「童謡詩人の武内俊子(たけうち としこ)さんを知っとるかいの?」
「そのくらい知っとるよね。♪かもめの水兵さん ならんだ水兵さん… じゃん」
「あの方は、三原市の出身なんじゃと」
「えぇ、ほんま!?」
三原市出身で「かもめの水兵さん」などの作詞で知られる童謡詩人武内俊子(1905~45年)の作品や生涯を紹介する展示会が、同市宮浦の市芸術文化センター「ポポロ」で開かれている。
市の主催で29日まで。
無料。
写真や年表などのパネル32点を展示した。
子どものころ水泳が得意だったエピソードや育児と仕事を両立していた当時の姿を紹介している。
自費出版した詩集の写真や作詞した童謡の歌詞も並ぶ。
武内俊子は同市西町の浄念寺で生まれ、幼少期を市内で過ごした。
結婚後に上京して文筆活動を始め、「リンゴのひとりごと」など多くの作品がレコード化された。
(「童謡詩人武内俊子の生涯展示」中国新聞 2011年5月23日)
↓武内俊子の展示会については、こちら↓
「三原市出身の童謡詩人 武内俊子パネル展」三原市 海・山・空 夢ひらくまち
「カモメって、全身が真っ白じゃろ。この曲は、そのカモメを、「白い帽子」「白いシャツ」「白い服」を着た水兵になぞらえた詞になっとるんよね」
「闇夜のカラスと正反対じゃのう」
「かもめの水兵さんには、こんな誕生秘話があるんよ」
武内が作詞を行ったきっかけは、ハワイに旅行する叔父を見送るために横浜港の大さん橋に行ったことにある。
夕暮れの中で数十羽のかもめに魅了され、帰途でかもめの白い姿を水兵に見立てて詞を完成させた。
容易に詞を完成させた武内は、すぐに電話で光陽にどのような詞なのかを連絡した。
それを聞いた光陽はすぐにピアノを弾き始め、その日のうちに曲を完成させた。
詞から浮かんだ海の青とかもめの白の明瞭な組み合わせを曲で表現するために、音楽の基本的な三和音の「ド・ミ・ソ」を歌いだしに用いて、簡潔な旋律を用いた。
このように父が弾いていた曲を自宅で聴いていた順子は、すでに曲を覚えた状態でレコーディングに臨んだと後に証言している。
「かもめの水兵さん」ウィキペディア
「苦しんで、苦しんで、苦しんだ末に生まれてくる曲があれば、ポンと、思いつきのように生まれてくる曲もあるんじゃね」
「三原市の宮浦公園には、「かもめの水兵さん」の歌碑が建てられとるんじゃと」
「JRの三原駅で、電車が入ってくる時のメロディにも使われとるね。あと、2007年(平成19)には、日本の歌百選に選ばれとるんよ」
「英語やヒンズー語、ドイツ語、韓国語など11カ国語に訳されて、世界各地で歌われとるそうじゃのう」
「そこまでは知らんかったね。明るくてリズミカルな曲じゃけん、歌いやすいんじゃないんかと思うよ」
↓宮浦公園については、こちら↓
「宮浦公園」広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち
↓日本の歌百選については、こちら↓
「親子で歌いつごう 日本の歌百選」文化庁
「ところで、「かもめの水兵さん」(1937年)の作曲をされた、光陽って方は知っとるかいの?」
「河村光陽(かわむら こうよう)さんじゃね。ほかにも「赤い帽子・白い帽子」(1937年)、「船頭さん」(1941年)、「リンゴのひとりごと」(1940年)などの曲を、武内さんとのコンビで作っとってんよ」
「ほかに作曲された曲は?」
「「うれしいひなまつり」(1936年)、「グッドバイ」(1934年)、「仲良し小道」(1939年)なんかがあるね」
「わしでも知っとる曲が多いんじゃのう。ほいで、河村さんの娘と思われる順子さんというのは?」
「河村順子(かわむら じゅんこ)さんじゃね。お父さんの光陽さんが作曲された歌を、レコードに吹き込んどっちゃったんよ」
「「かもめの水兵さん」は、戦前・戦中の童謡のレコードとしては一番売れた曲なんじゃそうなのう」
「河村さんが吹き込んだ童謡は約380曲、累計レコード売上が1,000万枚以上になるんよ。1989年(平成元)には、ギネスブックに登録されとってんじゃと」
↓河村順子の歌については、こちら↓
「かもめの水兵さん 河村順子」YouTube
↓童謡についての関連記事は、こちら↓
葛原しげるのオルガン 生誕125年祭に向け修理中
宇品中央公園に歌碑があり、「空も港も夜ははれて」と歌われる唱歌の題名は?
