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最悪の放射線障害

2013-11-14 10:19:38 | 科学

2004年に死去した
パレスチナ自治政府アラファト議長(当時)の死因について
スイスの研究機関が彼の所持品や身体組織を調査した結果
放射性物質のポロニウム210が相当量検出され、
毒殺だった可能性があることが日本時間の11月8日に発表された。
これについてパレスチナ自治政府の幹部はイスラエルの仕業と
主張しているようだが、イスラエル政府は否定している。
放射性物質を用いた毒殺とは穏やかではないが、
歴史的には類似した手口も見られている。
放射線障害は知れば知るほどその恐ろしさが増してくる。
有名な過去の放射線障害の事例がまとめられた記事を紹介する。

11月7日付 ABC News.com より

10 Worst Cases of Radiation Poisoning 放射線障害、最悪の10大事件
By SUSAN DONALDSON JAMES

 今週、元パレスチナ指導者 Yassar Arafat(ヤーシル・アラファト)の死(2004年に死去)が、放射線被曝によるというニュースが流れた。スイスの科学者たちは、Yasser Arafat の肋骨、骨盤、および彼の腐敗した臓器が染み込んだ土中から正常の18倍の濃度のポロニウムが検出されたことから、彼が毒殺されたものと結論づけられると発表した。
 放射線は19世紀になって初めて発見されたが、その危険性はすぐにはわからなかった。1896年、セルビア系アメリカ人の発明家 Nikola Tesla(ニコラ・テスラ)は意図的に自らの指をX線に被曝させ、やけどが生じたという知見を発表した。
 1927年、アメリカの遺伝学者 Hermann Joseph Muller(ハーマン・J・ミラー)は放射線の遺伝的影響を明らかにした研究を発表し、1946年に彼はノーベル賞を受賞した。
 放射線障害はまれではあるが、致死的となる。ポロニウム‐210(P-210)は138日の放射線半減期を持つ高エネルギーα線放射性物質である。これは体内に摂取された場合のみ有害であるが、それは生物組織においてα粒子の到達距離が低いためである。Journal of Radiologic Protection の2007年のレポートによると、結果的に外部汚染では放射線障害を起こさないという。しかし体内に摂取された場合、この有害物質は一ヶ月以内に致死的となり得る。
 ポロニウムの影響により、“急性放射線症候群”として知られているように、まず嘔気、嘔吐、食欲不振、あるいは下痢が起こる。一定の期間の後、患者には脱毛と骨髄障害が見られ、回復がなければ、数週から数ヶ月以内に死亡する。
 無知や産業災害、あるいは犯意によって引き起こされた放射線障害の恐るべきさらなるケースが歴史により明らかとなっている。

1. Physicist Marie Curie 物理学者 マリー・キュリー

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 ポーランド生まれでフランスに帰化した Marie Curie(マリー・キュリー)はポロニウムとラジウムの発見で2度のノーベル賞を受賞した。20世紀への変わり目、医師や産業界は、ラジウム浣腸や飲料水などを市場に出した。
 Marie Curie は、放射線の人体への影響が十分に理解されていないと警告し、そういった治療に反対した。New York Times の彼女の死亡記事によると、1934年、彼女は放射線被曝によって引き起こされた再生不良性貧血で死亡したという。
 彼女はしばしば、ポケットに放射線同位元素の入った試験管を入れて持ち歩き、机の引き出しにそれらを保管していた。暗闇で放射線が発する青緑色の光を彼女が好んでいたことが伝えらえている。

2. Midori Naka at Hiroshima 広島における Midori Naka(仲みどり)

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 第2次世界大戦中、広島と長崎に落とされた核爆弾でおよそ20万人が死亡した。当時“原爆症 atomic bomb disease”と呼ばれた状態に対して詳細に研究された最初の人物は1945年に広島にいた日本人女優 Midori Naka(仲みどり)だった。

