「今日は、昨日の続きで、藤純子(ふじ じゅんこ。現:富司純子)さんが東映の任侠(にんきょう)映画に出られとったという話じゃね」
「藤純子さんといえば、NHK連ドラ『てっぱん』のおばあちゃん、田中初音(たなか はつね)役をされた方じゃの」
「うちは、本名の寺島純子(てらじま じゅんこ)で、フジテレビの『3時のあなた』で司会をされとった時くらいしか知らんのよ。あとは『フラガール』(2006年)のお母さん役くらいかね」
「『フラガール』で、藤さんは助演女優賞を受賞されとってんじゃ。まずは、デビューのいきさつから話をしようかの。1963年(昭和38)、父親の勤務先である東映京都撮影所に見学に行ったところを、マキノ雅弘(まさひろ)監督にスカウトされたそうじゃ。おっ、わしが生まれた年じゃの」
「お父さんって誰かいね?」
「「任侠映画の首領(ドン)」と呼ばれた、東映のプロデューサー・俊藤浩滋(しゅんどう こうじ)氏じゃ。藤さんは、映画だけでのうて、朝日テレビのコメディー『スチャラカ社員』にも出演されたそうじゃ」
「『スチャラカ社員』って、「ホント? ち~っとも知らなかったわ~」というギャグのやつ?」
「あんたも、よう知っとるのう」
「え~、あの番組にも出演されとったんじゃ」
「映画では、『日本侠客(きょうかく)伝』(1964年~)や『昭和残侠(ざんきょう)伝』(1965年~)などに出演して、高倉健さんの相手役として人気を集めとったそうじゃ」
↓『日本侠客伝』については、こちら↓
「侠客列伝「予告篇」」YouTube
↓『昭和残侠伝』については、こちら↓
「昭和残侠伝 一匹狼【予告編】1966 〔第3作〕」YouTube
「そんな時、岡田茂氏が「藤さんを主役にした作品を作りたい」と、俊藤プロデューサーに持ちかけたそうじゃ」
「それから、映画『緋牡丹(ひぼたん)博徒(ばくと)』が作られたんじゃね。博徒って、どんな人のこと?」
「ばくち打ちのことじゃ。藤さんが演じる「緋牡丹のお竜」こと矢野竜子は、背中に緋牡丹の刺青(いれずみ)を入れとってんじゃ」
「藤さんが何歳の時の映画?」
「22歳じゃ」
「すごいね。22歳で任侠映画の主役を張っちゃったんじゃね」
「賭場(とば。ばくちを行う場所)のシーンでは、本物のヤクザに指導してもろうたそうじゃ」
「本物って、そんな人脈があったんかね?」
若いころに賭場(とば)に出入りしたことで、多くの大物ヤクザとの知己を生かし本物のヤクザの所作を取り入れることができ、他社の生ぬるいヤクザ映画とは一線を画す作品を送り出した。
(「俊藤浩滋」ウィキペディア)
「藤さんのお父さんって、すごい方じゃったんじゃね」
「共演者の反応はどうじゃったかというと…」
父の存在もあり、共演女優にすぐに手を出す山城新伍(やましろ しんご)や梅宮辰夫(うめみや たつお)などといった東映の男優陣も、たとえ共演しても手をつけられなかった。
「東映の女優で、手を出せないのは彼女だけだった」と山城は『いつみても波瀾万丈』で語っている。
(「富司純子」ウィキペディア)
「納得…」
「藤さんは、映画で主題歌も歌うとられるんじゃ」
↓『緋牡丹博徒』主題歌については、こちら↓
「緋牡丹博徒 藤純子」YouTube
「うーん…。失礼じゃけど、歌は歌われんほうがえかったんじゃないんかね」
「高倉健(たかくら けん)さんが『唐獅子牡丹』を歌うとったけん、その流れじゃないんかの。♪背中で吠えてる 唐獅子牡丹~」
↓『唐獅子牡丹』については、こちら↓
「唐獅子牡丹」YouTube
「映画は観とらんけど、初音ばあちゃんの、背筋をピンと伸ばして、キリリとした表情はこのあたりからきとるんかね」
「上品じゃしの」
「そういや、藤さんは結婚されたとき、俳優業はどうされたんかね?」
「1972年(昭和47)に、歌舞伎の四代目尾上菊之助(おのえ きくのすけ。現:七代目尾上菊五郎(おのえ きくごろう))氏と結婚して映画界から引退されたんよ。2年後の1974年(昭和49)には、本名の「寺島純子」でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会で芸能界に復帰されたんじゃがの」