「今日は、童謡詩人の武内俊子さんについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「そのくらい知っとるよね。♪かもめの水兵さん ならんだ水兵さん… じゃん」
「あの方は、三原市の出身なんじゃと」
「えぇ、ほんま!?」
三原市出身で「かもめの水兵さん」などの作詞で知られる童謡詩人武内俊子(1905~45年)の作品や生涯を紹介する展示会が、同市宮浦の市芸術文化センター「ポポロ」で開かれている。
市の主催で29日まで。
無料。
写真や年表などのパネル32点を展示した。
子どものころ水泳が得意だったエピソードや育児と仕事を両立していた当時の姿を紹介している。
自費出版した詩集の写真や作詞した童謡の歌詞も並ぶ。
武内俊子は同市西町の浄念寺で生まれ、幼少期を市内で過ごした。
結婚後に上京して文筆活動を始め、「リンゴのひとりごと」など多くの作品がレコード化された。
(「童謡詩人武内俊子の生涯展示」中国新聞 2011年5月23日)
↓武内俊子の展示会については、こちら↓
「三原市出身の童謡詩人 武内俊子パネル展」三原市 海・山・空 夢ひらくまち
「カモメって、全身が真っ白じゃろ。この曲は、そのカモメを、「白い帽子」「白いシャツ」「白い服」を着た水兵になぞらえた詞になっとるんよね」
「闇夜のカラスと正反対じゃのう」
「かもめの水兵さんには、こんな誕生秘話があるんよ」
武内が作詞を行ったきっかけは、ハワイに旅行する叔父を見送るために横浜港の大さん橋に行ったことにある。
夕暮れの中で数十羽のかもめに魅了され、帰途でかもめの白い姿を水兵に見立てて詞を完成させた。
容易に詞を完成させた武内は、すぐに電話で光陽にどのような詞なのかを連絡した。
それを聞いた光陽はすぐにピアノを弾き始め、その日のうちに曲を完成させた。
詞から浮かんだ海の青とかもめの白の明瞭な組み合わせを曲で表現するために、音楽の基本的な三和音の「ド・ミ・ソ」を歌いだしに用いて、簡潔な旋律を用いた。
このように父が弾いていた曲を自宅で聴いていた順子は、すでに曲を覚えた状態でレコーディングに臨んだと後に証言している。
「かもめの水兵さん」ウィキペディア
「苦しんで、苦しんで、苦しんだ末に生まれてくる曲があれば、ポンと、思いつきのように生まれてくる曲もあるんじゃね」
「三原市の宮浦公園には、「かもめの水兵さん」の歌碑が建てられとるんじゃと」
「JRの三原駅で、電車が入ってくる時のメロディにも使われとるね。あと、2007年(平成19)には、日本の歌百選に選ばれとるんよ」
「英語やヒンズー語、ドイツ語、韓国語など11カ国語に訳されて、世界各地で歌われとるそうじゃのう」
「そこまでは知らんかったね。明るくてリズミカルな曲じゃけん、歌いやすいんじゃないんかと思うよ」
↓宮浦公園については、こちら↓
「宮浦公園」広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち
↓日本の歌百選については、こちら↓
「親子で歌いつごう 日本の歌百選」文化庁
「ところで、「かもめの水兵さん」(1937年)の作曲をされた、光陽って方は知っとるかいの?」
「河村光陽(かわむら こうよう)さんじゃね。ほかにも「赤い帽子・白い帽子」(1937年)、「船頭さん」(1941年)、「リンゴのひとりごと」(1940年)などの曲を、武内さんとのコンビで作っとってんよ」
「ほかに作曲された曲は?」
「「うれしいひなまつり」(1936年)、「グッドバイ」(1934年)、「仲良し小道」(1939年)なんかがあるね」
「わしでも知っとる曲が多いんじゃのう。ほいで、河村さんの娘と思われる順子さんというのは?」
「河村順子(かわむら じゅんこ)さんじゃね。お父さんの光陽さんが作曲された歌を、レコードに吹き込んどっちゃったんよ」
「「かもめの水兵さん」は、戦前・戦中の童謡のレコードとしては一番売れた曲なんじゃそうなのう」
「河村さんが吹き込んだ童謡は約380曲、累計レコード売上が1,000万枚以上になるんよ。1989年(平成元)には、ギネスブックに登録されとってんじゃと」
↓河村順子の歌については、こちら↓
「かもめの水兵さん 河村順子」YouTube
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「今日は、童謡詩人の武内俊子さんについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」