大正12年(1923)9月1日関東大震災が起こる。
細かい記述は敢えて避けますが、死者約22万余人という大惨事であり恐怖心からくる流言が新たな犠牲者も生む悲しい災害にもなりました。
天災なので大きな被害が起きようとも避けようが無いように思われますが、実は18年も前から予測されている事態だったのです。
東京帝国大学の今村明恒教授が明治38年(1905)に『太陽』という雑誌に「過去に江戸では100年に1回の割合で大地震が発生しており、安政の大地震(1859年)からすでに50年が経過しているので、今後50年以内に大地震(都市部は全焼し死者は10万~20万に達すると予測)に襲われる事は必至と覚悟すべき」との論文を掲載していたのです。
これに対して同大学の2年先輩の大森房吉教授は「根拠が無い」と徹底的に否定をしたと言われています。
大森教授としては不確定な予想で人民の不安を煽るのを危惧したようなのですが、結果的に今村教授の予想が的中してしまい、何の準備も出来ていなかった多くの人々が犠牲になってしまったのです。
現在、東海地震についての警告がなされていて様々な準備が行われています。
また滋賀県でも周期的に起こる筈の地震が起きていない事から、警戒を示している人もいます。
災害はいつ起きるか解らないですが、こういった情報には耳を傾けて警戒を怠らないようにしなければいけませんね。
さて、関東大震災をはじめとしてこの先の東京では何度かの大火に見舞われるような事態に遭遇しました。
井伊家では東京にある屋敷に多くの資料を残していた為に、これらの火災で貴重な
品々を焼いてしまう結果となったのです。そんな大火で燃えた物の代表は、当時の当主・井伊直忠が好んだ能面や能衣装と言った能道具でした。
この後に直忠はもう一度コレクションを始めますので、井伊家に残る能道具のほとんどは江戸時代から彦根藩に残る物より近現代で集められた物が多いのです。
そんな多くの文化物が燃える中で、守り抜かれたのが『彦根屏風』でした。それほどに人々を魅了する力を持つのが彦根屏風なのです。
細かい記述は敢えて避けますが、死者約22万余人という大惨事であり恐怖心からくる流言が新たな犠牲者も生む悲しい災害にもなりました。
天災なので大きな被害が起きようとも避けようが無いように思われますが、実は18年も前から予測されている事態だったのです。
東京帝国大学の今村明恒教授が明治38年(1905)に『太陽』という雑誌に「過去に江戸では100年に1回の割合で大地震が発生しており、安政の大地震(1859年)からすでに50年が経過しているので、今後50年以内に大地震(都市部は全焼し死者は10万~20万に達すると予測)に襲われる事は必至と覚悟すべき」との論文を掲載していたのです。
これに対して同大学の2年先輩の大森房吉教授は「根拠が無い」と徹底的に否定をしたと言われています。
大森教授としては不確定な予想で人民の不安を煽るのを危惧したようなのですが、結果的に今村教授の予想が的中してしまい、何の準備も出来ていなかった多くの人々が犠牲になってしまったのです。
現在、東海地震についての警告がなされていて様々な準備が行われています。
また滋賀県でも周期的に起こる筈の地震が起きていない事から、警戒を示している人もいます。
災害はいつ起きるか解らないですが、こういった情報には耳を傾けて警戒を怠らないようにしなければいけませんね。
さて、関東大震災をはじめとしてこの先の東京では何度かの大火に見舞われるような事態に遭遇しました。
井伊家では東京にある屋敷に多くの資料を残していた為に、これらの火災で貴重な
品々を焼いてしまう結果となったのです。そんな大火で燃えた物の代表は、当時の当主・井伊直忠が好んだ能面や能衣装と言った能道具でした。
この後に直忠はもう一度コレクションを始めますので、井伊家に残る能道具のほとんどは江戸時代から彦根藩に残る物より近現代で集められた物が多いのです。
そんな多くの文化物が燃える中で、守り抜かれたのが『彦根屏風』でした。それほどに人々を魅了する力を持つのが彦根屏風なのです。