今年も残すところあとわずかとなった。
多額(約4億円)の所得申告漏れで
気勢を削がれた感のある
あの茂木健一郎氏の脳と心の考察や、
相変わらずの演技力で今ひとつの視聴率に
終わったキムタクの『MR. BRAIN』など、
最新の脳機能研究が脚光を浴びている。
生きている脳の働きを捉えるには
生体における様々な脳のイメージングが必要である。
しかし、それに劣らず重要なのは、
いまだに未知の領域の多い
脳解剖の基本的構造を明らかにすることだ。
今米国では、脳の構造研究に向けて
従来の型を打ち破るような画期的なプロジェクトが
進められている。
Building a Search Engine of the Brain, Slice by Slice スライスごとに脳の検索エンジンを構築する
脳の裁断:ゼラチンの鋳型の中に認められる Henry Molaison の脳を用いたプロジェクトは、いかなる人にも役立つ初めての完全な再構成された全脳アトラスを作ることを目的にしている
San Diego ― 12月初旬のどんよりした水曜日の午後、科学者たちは 7 リットルほどの容積の凍らせたヨーグルトの箱のように見えるものの周りに集まった。上部からはドライアイスの煙が渦を巻いて立ち上っていた。可動式の台に固定された立方体の容器が、その表面に平行に取り付けられたスチール製の刃の方に近づくと、みな一様に息をひそめた。刃が上層の部分を削ぎとると、プロシュート(イタリアの生ハム)のように、スローモーションで巻き上げられてゆく。
「もうすぐだ」と、誰かが言った。
次から次へと新たな層が削りとられてゆく。そしていよいよである:最初はピンク色の点、次に染み、そしてクリーム色のカーペットにこぼしたロゼのようにスライスごとに大きくなってゆく。それは人間の脳である。ただし普通の脳ではない。多くの記憶の研究に協力し、昨年82才で死去した記憶喪失者で世界中に H.M. として知られた Henry Molaison の脳である。(Molaison 氏は肉親と協議の上、数年前に自身の脳を提供することに同意していた)
「みんながこれほどまでにドキドキしている理由はお分かりでしょう」University of California San Diego 校(UCSD)の放射線医学准教授 Jacopo Annese 氏はそう言いながら、そっと画家の絵筆で薄片を取り出し、それをラベルされた生理食塩水のトレイの中に置いた。「世界が私の肩越しに注目しているように感じます」
事実その通りだった:生中継の Webcast を通してこの手技を見るために数千人がログオンしていた。この解剖は、一つには H.M. の非凡な人生の、そしてまさにこの瞬間のための一年以上に及ぶ準備の終着点となるものだが、これは Molaison 氏の人生の最後の5年間を彼とともに仕事をした Massachusetts Institute of Technology で記憶の研究を行っている Suzanne Corkin 氏によって計画された。
しかしそれはもっと大きな何かの始まりでもあったと Annese 博士や多くの他の科学者たちは考えている。「脳イメージングの出現によってたいへん多くのことが明らかになりました」と、カナダ McMaster University, Michael G DeGroote School of Medicine の神経科学者で、Albert Einstein の脳など125人の脳のバンクを管理している Sandra Witelson 氏は言う。「しかし、興奮のあまり人々は脳の解剖学的研究が依然どれほど重要であるかを忘れてしまっていると思います。これは、この分野における関心を実際に復活せんとする一つのプロジェクトなのです」
多くの提供脳を受け入れるように企画された Brain Observatory と呼ばれるこのカリフォルニア大学プロジェクトは過去と未来の橋渡しをめざす取り組みである。
脳の解剖は数世紀をさかのぼる手技であり、言語処理や視覚などの機能がどこに集積しているかを科学者たちが理解したり、異なる集団で灰白質、白質および細胞密度を比較したり、あるいはアルツハイマー病や脳卒中などの疾患で受けた損傷を理解したりするのに役立ってきた。
しかし脳を裁断する単一の基準はない。ある研究者は頭頂部から下の方へ向って、鼻と耳を通る平面に平行にスライスする。またあるものは脳をいくつかの塊に切り、関心領域を切り進める。今のところ完全な方法はなく、いかなる切断方法を用いても、脳の異なる領域間の細胞を連絡し思考したり感じる心を何らかの形で創り出す神経回路を再構成することを、、全く不可能にするとまではいかないものの、困難にしてしまう可能性がある。
可能な限り完全な像を作成するために、Annese 博士は紙のような、それぞれが70ミクロンのきわめて薄いスライスを、おおよそ前額面に平行に前から後ろに動かして切り出した。そのような脳の裁断法の開発者として有名なのは Paul Ivan Yakovlev 博士である。彼は現在、ワシントンのある施設に保存されている数百の脳からのスライスを収集している。
しかし Annese 博士には Yakovlev 博士にはなかったものを持っている。それぞれのスライスを追跡し、デジタル処理で再現する高度なコンピューター技術である。脳全体で約2,500スライスが作られ、微視的な詳細が加えられると、それぞれの脳標本における情報量は約1テラバイトのコンピューター容量を一杯にするほどである。UCSDのコンピューターは現在、Molaison の脳についてそういった情報要素を組み合わせているところである。これによって、Annese 医師が “Google Earthlike サーチエンジン” と呼ぶところの、ログオンしたい人誰にも役に立つ、完璧に再構成された初の全脳アトラスを作ろうとしている。
