MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

食べられた美少女 “Jane”

2013-05-10 22:14:59 | 歴史

日本では徳川幕府が開かれて間もない1609年、
イギリスから新大陸に渡った初期の入植者たちは
厳しい飢饉という苛酷な運命にさらされていた。
人々は生き延びるために人肉を食べることも厭わなかった。
その事実を裏付ける発見についての記事である。

5月1日付 Washington Post 電子版

Skeleton of teenage girl confirms cannibalism at Jamestown colony  10代の少女の遺骨から植民地 Jamestown (ジェームズタウン)における人肉食(cannibalism、カニバリズム)が裏付けられる

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復元された Jane(ジェーン):研究者らは、人肉食の犠牲者となっていた可能性がある Jamestown 植民地の 14 才の少女の遺骨から復元像を作成した。

By David Brown,
 前額部への最初の数撃は骨を越えておらず、おそらくそれはこの作業に対して躊躇したしるしであろう。身体が転がされたあとの次の一撃はそれより効果的だった。それによって、頭蓋底に至るまで頭蓋骨が割られていたのである。

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 「その人物は忠実にその状況を解明してくれているのです」と、Smithsonian Institution (スミソニアン学術協会)の形質人類学者 Douglas Owsley 氏は言う。
 この14才の少女は食べられてしまったのである。バージニア州 Jamestown で考古学者によって彼女の骨が発見された後、彼女は復元された。彼女の遺体は“飢饉”の時期に死亡したことを示しており、人肉食の証拠となる徴候が明らかになった。
 一方、恐らくより経験豊富な誰かは足の方に取り掛かっていた。牛を解体するときに行われるように脛骨が一撃で折られていた。
 これは1609年から1610年にかけての冬に Jamestown で起こった可能性のある出来事の経緯である。確かなのは、絶望的になった植民団の何人かが生き残るために人肉食の手段に訴えたことである。
 人肉食が植民団の“飢饉”の間に起こったことはまず疑いはない。その時期を生き残った人や、生き残った入植者と話をした人たちによる少なくとも6編の記述が、その冬にあった人肉食という非常的行為を記録している。その記録には、掘り起こされ食べられた死体、自分の妻を殺害しその遺体を塩漬けにした夫(そのために彼は処刑された)、狩猟生活をしている入植者の謎めいた失踪、などといった話が含まれている。
 その立証は14才くらいと見られる少女の遺骨片の形でもたらされた。その遺骨は、その飢えた入植者たちが避難していた James River の川沿いに存在した砦の中の残骸であふれた穴蔵で見つかった。頭蓋骨、下顎骨、および下肢の骨が残されたものすべてだったが、そこには斧あるいは大きな包丁、およびナイフが使われたことの証拠となる痕跡があった。
 「歴史学者はこのようなことが実際に起こっていたのかどうかを解決しなければなりません」と Owsley 氏は言う。彼は数千の白骨化した遺体を考古学的かつ法医学的に調べてきた。「私は起こっていたと思います。誰かによってその肉が実際に食べられたかどうかまではわかりません。しかし、非常に大きな証拠です」
 Colonial Williamsburg Foundation(コロニアル・ウィリアムズバーグ財団)の研究責任者で、この植民団の歴史学者である James Horn 氏は、この発見は「Jamestown で起こったと伝えられていることに対して重要な立証をもたらすものです」という。Jamestown と同様に、他の地区でもそういった行為の記述は存在しているが、今回の発見は、すべてのアメリカ大陸の入植地の中でも唯一の、ヨーロッパ人による人肉食の物的証拠となるものである。
 「私は“unique(他に類を見ない)”などといった単語をむやみに使用したくありません。しかし、これは文字通りそんな発見の一つだと思います」と Horn 氏は言う。
 1609年11月、約300人がこの砦に住んでいた。しかし翌春にはわずか60人となっていた。おそらくは女召使、あるいは入植者の娘だったと思われるこの少女はその犠牲者の一人だった。
 彼女の遺骨は、1994年に始まった Jamestown Rediscovery archaeological project(ジェームズタウン再発見考古学的事業)の一環として昨年8月に発掘された。まだ約18インチの盛り土がその穴蔵に残っているので、彼女の遺骨がさらに発見される可能性がある。しかし、彼女の頭蓋骨は揃っていたため、CTスキャンや、コンピューターグラフィック、彫刻材料、および人口統計データを用いて、彼女がどんな容姿をしていたかを想像することができた。
 その遺骨、彼女の頭部の復元物、およびこられの情報は Smithsonian's National Museum of Natural History でのイベントで5月1日に発表された。それらは今週末から Jamestown 砦遺跡発掘現場にある博物館 the Archaearium で展示されることになっている。その部屋の入り口にある警告掲示には、人間の遺体が展示されていると書かれてある。しかし、遺体が食肉処理され、調理され、食べられたとの記述はない。
