。

「なにを描くわけでもなくただ色を塗ることがこうも喜ばしいものかと思いました」

…このあたり、読んでいて落涙を禁じえない。
ストレートで芸大に入っていたら、この本も書かれることはなかったろう。

最後は「技法編」。
教えているのは、写実水彩。
ここからこの本を読んで、著者のものの考えかたになれていくのもありかも。

まず、絵の具や紙といった画材の説明から。
実体験をまじえて懇切丁寧に書かれている。
つぎに、「基本技法」がきて、そのつぎは色彩の原理を語った「基本原理」。
で、つぎは「デッサン」。

とまあ、なかなか水彩画を描くにいたらない。

「筆者の考え方は、なにかひとつのものを十全に描けるのであれば(そこに原理の理解が伴っているのであれば)なんでも描けるというものです」

「松の木の描き方はこうで、バラの花はこうで、透明なガラスのコップはこう描きましょう、という「型」ではなく、写実の原理に沿って、じっさいの観察に基づきなんとか工夫を重ねていくほど大切なことはないのです」

とにかく基礎をつくる、というのが著者の方針。
技法編は、この著者のことばに見あった教えかたといえるだろう。
それだけでなく、このことばは、この本を全体をつらぬいている原理のように思える。

本書は図版も多数。
ただ、図版が小さいのが難。
でも、この本の性格からいって、大きい版にはしにいくだろうから仕方のないところか。

「鮭」の絵で有名な、高橋由一の子猫を描いた水彩画にはびっくりした。
脂っこい「鮭」とちがい、水彩で描かれた子猫はふわふわしている。
こんな絵も描けたんだと思った。


さて、以下は余談。
手元に、「これ1冊で、ミネラルと野菜とお肉と、モスのことにうんとくわしくなれる本」、という冊子がある。
モスバーガーが配っていたパンフレット。
いまみたら1997年につくったよう。

薄っぺらい本が好きなのと、この本のつくりがきれいなので、ずっと手元にもっていたのだけれど、このパンフレットの絵を描いたのが、出口雄大さん。
今回、「水彩学」の著者略歴を読み、あれを描いたのはこのひとかあとはじめてわかった。
10年越しでつながった感じがして、嬉しかった。

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