goo blog サービス終了のお知らせ 

彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『直江兼続と石田三成』

2009年09月05日 | 講演
『ひこね市民大学講座』で今回は、童門冬二先生の講演『直江兼続と石田三成』が行われました。
今回は『どんつき瓦版』で文章起こしをする予定がありませんので、管理人が書きとめた内容をご紹介します。




直江兼続と石田三成の出会いはお互いが26歳の時にそれぞれの主君の代理としてでした。
その時に何の話をしたかと言えば、石田三成は羽柴秀吉の“天下人”の仕事、直江兼続は“地方自治”の話をしました。
秀吉は織田信長の遺志を継いだ天下人ですが、その仕事は何かと言えば…

今回の聴講された方は、
1.彦根市民
2.滋賀県民
そして
3.日本国民
です。

この内で1と2は地方自治ですが、3として「ああして欲しい」「こうして欲しい」というのを、今回の政権交代で民主党の鳩山さんに要望します。石田三成はその3の話をしました。

「上杉さまは立派に地方自治を行われましたが、越後の民は天下の民でもあるのではないか?
天下の民となると貨幣や経済・教育・大規模開発・外交など要望する内容が変わるでしょう。これは上杉さまでは出来ない仕事ですが、民は要望する。それを羽柴がやるのだ」と…


織田信長は、近江に進出する前に羽柴秀吉に近江の気質を調査させたと思います。
尾張には古い時代から“あゆち”思想がありました。これは【倖福の風が海から吹いて来て日本の四ツ辻にあたる尾張の国に吹き寄せる】という伝説です。『万葉集』の時代から“あゆちの風”は歌に出てきますが、これはユートピア思想でした。
あゆちの風によって地域が倖せになる。信長の思想は天下にこのあゆちの風を吹かせるのが理念だったと思います。

ですから信長は稲葉山城を取った時に山の上から麓に降りて、民の声が聴き易い場所に行ったのです。そして周の故事にちなんで岐山から、山を低くした丘という意味の阜に変えて“岐阜”としたのです。
そして、近江では家臣の館が集まる居館都市としての安土城を創り上げたのです。
これはおそらく越前一乗谷の居館都市の立体化ではないか?と思っています。安土は信長の命名で、学者さんが議論して「平安楽土の略であろう」という説で落ち着きました。平安楽土も一種のユートピアですので、やはりあゆちの風を示したのではないか?と思います。
私は“あゆち”と“あづち”と語感が似てるな?と思っています。

そんなあゆち思想のポリシーを秀吉が引き継ぎ、三成から直江兼続、上杉景勝に伝わったのです。
秀吉は、天皇の名によって日本国内での私戦を禁止しました。しかしこれに従わない地方大名が居ました。秀吉はこれらを征伐として天皇の命として軍を出しました。この軍は天皇の軍=官軍であるという構成をしたのです。

秀吉もまたこの国を平和にしたいというあゆちの風を日本全国に吹かせる理想をもったのです。
直江兼続は目から鱗でこの話を聞き、地方自治と天下人の考え方を考えさせられたのです。ですから三成は上下関係を求めたのではなく地方自治と天下人の役割を求めたのだと思われます。
しかし、秀吉の考え方が変わり、大名の鉢植えを行うようになりました。大名の領地替えは自分の権限という思い上がりが出て来たのです。
その植物も極力は名門名家となり上杉家も越後から会津に移されました、ここで上杉家は120万石を与えられますが内の30万石は直江兼続の知行でした。
周りは敵になるかも知れない大名が多く、兼続は軍備拡大をします。
そこで上杉に謀反の兆しありという噂が流れ徳川家康の耳にも入るので兼続と親しい西笑承兌が「早い機会に上洛して誤解を解いた方がいいですよ」という好意溢れる丁寧な手紙を送ります。これに対して直江兼続が書いた手紙は“直江状”として知られますが、これは「来るなら来い」という挑戦的な手紙です。
現在では「直江状は直江兼続が書いた物ではない」という説を学者さんが出して居られますが、これが偽書なら『天地人』はこれ以上進まなくなっちゃいます。直江状が関ヶ原の原因となります。
この直江状を見て家康が上杉征伐に出向いて、その時に石田三成が挙兵するのです。小山でUターンした家康が関ヶ原で石田三成との激戦を行います。

石田三成は関ヶ原を脱して再起を図ろうとしますが、盟友の田中吉政の所に出て捕えられ、大津城に晒されます。
石田三成は五奉行の一人です、五奉行には他に長束正家・増田長盛という近江出身者がいて、3/5が近江人となります後に近江商人を生む経営感覚が戦国武士として既に備わってるのが秀吉の狙い目立ったのでしょう。大名は戦だけではなく一国経営の才覚を発揮する人物を秀吉が登用し、近江人の才覚を長浜時代に秀吉が見抜いていたのではないか?という気がします。