「映画には、10年くらいしか出てんなかったんじゃね」
「そのころの藤さんは、鶴田浩二(つるた こうじ)氏、高倉健氏と並ぶ東映のスターじゃけん、前代未聞の引退劇があったんじゃ」
藤純子は約10年間の東映専属で”任侠映画の花”として一世を風靡(ふうび)、90本の映画に出演し1972年、歌舞伎俳優の尾上菊五郎と結婚し引退を表明した。
俊藤が説得しても聞かないので、岡田も説得したが藤は頑(かたく)なで諦めざるを得なかった。
ただ映画は引退だがテレビのCMはそのまま残った。
これはイメージダウンどころか、歌舞伎役者との結婚でむしろイメージアップだったため。
看板スターの女優として脂が乗っていた時期の衝撃の引退でアタフタしたが、引退興行に当時としては破格の宣伝予算を組んで元を取ろうとした。
挙式3ヵ月前に封切られた「緋牡丹博徒シリーズ」第8作『緋牡丹博徒 仁義通します』では、当時邦画ではめったになかった都内の私鉄電車の中吊り広告や、普段付き合いのない週刊誌まで広告を出した。
この後、挙式直前に封切られたのが、東映オールスター結集による『関東緋桜(ひざくら)一家』で、製作・宣伝費に約2億円と当時の映画としては破格の予算をかけた。
『関東緋桜一家』は最後の藤純子を見ようと映画館に観客が詰めかけ正月興行を上回る盛況で引退フィーバーに沸いた。
しかし藤純子のフィナーレとともに任侠路線も終焉を迎えた。
(「岡田茂」ウィキペディア)
「これ以降、東映は任侠映画から『仁義なき戦い』(1973年)の実録映画に変わっていくんじゃね」
「藤さんが東映におられた10年間は、任侠映画と共に歩んだ10年間でもあったんじゃの」
↓藤純子出演作品については、こちら↓
「昭和の銀幕に輝くヒロイン 藤純子スペシャル」ラピュタ阿佐ケ谷
↓岡田茂・東映についての関連記事は、こちら↓
東映名誉会長・岡田茂氏を悼む 東広島市
「今日は、藤純子について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「藤純子さんといえば、NHK連ドラ『てっぱん』のおばあちゃん、田中初音(たなか はつね)役をされた方じゃの」
「うちは、本名の寺島純子(てらじま じゅんこ)で、フジテレビの『3時のあなた』で司会をされとった時くらいしか知らんのよ。あとは『フラガール』(2006年)のお母さん役くらいかね」
「『フラガール』で、藤さんは助演女優賞を受賞されとってんじゃ。まずは、デビューのいきさつから話をしようかの。1963年(昭和38)、父親の勤務先である東映京都撮影所に見学に行ったところを、マキノ雅弘(まさひろ)監督にスカウトされたそうじゃ。おっ、わしが生まれた年じゃの」
「お父さんって誰かいね?」
「「任侠映画の首領(ドン)」と呼ばれた、東映のプロデューサー・俊藤浩滋(しゅんどう こうじ)氏じゃ。藤さんは、映画だけでのうて、朝日テレビのコメディー『スチャラカ社員』にも出演されたそうじゃ」
「『スチャラカ社員』って、「ホント? ち~っとも知らなかったわ~」というギャグのやつ?」
「あんたも、よう知っとるのう」
「え~、あの番組にも出演されとったんじゃ」
「映画では、『日本侠客(きょうかく)伝』(1964年~)や『昭和残侠(ざんきょう)伝』(1965年~)などに出演して、高倉健さんの相手役として人気を集めとったそうじゃ」
↓『日本侠客伝』については、こちら↓
「侠客列伝「予告篇」」YouTube
↓『昭和残侠伝』については、こちら↓
「昭和残侠伝 一匹狼【予告編】1966 〔第3作〕」YouTube
「そんな時、岡田茂氏が「藤さんを主役にした作品を作りたい」と、俊藤プロデューサーに持ちかけたそうじゃ」
「それから、映画『緋牡丹(ひぼたん)博徒(ばくと)』が作られたんじゃね。博徒って、どんな人のこと?」
「ばくち打ちのことじゃ。藤さんが演じる「緋牡丹のお竜」こと矢野竜子は、背中に緋牡丹の刺青(いれずみ)を入れとってんじゃ」
「藤さんが何歳の時の映画?」
「22歳じゃ」
