「高橋玄洋(たかはし げんよう)さんって脚本家の方を知っとるかいの?」
「うーん、知らんねぇ…」
「実は、わしも知らんかったんよ。先週の土曜日、広島県立美術館の講演会を聞きに行ったとき、高橋さんの名前を聞いたんじゃ。ほいで調べてみたら5月19日(木)、尾道大学に記念室ができたばっかりじゃったんよ」
尾道市の尾道短大(現尾道大)1期生で脚本家の高橋玄洋さん(82)=埼玉県所沢市=の直筆草稿など427点を集めた記念室が19日、尾道大付属図書館に開設した。
高橋さんも母校を訪れ完成を祝った。
約30平方メートルの研究室を活用した。
高橋さんが2010年2月以降、尾道、尾道東の両ロータリークラブを通じて市に寄贈したNHK連続テレビ小説「繭子(まゆこ)ひとり」(1971~72年放送)などの脚本、「文章とは中身(内容)の記号化に過ぎない」と書いた草稿などを展示する。
手掛けたドラマ24作品をDVDで観賞できる。
一般も入室でき、無料。
高橋さんの希望で脚本やDVDを市民や市内で勤務する人に貸し出す。
開館時間は原則、月曜~金曜日が午前9時~午後8時、土曜日は午後5時まで。
(「高橋玄洋さん記念室を開設」中国新聞 2011年5月20日)
↓市立尾道大学については、こちら↓
尾道大学
「高橋さんは尾道の方なん?」
「松江市の出身なんじゃが、中学の時、お父さんの仕事の都合で広島に移ってこられたそうじゃ」
「ということは、原爆には?」
「当日は広島市郊外で勤労奉仕中じゃったけん、市内に救援に入られたそうじゃ」
「ほうなんじゃ」
「で、1947年(昭和22)に尾道市に移られて、広島県立忠海(ただのうみ)高等学校に通われたんよ。同級生に日本画家の平山郁夫(ひらやま いくお)さんもおられたんじゃと」
「おぉー、すごいねぇ」
「1950年(昭和25)、尾道短期大学の国文科に第1期生として入学されたんよ。このころ、洋画家の小林和作(こばやし わさく)に出会って、影響を受けられたそうじゃ」
「先日の講演会は、この小林さんに関連して、高橋さんの話を聞いたんじゃろ?」
「小林さんは山口県の出身なんじゃが、そのころは尾道市に移り住んどられたんよ。面倒見のええ方じゃったそうでの、東京に行った高橋さんが尾道に帰ってくるたびに、絵を渡されたそうじゃ」
「絵を?」
「「金に困ったら、どこどこの画商に売りなさい」言うての」
「なるほどね」
「で、高橋さんが売った絵を、小林さんが画商から買い戻しとられとった、というオチがあるんじゃがの」
「そういう形で援助されとったんじゃね」
「高橋さんは1997年(平成9)に、『評伝小林和作』という本を書かれとってんじゃ」
↓『評伝小林和作』については、こちら↓
「評伝・小林和作 ― 花を見るかな」Amazon
「ところで、肝心の脚本の話が出てこんのじゃけど?」
「高橋さんは1954年(昭和29)、早稲田大学の文学科を卒業して、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)に入社されたんじゃ」
「NETというのは、日本教育テレビの略じゃったんじゃね」
「1960年(昭和35)に『傷痕』で芸術祭奨励賞を受賞し、翌1961年(昭和36)に作家として独立されたんよ。1964年(昭和39)年には『いのちある日を』で久保田万太郎賞を受賞しとってんじゃ」
1972年に手がけたNHK連続テレビ小説『繭子ひとり』は、同年2月10日放送分がテレビ視聴率歴代20位、ドラマ歴代7位の55.2%を記録し”視聴率の魔術師”との異名をとった。
本格派ドラマのライターとして最盛期には年間100本のドラマ脚本を書く。
(「高橋玄洋」ウィキペディア)
「おぉー。1年に100本ということは、1週間に2本は脚本を書き上げんといけん計算になるんじゃね」
「書いた脚本が、2000以上あるそうじゃけんの」
「うわー、すごいね」
「高橋さんが脚本を書かれた主なTV番組は、次のとおりじゃ」
『判決』(1962年~1966年、テレビ朝日)
『朱鷺の墓』(1970年、NHK)
『バラ色の人生』(1974年、TBS)
『三男三女婿一匹』(1976年、TBS)
『野々村病院物語』(1981年、1982年~1983年、TBS)
↓『繭子ひとり』については、こちら↓
「繭子ひとり」テレビドラマデータベース
「高橋さんは1979年(昭和54)、紺綬褒章(こんじゅほうしょう)を受賞されたんよ。この頃、洋画家の中川一政(なかがわ かずまさ)さんと出会って、陶芸の道を勧められたそうじゃ」
ふるさと尾道の大先輩の小林和作画伯、そして陶芸の道を勧めてくれた中川一政画伯。
二人から学んだのは「何をしても同じ自分の人生。やりたいことを楽しもう」だった。
(「大きな存在だった小林画伯 遺志継ぎ 尾道に感性注入」中国新聞 2002年5月30日)
「今はテレビの脚本から離れて、小説を書かれたり、書画や陶芸に打ち込んだり、地元の世話役を務めたりしとってんよ。尾道大学にある記念室にも、高橋さんが手掛けられた船舶模型や油絵なども展示されとるそうじゃ」
「地元いうて、今は埼玉県の所沢に住んでんよね」
「ほうじゃの。所沢市の教育委員を務められたこともあるんよ。所沢市図書館には、高橋玄洋コーナーが設置されとって、ここにも脚本やDVDが展示されとるそうじゃ」
「今日は、高橋玄洋について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「うーん、知らんねぇ…」
