大田南畝は御家人であり、戯作者であり狂歌師でありその他さまざまな文化人として知られ「大田蜀山人」との号も知られた人物です。
平賀源内に才能を愛されて、19歳の時に寝惚先生という名で『寝惚先生文集』と言う狂歌集を出し評判となります。
そして四方赤良の狂歌名で、「四方連」と言う狂歌グループも作るのです。
蔦屋重三郎とは、南畝が青本にランク付けをしていた『菊寿草』で朋誠堂喜三二の『見得一炊夢』に最高の評価を付けたことで、蔦重が南畝のところにお礼に行ったことで縁を深く持つようになり、この出会いが田沼時代の文化を牽引しました。
また、田沼意次政権下で蝦夷地探索を担った土山宗次郎と繋がりがあり南畝と宗次郎はよく吉原に入浸り二人とも吉原の遊女を身請けして妾にしていますが、田沼意次失脚後には宗次郎と共に吉原に入り浸っていたことなどが公金横領で得た金ではないか?と、問題視され狂歌などから身を引きます。
それでも松平定信を風刺した「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶぶんぶといひてよるも寝られず」の狂歌の作者とも言われてしまいますので、世間に知られ過ぎるのも良し悪しかもしれませんが、もしかしたら本当に南畝の作かもしれず、否定しながらも腹の底で爆笑する姿も似合う気がします。
その後は幕府の学問吟味制度を首席で合格、同じ時に遠山景晋(遠山景元の父)も合格していて二人とも活躍するようになります。
南畝は特に大坂に赴任した時に活躍したので、江戸を離れたことが良かったのかもしれません。
亡くなる前の辞世の句は「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」
死ぬ直前まで遊び心があったと思います。
大田南畝の墓(文京区白山 本念寺)



