毎年12月14日は、赤穂義士討ち入りの日。
赤穂と広島には、意外な関係があります。
【問題】
12月13日(日)、忠臣蔵で知られる赤穂四十七士をしのぶ三次(みよし)義士祭が行われた、三次市三次町にある寺の名前は何というでしょう?
1.明星院(みょうじょういん) 2.聖光寺(しょうこうじ)
3.国泰寺(こくたいじ) 4.鳳源寺(ほうげんじ)
【ヒント】
ノーヒント
【正解】
4.鳳源寺
【解説】
忠臣蔵で知られる赤穂藩四十七士をしのぶ三次義士祭が13日、三次市三次町の鳳源寺であった。
観光客たち約500人が義士行列などを楽しんだ。
行列は義士6人のほか、三次藩から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)に嫁いだ阿久利姫(あぐりひめ)と鳳源寺住職の計8人。
主催の三次ライオンズクラブメンバーが大石内蔵助(おおいし くらのすけ)らにふんし、陣太鼓に合わせて義士堂まで歩いた。
(「四十七士しのび三次義士祭」中国新聞社)
赤穂藩主・浅野内匠頭に、広島の三次から阿久利姫が嫁いでいったので、三次で義士祭が行われるようになった、ということじゃ。
が、赤穂と広島には、もっと深い関係がある。
豊臣秀吉の時代、五奉行の一人に浅野長政(ながまさ)という人がおった。
長政の子には、
和歌山浅野藩主となった浅野幸長(ゆきなが)、
広島浅野藩主となった浅野長晟(ながあきら)、
笠間浅野藩主となった浅野長重(ながしげ)
などがおる。
浅野長重の長男が、初代赤穂藩主となった浅野長直(ながなお)。
その長直の孫に当たる、3代目赤穂藩主が、ご存知、浅野長矩(ながのり)。
官名である浅野内匠頭と言ったほうがわかりやすいじゃろう。
初代広島藩主となった浅野長晟(ながあきら)の長男が、浅野長治(ながはる)。
長治は長男ながら側室の子であったため、広島藩の支藩である三次藩の初代当主となった。
(第2代広島藩主となったのは、正室の子である浅野光晟(みつあきら))
長治の娘が阿久里(あぐり。のちの瑤泉院(ようぜんいん))で、彼女が浅野長矩の正室となった。
ということで、関係がわかってもらえましたかの?
浅野長政から始まった浅野家が、赤穂藩・三次藩などに分かれたが、浅野長矩と阿久里が結婚することで、もう一度、ひとつになったということじゃ。
世間一般にいわれる「忠臣蔵」は、1701(元禄(げんろく)14)年3月14日、江戸城内の松の廊下で、赤穂藩主・浅野長矩(ながのり)が、高家(こうけ)・吉良義央(よしひさ=上野介(こうずけのすけ))に切りつけた刃傷沙汰(にんじょうざた)に端を発する。
この事件の後、赤穂藩家臣・大石良雄(よしお=内蔵助(くらのすけ))たちが望んだお家再興も、幕府が浅野長広(ながひろ=浅野大学。浅野長矩の弟)に広島藩お預かりを言い渡したことで、その望みも絶たれた。
これから約5ヶ月後の1703(元禄15)年12月14日に、吉良邸討ち入りが行われた。
ここでも広島が出てきた。
分家である赤穂の浅野長広が、本家の広島に預けられる、という形をとったそうじゃ。
赤穂と広島の関係は、さらに広がっていく。
大石良雄の妻・りくの間には、子どもがいた。
累が及ぶのを恐れて、討ち入り前に離縁されてはいるが、討ち入り後も、当然、子どもを育てていかなければならない。
三男の大三郎は広島藩の浅野本家に仕官し、次女のるりは広島藩士の浅野直道(なおみち)と結婚した。
つまり、赤穂藩主・浅野長矩だけでなく、家老・大石良雄(正確には、その子どもたち)も、広島と関係があるということじゃ。
鳳源寺(ほうげんじ)は、浅野長治が建立した浅野家の菩提寺。
赤穂義士47人を模した木像を安置する「義士堂」や、 阿久利姫が輿入れするとき、家老・大石良雄がこの地を訪れ、手植えたと伝えられている「赤穂義士大石良雄手植えの桜」などがある。
選択肢1の明星院(みょうじょういん)は広島市東区二葉の里にある寺で、赤穂浪士の木像が安置されている。
選択肢2の聖光寺(しょうこうじ)は広島市東区山根町にある寺で、大石良雄父子供養塔がある。
選択肢3の国泰寺(こくたいじ)は広島市西区己斐にある寺で、赤穂義士追遠塔・大石りくの墓などがある。
明星院と国泰寺でも義士祭が行われる。
今日は、赤穂と広島の関係について勉強をさせてもらいました。
だいたいは知っとったんじゃが、浅野長矩はもとより、大石良雄まで関係しとることは、今回初めて知りました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
ほいじゃあ、またの。
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