三成には三献茶によって秀吉に登用されました。
登用された後では、大坂城に行っても有名な話がありますね。
淀川の葦の利権に関する逸話や淀川の堤防が切れそうな時に米俵を投げ込んだ逸話です。これらの功績を三成は全て秀吉の功として譲ったのです。
関ヶ原の戦いの後に佐和山に乗り込んだ東軍の兵は、経済観念の強い三成ならさぞ財産があるだろうとなだれ込むと、何もありませんでした。
三成は貯蓄ではなく清貧の潔さに生きたのです。
捕えられた三成が護送途中に柿を身体の毒として断った話があります。大津城の前に筵で座らせられていた時も、東軍諸将が次々に嘲りながら通る中で「お前たちは戦には勝ったが心根は卑しい」と言い返しました。黒田長政は馬から降りて自分の陣羽織を三成の方に懸けました。また藤堂高虎は三成の前に座って、西軍の将として藤堂軍の戦いぶりで気になった点を問い、高虎は三成の助言を聞いたのです。

これらの話は、三成は最後の最後まで生きている限り緊張感を解かない、生命を完全燃焼しようとう三成の生き方を表しています。

これは上杉謙信から教えられた「義」の一字を貫いた直江兼続にも繋がります。
しかし敗れる。上杉はこの後1年間戦闘態勢にありましたが、榊原康政や本多信正などの呼びかけで1601年7月に上杉景勝も伏見城に赴きました。
ここで上杉120万石は没収されますが、直江兼続は「120万石の内30万石は私が太閤殿下から頂いた物です、これは返しますが改めて主人景勝にお与えください」と願い許されます。
上杉家は収入が1/4になりますが、兼続は6000人の家臣の内1人たりとも首を切らないでいただきたいと願いました。この家臣と家族は米沢で引き受けましたがどういう風に食わしていくか?は大きな問題でした。
その為にこの先日本がどうなるか?という情報を収集して判断しなければなりません。これを千坂という重臣を京に置いて常に情報を送らせたのです。

ここで、家康に対して朝鮮から国交回復の打診があった情報が兼続の元に入ります。その条件は秀吉の朝鮮侵略で連れ去った3000人の朝鮮人を返す事でした。
徳富蘇峰の『近世日本国民史』では2820人まで返されたが180人はそのまま日本に残留したが、それが本人の意志なのか連れてきた大名の強制なのかは今はもう解らないが、萩焼・唐津焼・有田焼・薩摩焼の始祖は彼らから始まっている。と記されています。
これで日鮮の国交が回復し日本でおめでたい事がある時には朝鮮から賑やかな使節が江戸城にやって来てお祝いをするという通信使という習慣ができました。
明治になってこの制度は絶えますが今はまた復活しています。今は通信使が来るのは皇居ではなく成田空港です。どんな人が来るかと言えばヨン様・チェジウとかですね。日鮮の友好が手を結ぶのは市民外交から始まりますね、これはいい事です。

この様子を見ていた直江兼続は経営理念を農業として武士の意識を変えて行くのです。しかしそのまま給与は払えませんから石田三成の理念に沿った減給を考えます。それは上役ほど多く減俸し下役の減俸率を極力減らし、兼続も自分の知行を6万石から5千石という1/12にしました。
また農業立国には指導書(テキスト)が必要なのでこれを記します。『四季農戒書』を書きました。
内容は面白く1月から12月まで仕事を追っていますが、例えば4月には“田植え”と書かれています。
「田植えの時期には男は朝から田に入って苗を植えろ。女は家に残って美味しい弁当を作れ。そして近隣で相談して弁当を作って届ける者を組織せよ。届ける時には美しく化粧をして一番良い着物を着てその下には赤い腰巻を履きなさい。用意ができたら田の畔道に行き近くに亭主が居ても通り過ぎて畔道の奥まで行きまた戻って来なさい、それを2.3回繰り返し赤い腰巻が少し見えるくらいに裾を捲ってあげあさい、そうすると男のやる気が上がるでしょう」との面白い事が書かれています。
辛い仕事もやりようによってはやる気が出るでしょう。との事なのです。

しかし、当時の兼続の立場は「お前のお陰でこうなったんだ」という戦犯扱いで四面楚歌でした。こんな時にも石田三成を思い浮かべ義を貫いた姿を手本にしたのです。責任を負って腹を切るのは易いが、三成の強い精神力を習い生きながらえて上杉の基盤を作ったのです。
ですから佐和山と米沢の遠く離れていても二人の絆は深かったのです。

