通でがんす

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厳島の最南端にあたる場所は?

2009年11月23日 | 広島の話題

宮島厳島)は花崗岩(かこうがん)からなる周囲30キロの島で、約6000年前に本州と分離して島になったといわれる。
弥山は標高535メートル、岩船岳(いわふねだけ)は466メートル。
1996年、厳島神社の社殿を中心にした建造物群と前面の海の一部、弥山を含む山林の計約432.2ヘクタールが世界文化遺産に登録された。
2005年、廿日市市に編入合併され、約2000人の人が住んでいる。


【問題】
厳島の最南端にあたる場所は次のうちどれでしょうか?

1.聖崎(ひじりさき)  2.革篭崎(こうござき)  3.弥山崎(みせんざき)  4.夫婦崎(めおとざき)


【ヒント】
竹や籐などで編んだ上に皮を張った、蓋(ふた)つきのかごを重ねたように見えるところから名付けられた。



宮島検定は2009(平成21)年11月29日(日)実施です。



【正解】
2.革篭崎


【解説】
わしゃ毎年、正月三が日に宮島に詣でるんじゃが、島をぐるっと廻ったことは、まだないんじゃ。
そこで今回は、テキスト『宮島本』を元に解説していきます。
こちらの地図を見ながら、船から宮島を見るつもりで、想像力を働かせながら読んでみてください。


船は厳島神社を出発し、宮島を右手に見ながら、北に進んでいく。
宮島の島影は「観音様の寝姿」に見えるといわれる。

まず目に入ってくるのが、大鳥居(おおとりい)。
朱色の大鳥居は本社火焼前(ひたさき)から88間(けん。約160メートル)の沖合いに、鳥居全体の重みだけで立っている
高さは約16メートルで、奈良の大仏とほぼ同じ高さ。
現在のものは1875(明治8)に再建されたもので、平安末期以来8代目にあたる。
鳥居の屋根の両側には、陰陽道(おんみょうどう)の影響か、笠木(かさぎ)に「太陽」(東側)と「月」(西側)がはめ込まれている。
3.大鳥居~巨木の迫力 旅人を魅了 神宿る 宮島の素顔 中国新聞

また、このあたりは潮干狩りでにぎわうところでもある。
23.潮干狩り~旬の味覚 原始林に感謝 神宿る 宮島の素顔 中国新聞


厳島神社と宮島港の間に有の浦(ありのうら)があった。
厳島八景」では「有浦客船(ありのうらかくせん)」とされ、たくさんの船で賑(にぎ)わい、歌に詠まれたり、絵画の題材になった。
壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)で、安徳天皇を抱いて海に身を投じた二位尼(にいのあま。平清盛の妻)のなきがらが、宮島の砂浜(尼の洲)に流れ着いたといわれている。
そこで二位殿灯篭(にいどのとうろう)を建てて供養したといわれる。
石大鳥居(いしのおおとりい)と呼ばれる、高さ約9.7メートルの大きな石造りの鳥居がある。
これは日本一大きな鳥居を造ろうと発願され、1905(明治38)年にできあがった。
大晦日に行われる鎮火祭では、御笠浜で点火された松明が、この石大鳥居と厳島神社の間を往復する。
石大鳥居付近の海岸に上柳雁木(しょうけいがんぎ)がある。
明治以前まで厳島神社で最も重要な祭事御鎮座祭に際し、安芸国府中(安芸郡府中町)から勅使代行役をつとめる上柳(しょうけい)が来島するとき、ここから上陸したという。
9.鎮火祭~変わらぬ願い照らす炎 神宿る 宮島の素顔 中国新聞


宮島港から対岸の宮島口との間で、JR西日本と松大観光船の2社がフェリーを運航している。
大鳥居を間近で見たいなら、JR西日本で宮島に渡るといい。
所要時間は約10分。
宮島が世界遺産に登録されたことを記念して、2000(平成12)年に桟橋前に建てられたのが、「厳島神社」世界遺産登録記念碑
中央の穴から、大鳥居を望むことができる。
33.船旅~行き交う航跡 今も昔も 神宿る 宮島の素顔 中国新聞


宮島港の北側に長浜があり、長浜神社がある。
管弦祭(かんげんさい)では、地御前(じごぜん)神社から帰ってくる御座船(ござぶね)が最初に祝詞(のりと)をあげ、管弦が奏される。
かつては「八重の浜」と呼ばれ、白砂青松(はくしゃせいしょう)のつづく砂浜で海水浴場もあったが、現在では埋め立てられて景観が変わっている。
37.管絃祭~水面を渡る厳かな調べ 神宿る 宮島の素顔 中国新聞