「実は、わしも知らんかったんよ。先週の土曜日、広島県立美術館の講演会を聞きに行ったとき、高橋さんの名前を聞いたんじゃ。ほいで調べてみたら5月19日(木)、尾道大学に記念室ができたばっかりじゃったんよ」
尾道市の尾道短大(現尾道大)1期生で脚本家の高橋玄洋さん(82)=埼玉県所沢市=の直筆草稿など427点を集めた記念室が19日、尾道大付属図書館に開設した。
高橋さんも母校を訪れ完成を祝った。
約30平方メートルの研究室を活用した。
高橋さんが2010年2月以降、尾道、尾道東の両ロータリークラブを通じて市に寄贈したNHK連続テレビ小説「繭子(まゆこ)ひとり」(1971~72年放送)などの脚本、「文章とは中身(内容)の記号化に過ぎない」と書いた草稿などを展示する。
手掛けたドラマ24作品をDVDで観賞できる。
一般も入室でき、無料。
高橋さんの希望で脚本やDVDを市民や市内で勤務する人に貸し出す。
開館時間は原則、月曜~金曜日が午前9時~午後8時、土曜日は午後5時まで。
(「高橋玄洋さん記念室を開設」中国新聞 2011年5月20日)
↓市立尾道大学については、こちら↓
尾道大学
「高橋さんは尾道の方なん?」
「松江市の出身なんじゃが、中学の時、お父さんの仕事の都合で広島に移ってこられたそうじゃ」
「ということは、原爆には?」
「当日は広島市郊外で勤労奉仕中じゃったけん、市内に救援に入られたそうじゃ」
「ほうなんじゃ」
「で、1947年(昭和22)に尾道市に移られて、広島県立忠海(ただのうみ)高等学校に通われたんよ。同級生に日本画家の平山郁夫(ひらやま いくお)さんもおられたんじゃと」
「おぉー、すごいねぇ」
「1950年(昭和25)、尾道短期大学の国文科に第1期生として入学されたんよ。このころ、洋画家の小林和作(こばやし わさく)に出会って、影響を受けられたそうじゃ」
「先日の講演会は、この小林さんに関連して、高橋さんの話を聞いたんじゃろ?」
「小林さんは山口県の出身なんじゃが、そのころは尾道市に移り住んどられたんよ。面倒見のええ方じゃったそうでの、東京に行った高橋さんが尾道に帰ってくるたびに、絵を渡されたそうじゃ」
「絵を?」
「「金に困ったら、どこどこの画商に売りなさい」言うての」
「なるほどね」
「で、高橋さんが売った絵を、小林さんが画商から買い戻しとられとった、というオチがあるんじゃがの」
「そういう形で援助されとったんじゃね」
「高橋さんは1997年(平成9)に、『評伝小林和作』という本を書かれとってんじゃ」
↓『評伝小林和作』については、こちら↓
「評伝・小林和作 ― 花を見るかな」Amazon
「ところで、肝心の脚本の話が出てこんのじゃけど?」
「高橋さんは1954年(昭和29)、早稲田大学の文学科を卒業して、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)に入社されたんじゃ」
「NETというのは、日本教育テレビの略じゃったんじゃね」
「1960年(昭和35)に『傷痕』で芸術祭奨励賞を受賞し、翌1961年(昭和36)に作家として独立されたんよ。1964年(昭和39)年には『いのちある日を』で久保田万太郎賞を受賞しとってんじゃ」
1972年に手がけたNHK連続テレビ小説『繭子ひとり』は、同年2月10日放送分がテレビ視聴率歴代20位、ドラマ歴代7位の55.2%を記録し”視聴率の魔術師”との異名をとった。
本格派ドラマのライターとして最盛期には年間100本のドラマ脚本を書く。
(「高橋玄洋」ウィキペディア)
「おぉー。1年に100本ということは、1週間に2本は脚本を書き上げんといけん計算になるんじゃね」
「書いた脚本が、2000以上あるそうじゃけんの」
「うわー、すごいね」
「高橋さんが脚本を書かれた主なTV番組は、次のとおりじゃ」
『判決』(1962年~1966年、テレビ朝日)
『朱鷺の墓』(1970年、NHK)
『バラ色の人生』(1974年、TBS)
『三男三女婿一匹』(1976年、TBS)
『野々村病院物語』(1981年、1982年~1983年、TBS)
↓『繭子ひとり』については、こちら↓
「繭子ひとり」テレビドラマデータベース
「高橋さんは1979年(昭和54)、紺綬褒章(こんじゅほうしょう)を受賞されたんよ。この頃、洋画家の中川一政(なかがわ かずまさ)さんと出会って、陶芸の道を勧められたそうじゃ」
ふるさと尾道の大先輩の小林和作画伯、そして陶芸の道を勧めてくれた中川一政画伯。
二人から学んだのは「何をしても同じ自分の人生。やりたいことを楽しもう」だった。
(「大きな存在だった小林画伯 遺志継ぎ 尾道に感性注入」中国新聞 2002年5月30日)
「今はテレビの脚本から離れて、小説を書かれたり、書画や陶芸に打ち込んだり、地元の世話役を務めたりしとってんよ。尾道大学にある記念室にも、高橋さんが手掛けられた船舶模型や油絵なども展示されとるそうじゃ」
「地元いうて、今は埼玉県の所沢に住んでんよね」
「ほうじゃの。所沢市の教育委員を務められたこともあるんよ。所沢市図書館には、高橋玄洋コーナーが設置されとって、ここにも脚本やDVDが展示されとるそうじゃ」
「今日は、高橋玄洋について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」