100年ほど後に上杉鷹山が家臣に兼続の法要をしているか尋ねると家臣が否と答えたので「兼続は参謀として献策したのであり、それを決定するのは将だ。関ヶ原の合戦で三成に味方したのは将として決定した上杉景勝の責任であり直江兼続は軍師として案を提示したのみだ、法要を復活しなさい」と命じたのです。
上杉鷹山の経営改革のほとんどは直江兼続の政策が基盤となり『四季農戒書』をテキストとしたのです。
鷹山は火種運動を起こしました、この時に「成せば成る、成さねば成らぬ何事も。成らぬは人の成さぬなりけり」との言葉を残しました。これがケネディの大統領就任あいさつの言葉「松明は新しい世帯に引き継がれた」。またオバマ大統領の就任あいさつ「Yes We Can」は「成せば成る」ですね。
こういう形で日本人の改革者お言葉がアメリカの改革者の中に生きているのかな?と私はこう思いたいです。

また、こういう形で佐和山が見直されるのも嬉しい思いです。今は歴史ブームです、あやかり煎餅・あやかり饅頭のような一過性な物ではなく引き継いでいって欲しいと思います。

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9月1日、関東大震災 | トップ | 越前大野訪問記 »
最新の画像もっと見る

4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
天地人 (越後人)
2009-09-28 01:38:32
結局、大和田先生は三成を描きたいのですね
上杉家家臣もろくに描かず、兼続の思想は全て三成の影響と…
 呆れ…
兼続は既に、三成に逢う越後時代から、農業用水を引いたりいそしんでいる
子供の頃、人を大勢集め、治水工事をやったとの伝承もあるほど

越後国主の主君・上杉謙信は、他国を侵略しないように、農業や産業経営に力を注いだ。
戦国時代に学問を納めた武将上位五人として、謙信と兼続の二人が、上杉家から二人も入る
 越後を田舎扱いして、中央から学ばないと、何も分からないと勝手にたかをくくっておられるようだが、当時の日本海側は、新潟湊があり、
謙信の奨励する青そなど上布を織っており、京都の物より上等で、輸出して大いに利益を上げた
他にも鉱山発掘や塩の生産、そして貿易だ(遺した財産は3万両近く)
みな、謙信公が教えてくれたものだ
 謙信公の旧姓長尾家は、代々遠く鎌倉公方の菅領職・上杉家に仕える家柄だ。由緒正しき武家の出なのだ

しかも兼続は、二代目君主・景勝になり豊臣に下ると、京都に得意の歌などで、一流の文化人や京の高僧・南化和尚や西笑和尚などと交流し、多くの貴重な本を賜ったりしている(その内の100冊に及ぶ本が、現在国宝指定だ)

よく調べもしないで偏見で歴史上の人物を判断して、大変無礼な歴史学者だと思った
それで天地人は、あんな人をバカにしたようなドラマに成り下がっているのだと思った
 大変勉強になりました
失礼しました
返信する
Unknown (管理人)
2009-09-28 19:57:11
>越後人さん

このお話は童門冬二さんのモノですから、NHKのドラマには直接関わりがありませんよ。

それに彦根でされるお話なので石田三成が中心になるのは仕方ないと思いますが、いかがでしょうか?

童門さんは以前に彦根で講演された時に「地元で悪口は言わない」とおっしゃっておられましたのでこの形は自然だと感じました。


『天地人』に関しての時代考証は小和田哲男先生ですが、小和田先生の意見は随分替えられてしまっているようですよ、あれはNHKと脚本家と原作に贔屓があるのだと思います。
返信する
二回目です (越後人)
2009-10-06 21:53:16
 こんばんは
この間は突然にコメントを書いた挙げ句、
ろくに敬語も使わずに大変失礼致しました。

 こちらのブログはたまたま見付けたのですが、
越後人として兼続を主人公にした大河ドラマ「天地人」が、余りの酷い出来なので、つい興奮して書き込みをしてしまったようです。
 そうですよね、ドラマの時代公証は大和田先生でしたね、
大変失礼しました。
重ねがさねお詫び致します。

 どうか、ひこにゃん
もとい
伊井直助さんのドラマ化の際には、どうぞ慎重になさって下さい。
義と愛なんて時代に逆行するような人(藩家)ではない限り、大丈夫だと思いますが。

本当にすみませんでした
m(__)m
返信する
Unknown (管理人)
2009-10-07 19:28:43
>越後人さん

いえいえ、地元の方や歴史の本質を好きな人には『天地人』に疑問があるのは否めないと思います。

原作の段階で色んな不安はありましたよね。


『花の生涯』の誘致はまず彦根市をその気にさせるところが難しいので、色んな事を気を付けないといけないとは思っていますが、彦根藩の本質をもっと勉強してちゃんと意見が言えるようになりたいとは思っています。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。