彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:萬延に改元(3月18日)

2010年03月18日 | 何の日?
安政7年(1860)3月18日、元号が“安政”から“萬延(万延)”に改元されました。

萬延の言葉は、菅原為定が勘申(先例を調べ上申)し『後漢書』馬融伝に登場する“豊千億之子孫 歴万載而永延”から採用しました。
漢文はあまり得意ではありませんが、永遠の先の子孫まで喜びが続くというくらいに読み取れるのですが、詳しい方はお教えください。
余談ですが、安政は『旬子』“庶人政安然後君子位安”でした。
これは、庶民が安泰だったら自然と君主も位を保てるくらいの意味でしょうね。

しかし、安政年間は庶民は黒船来航以来の諸外国の外圧や、安政の大地震と安らかとは程遠い混乱の時代を送り、権力者は安政の大獄や桜田門外の変といった位を保てない事件に遭遇したのです。

改元の理由として、安政の大地震と桜田門外の変に代表される世情不安が挙げられますが、この改元には反対の声も多かったのです。
それは、翌年2月には定時改元(なんて言葉が有るのかどうかは分かりませんが)する事が決まっていたからでした。

これは中国の漢代の思想で、「辛酉の年は人が冷酷になりやすい」という『辛酉革命(しんゆうかくめい)』に基ずいたモノで、日本でも昌泰4年(901)に三善清行が提唱して以来、朝廷はこの辛酉の年には(二度の例外を除き)必ず改元を行ってきました。(今は明治以降の一世一元制の適用からこの改元が無くなっています)

明治以降の日本でも2回辛酉の年があり、
一度目の大正10年(1921)には原敬首相が暗殺されて、高橋是清が首相になっている。
二度目の昭和56年(1981)は権力者の交代はないですが、前年に大平正芳首相が在職中に病死して、鈴木善幸首相に交代しているるのです。
どちらも他に余り例を見ない(犬養毅首相と小渕恵三首相ぐらい)政権交代でした。


つまり、一年も満たないうちに辛酉の改元があるに“萬延”改元にどれほどの意味があるのかが大きな問題となったのでした。
しかし改元は強行されたのです。


余談ですが、作家の宮城谷昌光さんは著書の中で元号の出典がその時代を反映している事を指摘されています。これを勘申者が自分でも気が付かない超人的な閃きなのか、人智を超えたモノの伝言であるのかは今回のテーマではありませんが、宮城谷さんは平成の出典から災害が多くある事を仄めかされていました。
その目で、“萬延”を見ると、『後漢書』馬融伝。
馬融は中国の後漢末期、桓帝の頃の学者でした。桓帝と言えば『三国志』の始まりで有名な“黄巾の乱”の原因となった“党錮の禁”が起こった頃です。
馬融はその才能から幾度も役人に登用されますが、権力者に従わずに罰を受けて野に下る事も多かった人物でもありました。その弟子には『三国志演義』で劉備の師として登場する盧植が居ます。

こう考えると、出典がその時代の滅びに向かう時期であり、馬融も権力に屈しない人物でありそんな教育を後に繋げた人でした。
江戸幕府が揺らぐ様相を見せ、権力に屈しない志士が登場し始める時代の元号に“萬延”が選ばれたのはそんな何かの呼び寄せが有ったのかもしれません。
コメント
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