先月末に突然飛び込んできたニュース。
「永源寺で井伊直滋の甲冑見つかる」
それだけなら、実は「ふーん」程度のニュースなのです(永源寺でも直滋の供養を行なっている)。問題はその甲冑の形でした。
金の脇天衝です。
これは彦根藩主のみに許された形でした。直滋さんは井伊直孝公の嫡男に生まれ、長く世子をしていて正室も彦根城を築城した井伊直勝公(直継、直孝の兄)の娘でしたから、正式に彦根藩主を約束された人物でした。
剣が強く、文化人でもあったのですが徳川家光に気に入られすぎて直孝が危機感を感じて藩主の座を譲らないまま直滋は百済寺で出家したのです。
つまり、藩主に極めて近い人物でありながら藩主にならなかった人物なのに藩主仕様の甲冑を作っていたことになります。
これは、彦根藩の定説が覆る発見です。
そんな直滋さんの甲冑が永源寺で公開されていました。
写真許可を声掛けしていただいて撮影。
脇天衝は立派で藩主仕様と遜色ありません。
兜も赤備えのそのままです。
位牌に手を合わせ…
この甲冑が元禄年間に江戸藩邸から見つかった経緯を書いた犬塚家の手紙も見れます。
直孝公が元老として江戸詰めであったため、彦根に居ることがあった直滋さんなのですが、甲冑は江戸にあり、わざわざ永源寺に運んでいるのも不思議です。
直滋さんが何歳くらいの頃に作られたのか?
同じく藩主になれなかった十代藩主直幸公の世子直富さんの脇天衝甲冑も存在するのか?
ますます興味湧きます。
その後、百済寺の直滋さんのお墓に参りました。
いつもながら、空気がピンッと張り詰めながらも決して冷たい感じはしない聖地です。
そのまま、百済寺を見学。
素晴らしい庭園
ここは遠望がきれい。
そして、信長以前の石垣も観れます。
この時期限定の湖東三山の御朱印もありました。
関連地:東近江市 永源寺 百済寺
「永源寺で井伊直滋の甲冑見つかる」
それだけなら、実は「ふーん」程度のニュースなのです(永源寺でも直滋の供養を行なっている)。問題はその甲冑の形でした。
金の脇天衝です。
これは彦根藩主のみに許された形でした。直滋さんは井伊直孝公の嫡男に生まれ、長く世子をしていて正室も彦根城を築城した井伊直勝公(直継、直孝の兄)の娘でしたから、正式に彦根藩主を約束された人物でした。
剣が強く、文化人でもあったのですが徳川家光に気に入られすぎて直孝が危機感を感じて藩主の座を譲らないまま直滋は百済寺で出家したのです。
つまり、藩主に極めて近い人物でありながら藩主にならなかった人物なのに藩主仕様の甲冑を作っていたことになります。
これは、彦根藩の定説が覆る発見です。
そんな直滋さんの甲冑が永源寺で公開されていました。
写真許可を声掛けしていただいて撮影。
脇天衝は立派で藩主仕様と遜色ありません。
兜も赤備えのそのままです。
位牌に手を合わせ…
この甲冑が元禄年間に江戸藩邸から見つかった経緯を書いた犬塚家の手紙も見れます。
直孝公が元老として江戸詰めであったため、彦根に居ることがあった直滋さんなのですが、甲冑は江戸にあり、わざわざ永源寺に運んでいるのも不思議です。
直滋さんが何歳くらいの頃に作られたのか?
同じく藩主になれなかった十代藩主直幸公の世子直富さんの脇天衝甲冑も存在するのか?
ますます興味湧きます。
その後、百済寺の直滋さんのお墓に参りました。
いつもながら、空気がピンッと張り詰めながらも決して冷たい感じはしない聖地です。
そのまま、百済寺を見学。
素晴らしい庭園
ここは遠望がきれい。
そして、信長以前の石垣も観れます。
この時期限定の湖東三山の御朱印もありました。
関連地:東近江市 永源寺 百済寺