 問題の飢饉はこの植民地を絶滅に近い状態に陥らせたが、同地は、ほぼ1607年の創設期から Powhatan Indians(インディアンのパウハタン族)による襲撃や食物不足にさらされる中、内紛による分裂もあった。
 9隻の補給船団が1609年6月2日にイギリス、プリマスを出港した。乗組員を含め500人が乗船しており、おそらくそのうちの30数名が女性や少女だった。この船団は1609年7月23日にハリケーンに襲われた。1隻は沈没。旗艦の Sea Venture 号はバミューダに難破する。乗客と乗員の大部分は島に逃れたが、このできごとが William Shakespeare の“The Tempest”の話の核となっている。植民地の次期副総督 Thomas Gates はこの生存者の一人である。(島に残された人たちは難破船の残骸から2艘のボートを作り、翌年5月に奇跡的に Jamestown にたどり着いた)
 残りの7隻の船は損傷を受けちりぢりとなりながらも航行を続けた。6隻は8月中旬にたどりついたが、研究者たちにより“Jane”と名付けられたこの少女がそのうちの1隻に乗っていたのはほぼ間違いない。7隻目の船は10月に到着した。
 およそ300人のこの新たな到着者は植民地において安心が得られた一方で浪費の元となってゆく。
 船の乗組員たちは食糧を貯めこんだ。一方、夏のトウモロコシの収穫は年間約50人分を供給するに足りるほどだった。この植民地の軍指導者 John Smith 大尉は、入植者の2つのグループを、それぞれ自力で生き延びることができるよう上流と下流に分散させた。しかし彼は暗殺の企てと思われることで重傷を負い、船で本国に帰国した。そのころには人々は既に飢えていた。
 その少女の骨は馬や犬やリスの骨と混じった状態で発見された。これらは入植者たちがその冬に向けて考えた究極の食糧源となっていた証である。それらは、砦全体の片付けの際に収集され、来たる6月の 植民地の総督 Lord De la Warr 氏の到着前に穴蔵に捨てられたゴミの一部だった。
 彼女の死の原因はわかっていない。頭蓋骨の前側のためらい傷や後ろ側の深い傷はすべて近い位置に存在していたが、これはそれらが加えられたとき彼女が身もだえすることなく死亡していたことの証拠となっている。側頭骨は脳に到達するためにこじ開けられていた。顎には数十ヶ所の傷があり、これは筋肉がそこから剥ぎ取られたことを示している。
 そのような跡が動物によって残された可能性があるのだろうか?
 「絶対にあり得ません」と Owsley 氏は言う。「私はいつもこの問題に取り組んでいます。その可能性はありません」事実、彼はその解体者あるいは解体者たちが右利きだったと自信を持って言うことができる。
 骨の化学的解析では豊富な“窒素プロファイル”が明らかにされているが、これは彼女の食餌に多くのたんぱく質が含まれていた証拠である。これはつまり、彼女が高貴な家族の一員であり、少なくとも彼女の生涯の多くをそのような家庭で生活していたことを示唆する。
 彼女は Jamestown に一人で行っていたわけではないだろう。彼女と一緒にいた人物が誰であれ、おそらく飢餓のために彼女自身が食糧となった時までには死亡していただろう。「彼女の死の前であれ後であれ、もし彼女を守ってくれる家族がいたなら、おそらくこんなことにはなっていなかったでしょう」と Horn 氏は言う。
 彼女が誰だったのかを知ることは困難である。その航海の完全な乗客リストが存在しないからだ。プリマスの Virginia Company のスポンサーに対して調査を行えば、1595年または1596年に生まれた少女を連れてアメリカに渡った家族が判明するかもしれない。今回の骨片には抽出可能なDNAが存在する可能性があるが、現時点ではそれと対比する子孫が存在しない。
 Owsley 氏と彼の共同制作者がその少女に与えた容姿もまた、ある程度、推測作業となっている。
 彼らは Jane の顔の組織の厚さを決定するために、イギリス南部の同年代の少女たちのそれを用いた。彼らは彼女に多数派の髪の毛(明るい茶色)を与えることにし、他の緯度や地域に多い赤毛やブロンドにはしなかった。さらに彼らは、死の前には彼女が間違いなくそうだったと思われるような、やせ衰えてやつれ果てた姿にはしなかった。
 「とはいえ、彼女が健康で肉付きの良いティーネイジャーのように見えるようにもしませんでした」と Owsley 氏は言う。「私は彼女を、当時の彼女の状況下に置いています」
 彼女の顔の汚れや何かに憑りつかれたような眼差しがそれである。が、しかし、哀しいかな彼女の名前はそうなっていない。

1609年の冬、
どうやらこの14歳の少女は食べられたようである(脳まで?)。
バージニア州にある Jamestown はイギリス人による
最初の永続的植民地である。
ロンドンにある Virginia Company という会社によって
植民が進められた。
1609年の冬は記録的な寒波に襲われ、
その翌年にかけてひどい飢饉に陥った。
Jamestown は修羅場となる。
人々は生き残るためにネズミ、ヘビ、馬の生皮まで
食べられるものなら何でも食べた。
その時、人肉食(カンニバル)も行われたようである。
今回の解析で人肉食の伝説が証明されたことになる。
入植者たちはその後も様々な疾病に倒れ、
またインディアンとの血で血を洗うような戦争も繰り返され、
1607から移住した計14,000人のうち
1624 年時点で生き残っていたのはわずかに 1,132人だったという。
当時のアメリカ西海岸の生活環境がいかに厳しいものであったかが
うかがわれる。
現代のアメリカの繁栄は、
このような苛酷な時代を乗り越えてきた
ヨーロッパ移民の壮絶な生きざまによって
成り立っていると言えそうだ。

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