広島市を東西に貫く、緑豊かな平和大通り。
【問題】
日本の道100選にも選ばれている平和大通りの幅員は、通称「百メートル道路」のとおり100mですが、東西方向の長さは?
1.約2キロメートル 2.約4キロメートル 3.約6キロメートル 4.約8キロメートル
【ヒント】
平和大通りは、鶴見橋(つるみばし)西詰めから新己斐(こい)橋東詰めの間、といえばだいたいの距離がわかりますかの?
ひろしま通認定試験は2009(平成21)年12月6日(日)実施です。
【解答】
2.約4キロメートル
【解説】
平和大通りは、広島市を東西4キロメートルに渡って貫く通りの名称で、「100メートル道路」とも呼ばれ、平和記念公園の南側を通っとるんじゃ。
東端が比治山下の鶴見橋(京橋川)で、ここから西へ平和大橋(元安川)、西平和大橋(本川・太田川)、緑大橋(天満川)と渡って、新己斐橋(太田川放水路)が西端になるんよ。
猿候川(えんこうがわ)まで伸びとったら、市内の川を完全制覇しとったんじゃがのう。
平和大通りの大まかな歴史は、以下のとおりじゃ。
戦争末期、空襲による延焼を防ぐ目的の防火帯を作るべく、幅100mの防火帯を作る計画が立てられた。
この作業に動員された市民や学生の頭上で原子爆弾が炸裂し、数万名が死亡したといわれる。
1946(昭和21)年の復興計画では、爆心地の中島地区を緑地とし、東西に延びる2本の百メートル道路をつくる、とあった。
「なぜ広い緑地や道路がいるのか」。
戦後間もない時期で、なんとかその日の生活をしのいでいた市民たちは冷ややかに見ていた。
その後、百メートル道路は1本となるが、整地が進んでも舗装が進まないという状態だった。
1957(昭和32)年ころから道路として形を整え始め、また、供木運動が始まり、県内はもとより、日本・世界からも苗木が贈られた。
1965(昭和40)年、己斐まで全通し、今のような形になった。
ヒロシマの記録 平和大通り 中国新聞
1975(昭和50)年、広島東洋カープがセ・リーグ初優勝を達成。
平和大通りで優勝記念パレードを行う。
これが、フラワーフェスティバル開催の契機になったといわれる。
1996(平成8)年からスタートした全国都道府県対抗男子駅伝競走大会では、平和公園がスタート&ゴール地点となっており、ランナーたちはこの通りを駆けぬける。
前身の中国駅伝でも、ゴールは平和公園だった。
(中国駅伝は、福山-広島間、全8区間107.5キロメートルで争われていた駅伝大会)
2002(平成14)年からは、冬の広島の街をライトアップするひろしまドリミネーションが行われている。
今年は11月6日から、来年(2010年)1月3日までで、点灯時間は17時30分から23時まで。
ひろしまドリミネーション2009
2005(平成17)年には、土谷病院前に平和の門が設置された。
フランスの建築家たちが被爆60年を記念して制作、寄付したもの。
高さ約9メートルの門が10基あり、ダンテの神曲の九つの地獄にちなみ、被爆を10番目の地獄として、平和な未来への希望を表現している。
今日は、平和大通りについて勉強をさせてもらいました。
供木運動で、世界からも苗木が贈られたというのは、今回はじめて知りました。
現在、約150種2,200本の樹木が植えられているんじゃそうな。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
今回は、「ひろしまファンクラブ 第167号 平成20年11月27日(木)発行」から出題させてもらいました。感謝!
「ひろしま通」の過去問は、「ひろしまファンクラブ」というメールマガジンに出とります。
ほいじゃあ、またの。