宮島の北端にあたるのが聖崎(ひじりさき)で、本土との間は約1.7キロ。
背後の山は低く、標高約50メートルの丘となっている。
海上には聖崎灯台と呼ばれる石灯台がある。
この周辺は浅瀬で船の航行に危険があるため、1844(天保15)年に設けられた。
対岸の地御前の人が毎夜、点灯していた。


すぐ近くには杉ノ浦があり、杉之浦神社がある。
御島巡りでは、ここに上陸してお祓いを行う。


まっすぐ南に進むと、海水浴場と自然公園がある包ケ浦(つつみがうら)がある。
包ケ浦の東南端には、海岸線に沿って細長い砂州(長さ約125メートル)があり、砂州の内側は潮汐(ちょうせき)湿原になっている。
毛利元就(もうり もとなり)と陶晴賢(すえ はるかた)が戦った厳島合戦で、毛利軍は対岸の地御前の火立岩(ほたていわ)を出陣し、ここ包ケ浦に上陸した。 1941(昭和16)年、毛利元就上陸碑が建てられた。
包ケ浦の東端の大きな岩の上にあるのが、包ケ浦神社
御島巡りでは御師(おし)は海上で祝詞(のりと)をあげ、朝御饌(あさみけ)の粢(しとぎ)団子を投じ、海上から参拝する。


砲台跡の残る鷹ノ巣浦(たかのすうら)が見えてくる。
ここは広島や呉に入港する大型船舶の航路となっており、この海峡から進入する艦艇を防ぐために砲台が設けられた。
重要な軍事施設であったので、一般の出入りは禁止された。
広島には宇品港(現広島港)があり、日清・日露戦争ではここから出兵していった。
呉には呉鎮守府(ちんじゅふ)が置かれ、海軍工廠(かいぐんこうしょう。戦艦大和を建造した)や海軍兵学校があった。
海軍兵学校では、司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公でもある、秋山真之(あきやま さねゆき。演じるは本木雅弘)が学んだ。
幕末には、広島藩が黒船に備えて台場(だいば。幕末に設置された砲台で、要塞の一種)を設けた。
鷹巣浦神社は1898(明治31)年、鷹ノ巣浦に砲台を建設するために現在の位置に移された。
御島巡りでは海上から参拝する。
16.漁り~照らした獲物 心躍る 宮島の素顔 中国新聞
26.海食門~波が彫刻 岩場のアート 宮島の素顔 中国新聞


腰少浦(こしぼそうら。腰細浦とも)には腰少浦神社がある。
御島巡りでは海上から参拝する。


大砂利(おおじゃり)は谷から海岸まで全域が砂やれきの層になっている。
ここを過ぎたところに、山伏戻(やまぶしもどし)と呼ばれる場所がある。
これは、強情者が御島巡りをすると、ここから舟が進まなくなるというので名付けられたという。


あての木浦(樫ノ木浦、藤ケ浦)には湾曲した砂浜がみられ、引き潮によって南にのびていく。
たくさんの谷から出てきた水は海岸をふさぐ砂山にさえぎられ、内側に潮汐湿原をつくる。


青海苔浦(あおのりうら)には青海苔浦神社がある。
御島巡りでは上陸してお祓いを受ける。


養父崎浦(やぶさきうら)には養父崎神社があり、この沖で御烏喰式(おとぐいしき)が行われる。
29.御鳥喰~巡拝の途 神鴉との遭遇 神宿る みやじまの素顔 中国新聞


山白浦(やましろうら)には山白浜神社がある。
ここだけ「浜」というのは、小高い丘の上にあるため。
御島巡りでは海上から参拝する。


そして、宮島の最南端にあたる革篭崎(こうござき)へ。
岩が革篭(こうご。竹や籐などで編んだ上に皮を張った、ふたつきのかご)を重ねたようになっていることから名付けられた。
硬い花崗岩(かこうがん)が露出していて、城塞(じょうさい)のようにどっしりした独特な風格の景観を見せる。


ここから船を北西の方向に進めると長浦があり、あての木浦と同じような潮汐湿原がみられる。
東南端の崖から海寄りに岩があり、真ん中がきれいにくり抜かれてトンネルのようになっていて、これを海門食という。
南東海岸近くには、波などで掘られてできた甌穴(おうけつ)があるが、これは海ではあまりみられない。


宮島の南西端に平根がある。
ここでは波食棚(はしょくだな。「海食台(かいしょくだい)」とも)があり、宮島の中で一番広いもの。
波食棚は海岸が波に洗われて崖が削られることで、海面近くに平らな岩しょうができたものをいう。


平根の北側に須屋浦があり、須屋浦神社がある。
御島巡りでは上陸して参拝し、直会(なおらい)を行う。
40.ハマゴウ~砂浜包む清らかな香り 神宿る みやじまの素顔 中国新聞


