筋委縮性側索硬化症は原因不明の不治の病であり
鉄人と呼ばれたアメリカ大リーガーのルー・ゲーリッグが
この疾患で死去したことから、
『ルー・ゲーリッグ病』と呼ばれた。
しかしこのたび、
ルー・ゲーリッグが実は『ルー・ゲーリッグ病』
ではなかった可能性が研究で示された。
今回も長文だが、要点だけでも掴んでいただけたら幸いである。
Study Says Brain Trauma Can Mimic A.L.S. 脳損傷はALSに似た症状を起こし得る、と研究が示す
1934年の非公式戦、Norfolk Tars の Ray White 投手からの速球を頭部に受け支えてもらいながら退場するヤンキースの Lou Gehrig。ボールは Gehrig の右目上に当たり、彼は気を失った。
By Alan Schwarz
ヤンキースのスラッガー Lou Gehrig が、やがて彼の名前をつけられることになる病気で死にゆく運命にあるにもかかわらず、自分自身を “地球上で最も幸せな男である” と述べてから71年間、彼は、尋常でない不可解な運命によって倒れた、スポーツ選手の豪胆さを持った米国の第一級の象徴とされてきた。
1936年のLou Gehrig
しかし、神経病理学の一流誌に18日に掲載されることになっている査読済み論文で、Lou Gehrig 病としてよく知られているamyotrophic lateral sclerosis(ALS:筋委縮性側索硬化症)と診断された Gehrig のようなスポーツ選手や兵士の死は、今ようやく明らかになってきたのだが、損傷(脳震盪やその他の脳外傷)によって引き起されている可能性があることが示された。
この論文は具体的に Gehrig について論じたものではないが、インタビューの中で著者らは明確な含みがあることを認めている:すなわちLou Gehrig が Lou Gehrig 病ではなかった可能性があることを。
ナショナル・プロフットボール・リーグ(NFL)の死亡した選手の脳損傷を中心に研究しているBoston University School of Medicine と、マサチューセッツ州 Bedford にある Veterans Affair Medical Center の医師らは、やはりALSと診断された二人の選手とボクサー一人の脊髄の所見から彼らがALSではなかったことを示唆している。彼らには震盪様の外傷に引き起こされた別の致死的疾患があったが、それらはALSと同じ様に中枢神経系を障害するものであると、医師らは語っている。
こうした所見は、一般人に比べかなり高い率でALSと診断された運動選手や退役軍人の運動機能障害の研究に対して方針転換を促し得るものだと、この論文の初期のバージョンを見てきたALSの専門家たちは言う。重大な脳外傷の既往がある患者は将来様々なタイプの治療が考慮され、恐らくそれが治癒へ向けての新たな道につながることだろう。
「ALSの患者のほとんどは解剖に回されません。脳や脊髄を調べる必要がないからです」と、ミネソタ州 Rochester、Mayo Clinic の神経学准教授 Brian Crum 医師は言う。「しかし、ALSに類似した疾患、Alzheimer 病に類似した疾患があり、実際に組織を見ることで否定されます。このことには注意が払われる必要があります」
Gehrig に対する所見の妥当性はあまり明らかとはいえない。しかし、ヤンキース伝説には球場での重大な外傷について明確な記録として残された歴史があり、恐らく高校時代やコロンビア大学でフットボールチームの破壊槌となるハーフバックとして受けた外傷もある。そういったことから、脳震盪のような外傷を受けながらも誰もが知っているプレーに対するGehrig の執着(14年間にわたり2,130試合連続出場という伝説的記録を打ち立てた)が彼の疾患につながっていった可能性がある。
「彼の病気の代表として彼が存在しています。しかし、彼はその選手としての経験の結果として異なる疾患であった可能性があるのです」、この研究の中心的な神経病理学者で New England Veterans Administration Medical Centers の神経病理研究所の所長であるAnn McKee 医師は言う。
この論文に Gehrig の名前は登場しない:彼のケースと類似した新たな不確定な周辺症例の説明にインタビューの中で取り上げられただけである、と Boston University の Center for the Study of Traumatic Encephalopathy の共同所長として McKee 医師と研究している Robert Stern 医師は言う。彼の遺体は火葬され、今はニューヨーク州 Valhalla の Kensico Cemetery に埋葬されていることから病気の原因が明らかにされることはないだろう。