「すごいね。22歳で任侠映画の主役を張っちゃったんじゃね」
「賭場(とば。ばくちを行う場所)のシーンでは、本物のヤクザに指導してもろうたそうじゃ」
「本物って、そんな人脈があったんかね?」
若いころに賭場(とば)に出入りしたことで、多くの大物ヤクザとの知己を生かし本物のヤクザの所作を取り入れることができ、他社の生ぬるいヤクザ映画とは一線を画す作品を送り出した。
(「俊藤浩滋」ウィキペディア)
「藤さんのお父さんって、すごい方じゃったんじゃね」
「共演者の反応はどうじゃったかというと…」
父の存在もあり、共演女優にすぐに手を出す山城新伍(やましろ しんご)や梅宮辰夫(うめみや たつお)などといった東映の男優陣も、たとえ共演しても手をつけられなかった。
「東映の女優で、手を出せないのは彼女だけだった」と山城は『いつみても波瀾万丈』で語っている。
(「富司純子」ウィキペディア)
「納得…」
「藤さんは、映画で主題歌も歌うとられるんじゃ」
↓『緋牡丹博徒』主題歌については、こちら↓
「緋牡丹博徒 藤純子」YouTube
「うーん…。失礼じゃけど、歌は歌われんほうがえかったんじゃないんかね」
「高倉健(たかくら けん)さんが『唐獅子牡丹』を歌うとったけん、その流れじゃないんかの。♪背中で吠えてる 唐獅子牡丹~」
↓『唐獅子牡丹』については、こちら↓
「唐獅子牡丹」YouTube
「映画は観とらんけど、初音ばあちゃんの、背筋をピンと伸ばして、キリリとした表情はこのあたりからきとるんかね」
「上品じゃしの」
「そういや、藤さんは結婚されたとき、俳優業はどうされたんかね?」
「1972年(昭和47)に、歌舞伎の四代目尾上菊之助(おのえ きくのすけ。現:七代目尾上菊五郎(おのえ きくごろう))氏と結婚して映画界から引退されたんよ。2年後の1974年(昭和49)には、本名の「寺島純子」でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会で芸能界に復帰されたんじゃがの」
「映画には、10年くらいしか出てんなかったんじゃね」
「そのころの藤さんは、鶴田浩二(つるた こうじ)氏、高倉健氏と並ぶ東映のスターじゃけん、前代未聞の引退劇があったんじゃ」
藤純子は約10年間の東映専属で”任侠映画の花”として一世を風靡(ふうび)、90本の映画に出演し1972年、歌舞伎俳優の尾上菊五郎と結婚し引退を表明した。
俊藤が説得しても聞かないので、岡田も説得したが藤は頑(かたく)なで諦めざるを得なかった。
ただ映画は引退だがテレビのCMはそのまま残った。
これはイメージダウンどころか、歌舞伎役者との結婚でむしろイメージアップだったため。
看板スターの女優として脂が乗っていた時期の衝撃の引退でアタフタしたが、引退興行に当時としては破格の宣伝予算を組んで元を取ろうとした。
挙式3ヵ月前に封切られた「緋牡丹博徒シリーズ」第8作『緋牡丹博徒 仁義通します』では、当時邦画ではめったになかった都内の私鉄電車の中吊り広告や、普段付き合いのない週刊誌まで広告を出した。
この後、挙式直前に封切られたのが、東映オールスター結集による『関東緋桜(ひざくら)一家』で、製作・宣伝費に約2億円と当時の映画としては破格の予算をかけた。
『関東緋桜一家』は最後の藤純子を見ようと映画館に観客が詰めかけ正月興行を上回る盛況で引退フィーバーに沸いた。
しかし藤純子のフィナーレとともに任侠路線も終焉を迎えた。
(「岡田茂」ウィキペディア)
「これ以降、東映は任侠映画から『仁義なき戦い』(1973年)の実録映画に変わっていくんじゃね」
「藤さんが東映におられた10年間は、任侠映画と共に歩んだ10年間でもあったんじゃの」
↓藤純子出演作品については、こちら↓
「昭和の銀幕に輝くヒロイン 藤純子スペシャル」ラピュタ阿佐ケ谷
↓岡田茂・東映についての関連記事は、こちら↓
東映名誉会長・岡田茂氏を悼む 東広島市
「今日は、藤純子について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」