3.Eben Byers イーベン・バイヤーズ

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 ペンシルベニア州ピッツバーグカーネギー図書館によると、鉄鋼業者でゴルフのチャンピオンでもあった 51 才の Eben Byers(イーベン・バイヤーズ)は、当時の治療薬“ラジウム水”を大量に摂取後 1932 年に死亡し、放射線の危険性が注目されることになる。
 彼の理学療法士が、腕の痛みと疲れに対して Radithor(ラジトール)という製剤を勧めた。
 ボトル一本中には、毎食後に飲むよう、ラジウム1マイクログラムとエソトリウム1マイクログラムが3回蒸留した水に含有されていた。
 しかし Byers は体重が減少し、頭痛がみられ、彼の顎の骨は壊死し、数本の歯が抜けた。彼は体重が激減し、激しい頭痛に悩まされた。
 Radithor を製造した会社は、人を惑わす虚偽の広告として取り調べをうけたが、Byers の担当医は彼が痛風で死亡したと主張した。

4. Cecil Kelley セシル・ケリー

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 1958年、ニューメキシコ州 Los Alamos のプルトニウム処理プラントでの労働災害はベテランの化学技師 Cecil Kelley(セシル・ケリー)の命を奪った。
 彼は混合タンクからの致死量の中性子とガンマ線に被曝しひどく苦しんで死亡した。彼が攪拌機のスイッチを入れたとき、液体が渦を巻き、プルトニウムの層が衝撃波として放出されたが、それはわずかに200マイクロ秒間のできごとだった。
 米国科学者連盟によると、Kelly は床に倒れ、「身体が燃えている」と叫んだという。
 当初、彼は心神喪失状態だったが、地元の医療センターに到着したときには意識を取り戻し、嘔吐と過呼吸が始まった。皮膚は赤紫色となり、血液にほとんど酸素が取り込まれていないことを示していた。
 一時的に持ち直したが、その後激しい腹痛、過度の発汗を来たし、不整脈を起こして事故後35時間で Kelly は死亡した。

5. Hisashi Ouchi 大内久

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 日本の最悪の放射線事故は1999年、東海村のウラン再処理施設で起こった。硝酸ウラニル溶液が臨界質量を超え3人の作業員が放射線に被曝した。2008年の著書“Slow Death: 83 Days of Radiation Sickness(被曝治療83日間の記録~東海村臨界事故)”によると、3人の作業員が高線量の放射線に被曝したという。
 そのうちの一人 Hisashi Ouchi(大内久)は東京大学病院救急室に運ばれ2ヶ月半後に死亡した。当初、彼は話すことができたが、放射線活性による細胞内の染色体の崩壊が進むにつれ彼の容態は徐々に悪化していった。

6. Alexander Litvinenko アレキサンドル・リトビネンコ

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 2006年、元KGB職員の Alexander Litvinenko(アレキサンドル・リトビネンコ)が政治的亡命者としてイギリスで生活していたとき、原因不明に体調を崩し、3週間後病院で死亡した。剖検により彼の飲んだ紅茶から致死量のポロニウム‐210が検出された。死の直前彼はその毒殺を首謀しているとしてロシア政府を告発した。
 ニューヨークタイムズ紙によると、彼の死は“冷戦後で最も衝撃的なドラマの一つ”を作り出したという。ロシアとイギリスの関係は悪化し、両国の外交官が追放された。
 イギリス当局はこの殺人を、現在ロシア下院議員となっている元KGB随行員 Andrei K. Lugovoi(アンドレイ・ルゴボイ)の仕業であるとした。
 一方、Lugovoi はイギリスの秘密情報機関 MI6 と亡命中のロシアの大物 Boris A. Berezovski(ボリス・ベレゾフスキー)が今回の殺人を計画したと告発している。