さらに重要なこととして、今回の所見はALS様の運動疾患と、激突するスポーツや戦闘で経験される頭部外傷との間に長く疑われてきた関係をさらに固めるものとなっている、と両医師は言う。
「実際には別の運動ニューロン疾患を持っていても存命中は臨床的にALS と誤診されています」と、Stern 医師は言う。さらに、「どういう人がリスクが高いのか、あるいはリスクが低いのか、について多くがわかってくると、科学者は概してこの疾患のより早期での診断ができるようになり、それによって有効な治療にたどりつくことができるようになるでしょう」と言う。
米国ALS 協会によれば、現在米国では約30,000人が不治の疾患であるALSに罹っているが、これは40才~70才の男性に多く見られ、すべての随意筋に急速で進行性の萎縮を来たす。Gehrig 氏は有名人として初めてとなる患者で1939年の診断後2年で死亡した。その他にも何人かいるが、英国の自然科学者 Stephen Hawking 氏は現在68才、萎縮した身体ながら脳は完全な機能を保持し十年以上生存している。
今回の新たな発見はALSに取り組んでいる組織にとっては効果と逆効果を併せ持つ:それは見込まれる原因や研究の筋道への手がかりともなるが、Gehrig がALSではなかった可能性も示唆されてしまう。
「それはきわめて興味深いことです。それによりさらに面白い図式が描かれますが、この疾患がどのようにして進展するのかに関してこのことが意味することにはさらなる研究を要します」とALS 協会の主任研究員 Lucie Bruijn 医師は言う。Bruijn 医師はGehrig を“重要な資金集めのツールである”と述べているが、これはParkinson 病と同疾患にかかっている俳優 Michael J Fox の図式と類似している。
「これが実際にどんな種類の病気であるかを人々に理解してもらうのに重要なのは名前と顔なのです」と彼女は言う。「それによって病気がより身近なものと感じられるのです」NFL におけるALS
アメリカン・プロ・フットボールとALSの関係は、NFLの引退者に見られる認知症や他の認知機能低下をひき起こすグラウンド上の脳損傷についての最近の発見に続くものである。McKee 医師らのグループは1960年以降ALSの診断がつけられた元NFLの選手を14人確認しているが、これは同年齢の米国男性から予測される数の約8倍であった。
しかし、ALS類似の症例数の増加を見ることによって、脳損傷の認知能への影響と同レベルで一般国民の不安を煽るべきではない。そのことは何百人もの元プロ選手やおそらく多くの若者のスポーツに関わる何千人もの少年少女に影響を及ぼすと、この医師らは警告する。
最近の疫学的研究では、スポーツにおける脳損傷はALSのリスクファクターとなりうることが示唆されている。例えば、2005年の論文ではイタリアのプロ・サッカー選手は通常の6倍の頻度でこの疾患にかかっていたことを発見した。米国の軍隊への従事とALSの高リスクとを関連付けた研究もある。それは恐らく戦場での爆発や爆風による損傷によるものだろう。
Journal of Neuropathology & Experimental Neurology のウェブサイトに水曜日に掲載される予定の今回の研究では、脳損傷が運動ニューロン変性をひき起すこと、そしてその結果(少なくとも研究の対象となった3人の男性で)生じた疾患は実際にはALSでなかったことの初めての確固たる病理学的所見が示されている。それは異なる特徴、すなわち神経機能を障害する脊髄中の二つのたんぱくの特異的なパターンが見られる別の疾患である。
McKee 医師は既に、認知障害と最終的な認知症に至る脳の進行性疾患、すなわち慢性外傷性脳症をきたし死去したNFLの12人の引退者を発見している。それらの男性のうちの2名、1970年代に Minnesota Vikings で長い間ラインバッカーを務めた Wally Hilgenberg 氏と1982年 San Francisco 49 ers のラインバッカーとしてわずかに3試合競技した Eric Scoggins 氏は主治医によってALSと診断されていた。
McKee 医師が、ALS 様症状を呈していた元ボクサーとともに、彼らの脊髄組織を検査すると、運動ニューロン変性を招くことが知られている2つのたんぱく、tau(タウ)とTDP-43が劇的に高値であることを発見した。脳への衝撃の結果、それらは脊髄中に出現するが、それは脊髄自体の直接的損傷ではなく、恐らくそれらのたんぱくが脊髄まで下降してきているのだろうと彼女は言う。
