さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ソウル その9

2010年09月10日 | 海外旅行
8月15日は、韓国では光復節と呼ばれる独立記念日です。また、今年は日韓併合100年目にあたります。その記念事業でもあるのか、光化門の落成式もこの日に行われました。以前は、反日感情によるトラブルを避けるため、この日は注意が必要だったようですが、最近はそうでも無くなっているようなので、夜の光化門見学に出かけました。

まずは、ロッテホテルの隣にある新羅ホテルの前庭にある圜丘壇を訪れました。

圜丘壇は、皇帝が天を祀る祭祀を行う場所です。同じ施設としては、北京の天壇が有名です。この祭祀は皇帝しか行えず、清朝の冊封体制下にあった李氏朝鮮では行うことはできませんでした。日清戦争によって清朝の冊封体制から離れて大韓帝国が始まり、その初代皇帝になった高宗は、1897年にこの圜丘壇を造成し、祭祀を執り行いました。

この大韓帝国は、日韓併合により、1897年から1910年までの短い期間で終わってしまいます。



光化門に通じる世宗路は、車の進入禁止になって、歩行者専用になっていました。



世宗路には、文禄・慶長の役時の朝鮮の将軍で、水軍を率いて日本と戦った李舜臣の像が置かれています。



景福宮の宮殿を守るように立ちつくしています。



李舜臣は、文禄の役の初戦で壊滅状態になった朝鮮水軍を立て直し、日本軍の戦略も海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術変更を余儀なくさせます。

これまでの功績を認められて朝鮮南部の水軍を統率する司令官になりますが、休戦期に入ったところで、加藤清正の朝鮮上陸の情報に対し攻撃を命じられますが、謀略と考えて出兵しなかったことから、一時は死罪を宣言されるような罪に問われます。

慶長の役がはじまると、後任の水軍司令官が戦死したことによって、李舜臣は再び司令官に復帰します。明の援軍とともに日本軍と戦います。

豊臣秀吉の死とともに日本軍は撤退しますが、退却を助けるために出動した島津軍と戦った際に銃撃を受けて戦死します。



像の下には、 有名な亀甲船も飾られています。実際の形ははっきりしないようで、この模型もかなり想像が入りこんでいるようです。



碑の脇には、亀甲船の大軍団が描かれています。



続いて世宗の像。

ハングルを創ったことでも知られ、李氏朝鮮の歴代君主中もっとも優れた君主とされます。



世宗の像の前には、雨量計も置かれていました。世宗の代に、世界ではじめて雨量計が発明されたとのことです。



光化門がようやく近付いてきました。

光化門は、1394年に、景福宮の正門として建設されましたが、文禄の役の際に焼失してしまい、19世紀に再建されます。日韓併合後、朝鮮総督府を建築するため光化門の取り壊しが検討されますが、白樺派の柳宗悦らの働きかけで保存されることになります。朝鮮戦争の際に、再び焼失。1972年、朴大統領の時に、鉄筋コンクリート製で再建されます。

2006年に始まった復元工事では、朝鮮総督府建築の際に移設された位置から本来の位置に戻すことと、朴大統領の揮毫によるハングル文字の扁額から、李王朝の英祖王の筆跡から漢字の扁額を作って付け替えることが、主な変更点になりました。



以前の写真です。道路が左に曲がった先に門の中心がありました。



扁額を拡大してみると、確かにハングルで書かれています。最初に建築された時代を考えれば、漢字が相応しいですね。



光化門の前では、祝典コンサートが続いていました。



時間も遅くなって立ち去る人も出てきており、前の方に進むことができました。



ロックと伝統音楽が合わさったようなグループが演奏を行っていました。

韓国では、李氏朝鮮に対しあまり良い感情を持っていなかったようですたが、テレビドラマや王宮の再整備によって、印象も変わってきているようです。
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