7. Harry K. Daghlian, Jr ハリー・ダリアン
 1945年、ニューメキシコ州 Los Alamos で起こった事故は、最高機密のマンハッタン計画に参加していたアルメニア系アメリカ人物理学者 Harry K. Daghlian, Jr.(ハリー・ダリアン)の命を奪った。彼はプルトニウムの芯の周りにいくつかの炭化タングステンのブロックを手で積み上げることで中性子反射体を作成しようとしていた。最後のブロックを所定の位置に動かしていたとき、中性子カウンターがこのシステムが臨界超過すると警告した。彼は誤ってブロックを落としてしまい核反応を誘発、その過程で彼は致死量の中性子放射を受けた。彼は25日後に死亡した。
 Atomic Heritage Foundationによると、この最高機密のマンハッタン計画では数人の科学者たちの命が奪われたという。
 1944年、技師らのグループが Philadelphia Navy Yard(フィラデルフィア海軍工廠)の実験施設で作業中、何の前触れもなく爆発があり、施設一帯に放射性活性の高い6フッ化ウランの煙が発生した。
 死亡したのは技師の Peter Newport Bragg Jr. で、ウラン濃縮のための熱拡散工程を遂行するための業務の一環としてチューブを詰まりを取り除いていた。彼の協働者 Douglas Meigs も死亡した。彼らの業務は最初の原子爆弾の開発に不可欠だった。

8. Louis P. Slotin ルイス・スローティン

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 1946年、カナダ人科学者 Louis P. Slotin(ルイス・スローティン)はニューメキシコ州 Los Alamos における別のマンハッタン計画の実験で死亡した。彼は青い炎に光った致死的なガンマ線と中性子線に被曝した。Slotin はほぼ1,000ラドの放射線を被曝したが、これは生存できた他の6人の同僚よりはるかに多い量だった。
 彼は重傷の下痢、尿量減少、両手の腫脹、体部の発赤、両上肢の広範な水ぶくれ、腸管の運動麻痺、壊疽、さらには“全身体機能の廃絶”を引き起こし、一週間あまりで病院で死去した。

9. Chernobyl Disaster チェルノブイリ大事故

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 1986年、旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所で爆発があり、何万人もの死亡を引き起こしたが、その正確な数は完全にはわかっていない。
 公式の死亡者数は急性放射線症候群による31人だが、続発した癌、心疾患、先天奇形などがこの事故と関連づけられている。
 作業員は、電源喪失の事態に陥った際に緊急のディーゼル発電機が作動するまで冷却ポンプの稼働を維持するために十分なエネルギーをタービンが作り出せるかどうかをテストする予定だった。
 安全装置が意図的に止められ、原子炉の出力を下げる必要があった。しかし、Green Peace によると、出力レベルが1%以下に下がったためそれを増大させる必要があったとき、予想外の出力上昇が起こったという。緊急停止は作動せず、激しい爆発が引き起こされた。
 この事故では広島原爆より多くの放射線が放出された。

10. K-19 Submarine K-19 原子力潜水艦

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 1961年、核弾道ミサイルを搭載する2隻のうちの第一号にあたるソビエトの潜水艦はその原子炉が“狂ってしまう”事態に陥った。その原子炉の冷却システムに漏れが生じ、温度が危険なほど高くなる原因となった。
 船長の Nikolai Vladimirovich Zateyey は艦を救うために英雄的苦闘する中、7人の乗員が死に至った。
 Los Angeles Times の1994年の記事によると、原子炉は爆発しなかったがこれらの男たちは“殺してほしいと乗員仲間に懇願しながら”放射線障害の苦しみの中、死亡したという。
 この潜水艦全体が汚染され、2、3年以内に20人以上が死亡した。
 ソビエト連邦が崩壊し放射線により乗員の多くが死亡したことをプラウダ紙が明らかにするまでこの潜水艦と乗組員たちの悲劇は公表されなかった。
 この事故は2002年の映画“K-19:The Widowmaker”の題材となっている(邦題K-19、The Widowmaker は『未亡人製造艦』の意)。

本稿では強調されていないが、
最悪の放射線障害が広島・長崎原爆であることは
言うまでもない。
ただ現代の原子力利用がこういった多くの犠牲の上に
発展を遂げてきたことは確かである。
この歴史を今後どのように生かすべきか
人類は今一度慎重に考える必要がある。

なお10件中2件に日本人が関わっている。
日本人は放射線の怖さを十分知っているはずである。
Fukushima がこれに入らなくて良かったとは思うが
その被害の甚大さにおいては
これらに十分匹敵する事態といえるだろう。

コメント
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