McKee 医師は重大な脳損傷の既往のないALS患者ではそのようなたんぱくパターンをこれまで認めたことがなかったため、彼女のチームは、この3人の運動選手はALSではなく、同じように患者の神経系を変性させる何らかの別の疾患であると確信した。ALSの症状を示した3人の男性すべてにおいて特徴的パターンを発見したことは McKee 氏の結論を下すのに十分すぎる病理学的証拠となっていると同氏はつけ加えて言う。1939 年7月、ヤンキー・スタジアムの祝福の会での Lou Gehrig
「もしこのモデルを実験マウスで作ることができるなら、マウスでは容易に遺伝子組み換えができ繁殖も早いので、この疾患の病因について知ることができ、その結果治療を行うことが可能になるでしょう」と、McKee 医師は言う。専門家の間でのコンセンサスは、脳損傷がこのような疾患の原因となっているのはほぼ確実だが単独の原因ではないだろうというものだ。
それらの患者には脳震盪が促進要因として働くような恐らく高感受性につながる遺伝的要因がある。そういった関連から、今後数年のうちには、今日行われている鎌状赤血球形質のチェックと同じように、疾病になりやすくする遺伝子について検査を受けられるようになるだろうと言う医師もいる。ゲーリッグ・ミステリー
他の米国の運動選手よりも、恐らく彼の連続試合出場記録をついに破った選手、Cal Ripken Jr 氏以上に、Lou Gehrig 氏は、とりわけけがをおしながらの毎日のプレイへの執着の象徴となってきた。そのような名声は、彼が重大な脳震盪を受けながらも、記録に残されている今なら危険とされるやり方でプレイを続けた出来事にいくぶん関係している。
最も顕著なできごとは1934年6月に起こった。非公式戦において、Gehrig は右目のすぐ上に投球を受け新聞の報道によると5分間気絶した。(彼はバッター用のヘルメットをかぶっていなかった;大リーグではそのような防御具は1940年代までは意義あるものとしては導入されておらず、1958年まで義務化されていなかった)。彼は試合から退場した。
頭痛もあり、出場を控えるようにとの医師の勧告もあり、そして大きめのBabe Ruth の帽子をかぶらなければならないほど大きな瘤が頭にできていたにもかかわらず、Gehrig は翌日の Washington Senators 戦に出場し、彼の1,415試合目となる連続試合出場を継続した。「そんなちっぽけなことでは私たちドイツ人を止められないよ。最も幸運な男だよ」Jonathan Eig 氏による信憑性のある Gehrig の伝記によると Gehrig はそう記者に語ったという。
1924年、Detroit Tigers との試合後の乱闘中 Gehrig は Ty Cobb に殴りかかって倒れコンクリートで頭部を打撲、短時間意識を失った。さらに 1930年9月、Tigers との試合で一塁を守っていた時、Gehrig はゴロが顔面を直撃し気を失った。また1935年には向かってきた走者とぶつかりまた意識を失った。
それらは Gehrig の意識消失が顕著であったため新聞で報道された4件である。彼はその他にも知られていないもの、あるいは重要と考えられる脳震盪を、野球の試合中や、ニューヨークの Commerce High School、およびその後のColumbia University でハーフバックとして競技中に受傷していた可能性が高い。たとえば 1933年のWashington 戦でも頭部に死球を受けたがそのままプレーを続行した。
「ヘルメットをかぶらない時代に彼がプレーしていたのは明らかであり、間違いなくフットボールのフィールドでも頭部や肩の防御はしていませんでした」と、Eig 氏は言うが、彼によるとGehrig のフットボール選手時代、新聞には頭部外傷の記録はないそうである。「野球場でけがが多かったのは彼の不器用だったことも若干関係しているかもしれない。シーズンオフに彼が行っていた地方巡業や彼のフットボールの経歴やプレースタイルを考えると、その他にもどれほど多く頭部に衝撃を受けていたかは計り知れない。
Gehrig の外傷への対応はファンや報道関係者の間に尊敬の念を抱かせた。当時脳震盪は喫煙と似たようなところがあって、現在有害であるとされているものでも Gehrig の時代には良いものであり、魅力的であるとさえ見られていた。雑誌 Life の裏表紙を飾っていたタバコの Camel の広告には、1934年の事故を含め “Larruping Lou's(最高の Lou)” が見せてくれるけがをおしてのプレーに対して様々な称賛が載せられていた。