「我々は一細胞レベルに至るまでの解像度を得ようとしています。これは今まではどこででも手に入れられるようなものではありませんでした」と、University of Southern California、Brain Architecture Center の客員研究員である Donna Simmons 氏は言う。「全脳を薄く切ることで、我々がこれからも学ばなければならないことの多い細胞間の連絡や神経回路を研究するための良い機会が与えられることになります」
世界には約50の脳バンクがあると専門家は推定している。その多くは神経疾患や精神疾患を持った患者からの臓器であるが、異常のない人たちから提供され集められたものもある。「理論的には、この技術を持つ人は誰でも、所有する標本を用いて同じことができるはずです」と、Corkin 博士は言う。
しかし技術的な問題は小さくはない。薄切用に脳を準備するために Annese 博士は最初にホルムアルデヒドと蔗糖の溶液の中で冷凍させ、摂氏約マイナス40度とする。H.M. のケースでの凍結は4時間以上かけて行われた。一度に2、3度ずつ下げてゆくのである。他の多くのものと同じように、凍らせると脳は一層もろくなる。割れてしまう可能性もある。
Molaison 氏は、両側の大脳半球の深部から弾丸サイズの組織塊を摘出した手術の後、新しい記憶を形づくる能力を失っており、他の標本よりさらに壊れやすくなっていた。
「ひびでも入ったら最悪でした」と、Annese 博士は言う。幸いそれは起こらなかった。
南極で用いられる器具を考案したUCSDの機械技師 David Malmberg の力を借りて、この研究室は、浮遊する脳をきっちりと適正な温度に維持するための金属性の環を作製した。2、3度温度が低いだけで刃は切れ味が悪くなり波打ってしまう。逆に温度が高すぎると、刃は組織の中に深く入ってしまう。Malmberg 氏は環を通じてエタノールを送り込むことによって温度をマイナス40度に安定させた。彼はサーフボードの鎖を用いてホースをつるし、薄切を行う数日前に回収した。
スライス・保存という53時間近くかかる過程が終わると、Annese 博士の研究室はガラスのスライドにそれぞれの切片を載せるという、さらに同じくらい骨の折れる作業にとりかかる。その後研究室では一定の時間ごとにスライドを染色し、これによって再構成が行われた組織の構造が明らかにされる。今後は研究用にこういったスライドを提供しようという計画だ。外部の研究者たちはサンプルを要請し、染色に独自の方法を用い、個別に高い関心領域の構成を解析することができるようになる。
「私が行っている研究では、脳の異なる領域でどの遺伝子が選択的に発現しているかを見ているのですが、これはとてつもない情報資源となるでしょう」と Simmons 博士は言う。
もしすべてが計画通りにゆき、Brain Observatory が正常あるいは異常な脳の様々な集積の目録を作成し、そして、他の研究所が同様の技術をそれぞれの標本に応用したならば、脳科学者たちが何世代にもわたって夢中にさせられてしまうようなデータを手に入れることになるだろう。Witelson 博士は自身の研究において、男性脳と女性脳の間の興味深い解剖学的な違いを見つけた。また、アインシュタインの脳において、空間認知の中枢である頭頂葉が平均より15%大きいことを発見した。
「この種のさらに多くのデータにより、あらゆるジャンルの比較を行うことができるでしょう。例えば、数学に優れた人の脳を、それほど得意でない人の脳と比較することなどです」と、Witelson 博士は言う。
「たとえば、アイスホッケー選手の Wayne Gretzky を例に挙げることができます。彼は、アイスホッケーのパックがどこにあるかというだけでなく、それがどこに向かおうとしているかを知ることができました。彼は明らかに4次元空間と時間を理解していたのです。彼が何か特別な解剖学的様相を呈するかどうかを見てみるのもいいでしょう」(ただし、まだ当分の間、Gretzky 氏は自分の脳をご使用の予定だ)
そこでまずは、20世紀の半ば、研究に協力することで記憶の近代の研究の火蓋を切らせた男、Molaison 氏が21世紀の新時代を始動させるのに一役買うことになるかもしれない。それも、Annese 博士と彼の研究チームが、集めたスライスの仕分けを終え次第となりそうだ。
「こうして話すだけでも興奮を覚える研究です」と、Annese 博士は言う。「しかし、この研究が進められてゆくのを見ることは草が生えてゆくのを見ていると同じようなものなのです」
記事中に登場する Molaison(H.M.)氏の
波乱に富んだ生涯については、
拙ブログの2008/12/8のエントリー『通過してゆく自分』
をご参照いただきたい。
死後も自ら提供した脳によって
さらに研究の進歩に貢献し続けることができるとは
なんど素晴らしいことだろうか。
さまざまな最新技術や生理学的実験によって捉えられた
神経細胞や神経回路の機能についての仮説も
確かな解剖学的裏づけが成されてこそ
初めてその確証が得られると言えるだろう。
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