その北側に御床浦(みとこうら)があり、御床浦神社がある。
神烏伝説で、佐伯鞍職(さえきのくらもと)が朝廷から御殿を造る許しを得る前、御祭神(ごさいしん)を最初に祀った所。
鎮座している大きな岩の裂け目の模様から、厳島神社の御神紋(ごしんもん)「三ツ亀甲剣花菱紋(みつきっこうけんはなびしもん)」が生まれたといわれる。
41.御床神社~波間に浮かぶ亀裂 厳か 神宿る みやじまの素顔 中国新聞


内侍岩(ないしいわ)と呼ばれる岩がある。
徳大寺左大将実定(とくだいじさだいしょうさねさだ)卿が、有子(ありこ)内侍を見初(みそ)めた。
彼女は、帰京する実定卿の船を追い、この岩で別れを惜しみ悲嘆したといわれる。
厳島神社では、巫女のことを内侍と呼ぶ。


室浜(むろはま)は大野瀬戸で対岸との間が一番狭いといわれ、対岸とは500メートルしか離れていない。
そのため、1898(明治31)年に砲台が設置され、今でも砲座や弾薬庫、兵舎跡が残る。
砲台は1926(大正15)年に廃止され、1963(昭和38)年に広島大学大学院理学研究科附属宮島自然植物実験所の所管となった。
ここは裏山から2つの谷が合流して流れ出でおり、海岸は扇状地となり砂浜になっている。


多々良潟(たたらがた)は、大野瀬戸に流入する河川が河口に土砂を運ぶことでできた潟。
36.シオマネキ~「白扇」干潟で振り振り 神宿る 宮島の素顔 中国新聞


大元神社がある大元浦は、江戸時代の「厳島八景」で「大元桜花(おおもとおうか)」として、春の桜の名所にあげられている。
大元神社は本殿の屋根が「大元葺」と呼ばれる「六枚重ね三段葺き」で、全国に例を見ない工法で葺かれている。
毎年1月20日には、「百手祭(ももてさい)」と呼ばれる御弓神事が行われる。
神職が天に向かって、次に左に向かって矢を放つ。
その後、裏面に「甲・乙・ム」を謎字にした「●(「鬼」の字の上にある「ノ」を取った字)」の文字が書かれた的を射る。
終わって地に向かって、次に右に向かって矢を放つ。
祭が終わると直会(なおらい)に、古来の神饌(しんせん)の形式を伝えているといわれる「餝飯(ほうはん)」が供される。
餝飯は煮炊きしてあって、栄養のバランスがとれており、戦国時代の兵糧食といわれる。


厳島神社の西側に西松原(にしのまつばら)がある。
昔は、西回廊の出口にある大願寺付近は砂洲(さす)で、熊毛の洲と呼ばれていたといわれる。
江戸時代、紅葉谷川の土石流により社殿が被害を受けたため、堤防を築いて流路を変えて現在の御手洗(みたらい)川ができた。
これらの土砂や浜に堆積した砂で、御手洗川の河口に堤防を築いてそこに松を植え、徐々に西松原ができあがった。
1954(昭和29)年、平清盛の功績を讃えて、清盛神社が建てられた。
毎年3月20日に清盛神社祭が行われる。


船は、厳島神社に戻ってきた。

毎年8月14日、厳島神社の大鳥居沖約500メートルの海上で、宮島水中花火大会が繰り広げられる。
旧暦8月1日(八朔)には「たのも船」を流す。
42.花火~空に 水面に 光の扇舞う 神宿る 宮島の素顔 中国新聞
48.たのもさん~農作物への謝意 海渡る 神宿る 宮島の素顔 中国新聞

満潮時には、海に浮かぶように見える厳島神社。
潮の干満を利用した設計は海上木造建築物としては例がなく、国際的にみても珍しい。
海上にあることで台風の被害や高潮の影響を受けやすいため、床の木材を隙間を空けて敷くなどの対策を取っている。
被害を受けるたびに大規模な修復を行う、つまり、修復することを前提に建てられた社殿でもある。
10.朱の回廊~幾多の危機 島民が救う  神宿る 宮島の素顔 中国新聞
46.高潮の夜~迫る海 ぎりぎりの調和 神宿る 宮島の素顔 中国新聞


安芸の宮島 廻れば七里、浦は七浦、七恵比須」と謳われる。
杉之浦神社・鷹巣浦神社・腰少浦神社・青海苔浦神社・山白浜神社・須屋浦神社・御床神社が、それにあたる。


長い船旅になりました。
最後までおつきあい、ありがとうございます。


今日は革篭崎を始めとした、宮島の海岸線の自然や神社について勉強させてもらいました。
今回初めて知ったことがたくさんあって、書き出すことができません。
宮島を一周して、この目で確かめてみんにゃいけんのう。
今日はたくさん勉強になったでがんす。


今回は、「宮島検定サンプル問題」の「問16」から出題させてもらいました。感謝!


ほいじゃあ、またの。

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