「あるとき、ビーン・ボールで意識を失った翌日には5イニングで3本の3塁打と打撃が爆発」とその広告には書かれている。「Gehrig の “鉄人” 記録は彼の身体状況が素晴らしい証拠である。Louは言う、『何年もずっと私はプレーしてきている。私は自分の身体状況に注意を払ってきた。タバコ?もちろん吸うし楽しんでいるよ。私のタバコは Camel』」最期の時、そして伝説
変性性運動疾患の最初の徴候が Gehrig に現れたのは1938年のことで、両手の痛みから始まって、両足や両肩の筋力が徐々に低下した。1939年春、ガタガタになったGehrig のトレーニングの状況から無関心な観客でさえどこかがかなり悪い状態にあるように思われた;状態の悪かった4月を経て、5月2日、Gehrig は Yankees の Joe McCarthy 監督に、この日の Detroit 戦には出場しないと話し、14シーズンにわたった彼の連続出場は2,130試合で途絶えた。
診断は筋萎縮性側索硬化症であり、これは当時、ポリオに類似した “小児麻痺” の一型として医師から一般に説明されていたが、実質的にはほとんどわかっていない疾患だった。その原因は不明であり、致死的とも考えられていなかった。Gehrig の野球のキャリアはほどなく終わり、2週間後の7月4日、ダブルヘッダーの試合の合間にヤンキースタジアムで彼の栄誉が称えられた。
6万人以上のファンに向かってマイクを通して語りながら、状況を把握した Gehrig は自身を“地球上で最も幸福な男”と呼んだ。その発言はたちまち彼の謙虚な姿勢と、そしてもちろん、このスラッガーが本当はどれほど不幸であったかを象徴することになる。わずか2、3年前には映画のターザンを演ずるオーディションを受けたほど外見的に完璧だったかつてのGehrig の筋肉質の体型はたちまち失われてしまった。
2年後にGehrig が死去するころには ALS は Lou Gehrig 病と一般に呼ばれるようになっていたが、この疾患はこの選手で知られることになっただけでなく、彼が選ばれてこの病気で死んだのだという一見恣意的とも思えるこじつけでも有名となった。
Mayo Clinic はGehrig のカルテを保管しているが、施設の方針からそれらを一度も公開していない、とスポークスマンは言う。数年前にカルテを調べる許可を得た神経学者、フロリダ州 Jacksonville の Mayo Clinic の Jay Van Gerpen 医師も、今回の記事のためにインタビューを受けることについて同クリニックからの許可を得られなかった。
どのようにすればGehrig の病気を特定できるかを考える時、Boston University グループの McKee 医師は、もしGehrig が火葬されず、死体防腐処理を施されていたなら、理論的に残存組織を検査できただろうと言う。彼以降、ALSになったアメリカ人数十万人以上と同じく、彼もまたALSだったかもしれない。そして患者たちは恐らくGehrig のようななんと有名で立派な男も自分たちと同じ病気だったことで幾ばくかの慰めを得ていたのである。あるいは、彼の脳損傷の既往を考えると、科学の発展とともに、脳震盪の衝撃的な代償の証拠として増加する仲間とともに存在する Wally Hilgenberg や増加する選手たちと同じであった可能性もある。
「Lou Gehrig は彼自身の病気について可能な限りすべてを知りたいと思っていました。彼は医師たちと仲良くし、あいまいなアプローチしか持たない科学者と話をし、この病気と闘う何らかの手段を見つけるため自らが実験台となることを申し出ました」と、Eig 氏は言う。「彼は現実から目を逸らそうとはせず、これについて理解したいと思っていたのです。もし今日、彼がここにいるなら、彼はそのころと同じ好奇心と強い願望を持ち続け、自身の状況だけでなく他の人たちの状況をも救おうとしていることでしょう」
ビーン・ボールとは懐かしい響きだが、
危険球が横行していた時代に
ヘルメットなしでプレーをし、
そんな中で2,130試合連続出場をなしとげていたとは…
あらためて彼の偉業には驚嘆する。
当時に比べれば野球はずいぶん安全なスポーツになったと
言えるのだろうが、
ボクシングやラグビーなどでも十分な配慮を望みたい。
わざわざ神様は頭蓋骨で保護するように
作られたのだから、
脳という器官は
極力大切にしなければならない、と思うのである。
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